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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990122

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野村町・大洲市散策【平成11年(1999)1月22日】



9:30頃、松前町を出発。長岡さんの車に乗って国道56号線を南へ。
中山町の山陰にはうっすらと霜が下りている。

1.鹿野川湖:オシドリ探鳥【野村町貝吹(かいふき)】

☆金剛橋袂に車を停め、橋の上からダム湖を眺める。色鮮やかなオシドリの姿は見えない。カモかオシドリの雌鳥か判別できないが、数羽の野鳥が広々とした湖面を泳いでいるのが見える。

2.バラ大師永照寺【野村町十夜野(とやの)】

・山号:霊光山
・この「とげなしバラ」のある聖地は、延暦10年(791)頃、大師が四国巡錫を続け、釈迦の正法を広めている途次に野宿した聖地とされる。
・当時はバラの蔓が所狭しと茂っており、安眠ができず、大師は法力で「バラの棘」を封じ込めたが、一夜の野宿があたかも10日間の苦業の如き野宿であったとの伝承で、この地方を昔から十夜野(とやの)と称している。
・この「とげなしバラ」の霊地に参詣して一心に祈願すれば、一切の煩悩のトゲは滅除されて霊妙不可思議な霊験を被り、心願は悉く達成し霊感に歓喜する。

●お砂ふみ

・春は4月21日、夏は7月21日。

●とげなしバラに関する伝説

 大師の野薔薇の上の一夜の野宿は「十夜」の苦しい修行と同じであった。「里人はこの野バラの棘で苦しむであろう」と、大師はこの土地の人の為に棘を封じ込めた。そして「他の土地に移すと棘が出て天罰にあいますぞ。くれぐれも注意しなされ」と言われたという伝説が残る。
 未だに不思議な事がある。高知の学生がそれは迷信と、バラの移植の実験をしたところ、棘が出始めると家でも親戚でも不幸・災難が続き、自分は大変な交通事故をして「ただ私は深く後悔します」を懺悔参りに来た。
 大正12年の官憲が「バラ大師は現代の邪教」と決めつけて、大師の尊像を警察に拘引、暴挙した。その為か、不思議なことに当時の署長や巡査部長など警察当事者達の身上に死者・発狂者が続発した。そして昭和25年3月、愛媛新聞社野村支局長や信者達の要請で当霊地に28年ぶりに返還された。
 バラの小枝を盗み帰り、急に原因不明の腹痛に罹ったり、棘が出始めてから病気になり入院、その日に高いところから落ちたとか、急に親友と不仲になったといった話もある。

●とげなしバラ

・野村町指定天然記念物 第4号(昭和39年12月指定)
・学名:テリハノイバラ
・南予一帯の山野に自生するバラの一種で、このバラはトゲがないのが特徴である。6月下旬に白い花が咲き、秋には赤い実がつく。
・このトゲのないバラは、その昔、弘法大師が四国巡錫のとき、ここに野宿っされバラのトゲの痛みに悩まされ、この土地の里人のためにトゲを封じ込められた「とげなしバラ」と伝承されている。
・持ち帰ると、色々の災難にあう人が有ることが未だに不思議なことである。

●六波羅蜜井戸

の六波羅蜜井戸は、町内全地区に水道設備の無い昭和初期のある日、弘法大師野宿の聖地「十夜野(とやの)」へ巡拝の同行二人、上田亀次(高知県幡多郡三崎)と伊藤甚蔵(大阪市東淀区)の二人が参拝者への冷水の布施を発願し、井戸を掘ること数年、三日掘っては一日托鉢、托鉢の途中に伊藤忠助と妻タツ(大分県南海郡佐伯町)にあい、賛同協力し、4名は夜苦行の井戸掘りに精進忍■■、七間の深きに達し、昭和5年3月21日にやっと清水が湧き出た。4名は歓喜して次の巡拝地へと出発した。 昭和40年に十夜野地区にも水道が整備された。井戸は危険だと土砂でつぶされていた所を発掘すること数日、冷水一滴も出ない。作業中止にするか、いやあと二尺掘る。不思議や霊水が本堂の方向からコンコンと湧き出る。大師の神通力の■■を受ける。

●南無大願王地蔵菩薩

この中央の大願王地蔵菩薩はすべて地蔵菩薩の淵源である。この台座の土中には、宝永7年に法華経全巻69623の文字を小石69623個に浄書し埋めてある。一字一石塔の菩薩座の上に立っている有り難い地蔵である。諸人曰く「この願掛け地蔵に祈願すればいつのまにか霊妙不可思議な霊験を授かるから不思議だ」と昔から伝承されている。
・家内安全、息災延命、商売繁盛、五穀豊穣、進学合格、就職達成、相縁結婚、安産出生に利益ありという。

●梵鐘

・平成5年4月21日に作成されたもの。「南無釋迦牟陀仏」と記されている。

3.愛宕山公園【野村町愛宕】


4.キャッスルランド深山(みやま)【野村町】

●萬安渓

●萬安の滝

この滝は、その昔、土地の信心なる人々の修行の滝として使われていた由緒ある滝である。真の名称はわかっていない。昭和47年、滝野城築城を始めると共に整備され、新たに「萬安の滝」と命名した。

5.野村ダム【野村町】


6.三島神社【野村町松渓(まつたに)】

・神社の創建は応永7年(1340)3月で、白髭、松渓、鳥鹿野、旭の各部落の氏神社となっている。
☆拝殿、本殿ともに茅葺きになっているのは珍しい。(部分補修は藁を用いているようだ。)

●木造御神像三躯

・野村町指定文化財第16号(昭和47年12月2日指定)
・大山積神、雷神、高おかみ神の三神で、欅材による一木彫である。作者は不明であるが、藤原時代の作といわれている。
☆途中、「樽滝」、「鎌田城跡」という看板が見える。今度、訪れたときには是非立ち寄ってみたいものだ。

7.大洲神社【大洲市】

・境内末社:(向かって左から)天満神社、祖神社/火防神社、若宮神社/宗忠神、水金神社、稲荷神社

8.亀山公園【大洲市】

・大洲市指定名勝(「臥龍及び亀山公園」)
・この「公園」は特定の敷地を指すのではなく、この辺り一帯を指す。肱川流域有数の景勝地である。
・対岸には関西屈指の躑躅園のある冨士山や盤珪国師が開山した如法寺を臨み、下流には山水画的な美しさを見せる臥龍ヶ淵や桂離宮を参考にした臥龍院などのある臥龍山荘があり、伊予の小京都と呼ぶにふさわしい趣にあふれている。また、肱川の美しい流れを舞台に、夏は鵜飼い、秋にはいも焚きが行われ、水郷大洲ならではの独得の風趣がある。
●句碑
「京に似し伊豫の大洲に竹の春」一乱
・昭和41年8月7日、大洲市観光協会、大洲俳句会、大洲白魚火会が建立した。

9.金毘羅宮【大洲市】

☆「川田雄琴一家の墓」を探してうろうろしていると、小高い山の中腹にそれらしき社が見えたので、民家の間の径を通って登ってみると、そこにあるのは、どうみても神社である。

10.興禅寺【大洲市】

●川田雄琴(かわだゆうきん)一家の墓

・愛媛県指定史跡(昭和34年3月31日指定)
・川田雄琴は、名を資深と言った。三輪執斎について陽明学を修めたが、師の執斎が大洲藩主加藤泰温に招聘されたとき、その推挙によって享保17年(1732)大洲藩に仕えた。
・雄琴は、学校設立の必要を思い、藩学の止善院及び王陽(?)明・中江藤樹を祀った明倫室を創建することに成功した。
・また、彼は藩内を巡講して、孝子、貞■の表彰に力を尽くし、「大洲好人録」を著し、かくて彼は大洲藩の教育地形に身を捧げること20年、地方文化の興隆に大きく貢献した。更に嫡子資哲は父の業を継いで28年、資哲の長子資始が4年、そのあと次子資敬が14年、親子三代にわたって実に66年間、大洲藩の教学振興につくした。

11.臥龍山荘【大洲市】

・肱川畔随一の景勝地臥龍の淵一帯は、藩主加藤泰恒候が、桜を吉野から、楓を龍田から移植して風情を加え、歴世の藩主遊賞の地であったが、補修されることもなく次第に荒れていった。
・明治30年頃、河内寅次郎がこの地を購入して、現在の如く建築、庭園などの結構を加えた。
・山荘は不老庵・臥龍院・知止庵・庭園・臥龍蓬莱山とよりなっている。中でも臥龍院は桂離宮、修学院離宮、梨元御常御殿等を参考にして案を練ること10年、大工の草木国太郎をはじめ、漆工・金工・木彫り師などすべて京都の工匠を招き、着工以来4年の年月をかけて完成した。また庭園は、肱川・冨士山を借景し、神戸の植徳が10年を費やして築庭、昔の美しさ、「流れ積み」「乱れ積み」「末広積み」など石積みの工夫もおもしろい。
・山荘の景勝は、四季に亘ってそれぞれ風趣があり筆舌につくしがたい風致である。
・大洲市教育委員会は昭和31年9月、市の名勝に、更に昭和57年4月、臥龍院、不老庵を有形文化財(建造物)に指定している。→県指定有形文化財

12.明治の町並み【大洲市】

・このあたりは、大洲城下で最も古くから開けた土地であり、かつては大洲の中心街であった。巾3.5mの狭い裏通りだが、両側のなまこ壁や腰板張りの土蔵造りが美しい家並みを構成し、裏通りの一画と一連の景観は、裏町三丁目、通称「おはなはん通り」と共に、江戸末期から明治の面影をとどめ、映画やテレビのロケーションが行われる。
・国の文化財保護審議会専門委員で日本建築学会名誉会長である藤島亥治郎氏は、その著「城下町探訪(2)」で、この通りをナポリの裏町と思わせるといい、おはなはん通りはイタリアかスペインの町中を歩いているようだと書いている。
・土蔵造りの家々は、藩政時代から明治にかけて盛んであったこの地方の製蝋の名残をとどめるものである。
☆白壁が剥げ落ち、茶色の地膚がむき出しになっている。想像していたよりも小規模で、朽ちた町並みという感を受けた。

13.おはなはん通り【大洲市】

・おはなはんは、昭和41年4月から昭和42年3月までの1年間NHKの朝の連続テレビ小説で放映された。・原作は昭和37年4月号の婦人画報に掲載された林謙一氏の「おはなはん一代記」であり、これは著者の母である林はなをモデルとして母親の一生を描いたものである。 この原作をもとに、小野田勇氏が脚本を短刀した。物語は、主人公浅尾はな「おはなはん」が明治、大正、昭和と揺れた時代の中で5つの戦乱戦争のなかに生き、女学院を卒業するとすぐ当時陸軍中尉であった速水謙太郎と混乱のうちに見合結婚、二児をもうけたが、夫は日露戦争からもどってすぐに病死し、自分はそれから女医学校に入り、その後助産婦となって、子供を育てていくというバイタリティに富んだ女性の一生を連続テレビ小説化したものである。
☆「明治18年4月2日、伊予大洲の町に元気な女の子が生まれた。折から満開の花にちなんでこの子は「はな」と名付けられた。.....」とあるが、原作では徳島に生まれたとのこと。今回こうして、徳島出身の長岡さんと一緒に訪れていることも何となく奇遇に思えてくる。

14.おおず赤煉瓦館【大洲市】

おおず赤煉瓦館は明治34年12月、大洲商業銀行として建築された。敷地は800uで、3棟の建物で構成されていた。
@本館・事務所:煉瓦造木造瓦葺二階建:257.70u(附属建物として、管理室・宿直室が27.84u、便所が1.84u)
A北倉庫:煉瓦造木造瓦葺二階建:352.22u
B南倉庫:煉瓦造木造瓦葺二階建:40.00u
建物はイギリス積の煉瓦構造で、軒の上部に装飾を置く程度の簡素な外観であった。屋根は寄棟造りで和瓦を葺き、鬼瓦に「商」の文字を入れ和洋折衷の様式をとった。


15.エルンテ大洲【大洲市】

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