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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990430-0501

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西条市/高知県(本川村、吾北村、池川村)/久万町/砥部町散策記録 散策記録

【平成11年(1999)4月30日〜5月1日】



07:40頃、松山市を出発する。国道11号線を東へ。

千人塚(せんにんづか)【西条市野々市】

・市指定文化財
天正の陣のとき、この地方の豪族と豊臣軍の一戦で、敵将はその武勇を称え、戦没者の首を一ヶ所に集めて供養した。
千人塚を探してみたのだが、一向の場所がわからない。よって断念。
禎祥寺の駐車場のおっちゃんが、「野々市原(ののいちばら)」と呼んでいた。

天満神社【西条市】

●天満神社の楠

・県指定天然記念物(昭和31年11月3日指定)
・根周り17m、目通り9.7m、樹高25mの大木。
「くすの木は、関東から九州にかけての暖地に生える常緑の木である。材は堅く光沢もあり、建材・器具材などに用いられ、芳香を放つ。油分は防虫剤・香料・医薬品などの原料に使われる。
 天満神社のくすは、樹齢は明らかでないが、根まわり17m、目通り9.7m、樹高25mもの大木である。また枝張りは東に18m、西に17m、南に24m、北に22mも広がり、境内のほとんどを覆うほどであり、その端整な樹形は県下一と言われている。」(西条市教育委員会説明板より)

●菅原道真公御神徳記

「天満神社の御祭神菅原道真公は五才で和歌を詠み、十一歳で詩を作り、白楽天の再来と言われた。宇多天皇に仕えて、皇太子相伝の壷切剣の制を創始し、長年踏襲の遣唐使を廃止し、学者としては、三代実録、類聚国史その他の編者に当り、右大臣にまでなったが、左大臣藤原時平の■訴にあって遂に太宰■師に落され給うた
 東風吹かば 匂おこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
住み慣れた紅梅殿を後にして配所に行かれたが、■師は名誉長官で実際の仕事はない。
 郡府楼は僅かに■色を見 観音寺は只鐘声を聴く
と歌われた様に、配所にひっそりと暮して法皇や帝の御恩を懐かしく思い起されるばかりであった
 去年の今夜清涼に侍し 秋思の詩篇独り腸を断つ
 恩賜の御衣ここに在り 棒持して毎日餘香を拝す
 学問の神 和歌の神 書の神 剣の神 そして梅花をこよなく愛された丑年丑時生まれの神様道真公が、無実の罪に落されて配所に寂しく■ぜられた
 延喜三年(西暦905年)二月生誕と同じ二五日であった
 人々はその悲■を悲しみ 学徳を慕って神社を建てたが、その数は現在全国で一万、霊験天に満ち、祈れば必ず開いて下さる天満神社−当社はその一郷一社の天神さまなのである 平成元年四月吉日 天満神社元宮司 玉井忠臣撰文」
★9:20頃着

坂元観音堂【西条市】

・天満神社の向かい(北側)にある。
・昭和63年10月に新築落成した。
・本尊:十一面観世音菩薩
・西条新西国 10番札所

★9:25頃拝観


西泉大師堂【西条市】

・西条新西国観音霊場 5番札所
・本尊:種蒔大師
・西泉西集会所横にある。

★9:30頃着


民部塚(丹民部守神社)【西条市西泉東】

・ 「抑々丹家は河野家より出づ四十三代河野通胤大永三年土佐の一柳殿下より丹姓をを賜る代々久万郷笠松城主知行八百貫を領す即ち初代丹大炊介通胤享録四年三月八日六十二代丹市正貞胤弘治三年七月三日卒三代丹大学通豊天正六年四月七日卒四代丹民部守清光天正十三年七月十七日戦死五代丹兵部丞通光芸州■原に落行民部守は笠松城を弟通尤に守らし天正の陣に高尾高峠両城に味方し楢木に土居屋敷を構え知行三百貫を領す身は緋縅の鎧に白籠頭の兜を付け御旗を押立て手兵三百余を率いて出陣武者振り堂々と小早川の軍勢を打破り大いに高名あり天正十三年七月十七日敵将吹上六郎と差違いて戦死法号英勝院殿雄義大居士長男の丹通義は黒瀬山に入る又部党に東條四郎五郎澄久と云ふ豪勇の名を印す
昭和37年10月6日建立 松山市 丹延元 丹長次郎 延元謹書」

★9:40頃着。
★御近所に住んでいると思われる老婆が一生懸命祈りを捧げながら、時折膝のあたりをさする。病気平癒の神として崇められているのであろうか。


加茂川橋を渡って、常心交差点を左折。
JR線路を渡って左折。


禎祥寺/観音堂 【西条市上喜多川】

・電話:西条市商工観光課 0897-56-5151
・駐車場:有料、50台

●禎祥寺(ていしょうじ)

・西条新西国観音霊場31番札所
・宗派:臨済宗東福寺派
・山号:無量山
・奉納額のに、天保3年の水害での奇跡が記されている。8月6日夕方より7日朝に至る大暴風雨の際、難を逃れようと村人達はこの観音堂に集ったが加茂川の水は益々勢いを増し、終に堤防が決壊して水が流入してきた。しかし今教和尚の導きにより観音菩薩へ一心に祈ると本堂上まで浸水していた水は徐々に引き始め、百余人の命が救われた...という内容が記されている。

●「河野通信公並子孫常住之寺」の碑

・昭和47年10月、石川氏が建立した。

●旧伊予国東観音寺 光明天王勅願所記念の碑

・昭和47年10月、河村、藤田、石川氏らが建立した。

●観音堂

◆観音堂のフジ【西条市上喜多川 禎祥寺/観音堂】

・県指定天然記念物
・樹齢 400年余と伝えられる老大樹である。
・種名:ムラサキフジ、ノダフジ
・目通り 2.6m、幹は東西 16m、南北18m(面積210u)の棚に整えられている。
・ゴールデンウィーク期間中(4月25日〜5月10日)が見頃である。
・「のだふじ」は一般にふじと呼ばれ、温帯から暖帯にかけて成育する蔓木で、山地に多いやまふじが左巻づるで花房が短いのとちがって、これは右巻づるで花房は大変長い。
●句碑
★駐車場料金\300を払って車を停める。「松山市内に駐車するより高いやんかぁ」と最初は怒り心頭あらわにしていたが、駐車場のおっちゃんがええ人で、ワシが色々と郷土の歴史などを調べよるという話をしたら、幼い頃のこの辺りの景観などの話を仕事そっちのけで話して下さった。
★380〜390年前から堤防の上には武丈に至る松並木があったという。堤防も今の位置ではなく、観音堂の横の土手が昔の堤防だったという。松並木は戦時中の食料政策で、新田を開拓するために切り倒されたという。松並木があったということは、江戸時代にここに街道が存在したことを暗に示しているのではないだろうか。
★更に時代を遡れば、加茂川は以前はもっと東よりに河口があったという。丁度現在の西条市街地を二分するような格好で流れていたというが、領地を二分するのは良くないと、当時の殿様が流路変更の工事を命令し、今の位置に流れが変わったという。よって、市街地附近には船川などの地名が残っているという。

観音水系(観音水、観音泉)

・西条市名水・銘木50選(平成3年3月指定)
・県天然記念物のふじで有名な禎祥寺観音堂の側にあるので、観音水、観音泉と呼ばれる。
・ここを源とした水系は、アクアトピア事業により「水の都西条」のシンボルとして整備されている。
・この水系の水は、ホタルやアユなどが生息するほど清らかで、市街地を流れる水がこのように美しいのは全国でも稀である。

●五月晴れの像

★上半身裸で腰に手を置き高々と南の空を仰ぐ姿がとても凛々しい。青春だなぁという感じ。


県庁舎前の泉を眺めながら車を走らす。
途中、西条市役所に立ち寄り、観光パンフレット等を戴く。

陣屋跡【西条市明屋敷】

・市指定史跡(昭和39年8月11日指定)
・1640年頃、西条藩主一柳直重が築造した。
・現在は西条高校の敷地になっている。
・寛永13年、伊勢神戸城主一柳直盛は郷国西条へ転封になったが、赴任の途次大阪で病没したため、長男直重が後を継ぎ西条に赴任した。直重は、西条陣屋を築造し城下町を開いた。直重の後を継いだ直興は、寛文5年改易となり一柳氏の治政は30年間で終わった。
・その後、寛文10年紀州から徳川頼宣の次男松平頼英が明治2年版籍を奉還するまで西条は城下町として繁栄した。
・現在陣屋跡は西条高等学校となっているが、校門となっている大手門、門脇の堤、前濠の石崖、お矢来、濠等に昔の面影が偲ばれる。
★時折学生達の雄叫びの声が響く。風情が一挙にトーンダウンするかの如く。

●市立郷土博物館

●愛媛民芸館

★両方とも残念ながら休館日であった。

●西條藩邸址碑

●「お堀」

・西条市名水・名木50選

●「お堀のやなぎ」

・西条市名水・名木50選

神戸公園 【西条市中野神戸】


土居構跡(どいがまえあと)【西条市中野】

・県指定文化財[史跡](昭和23年10月28日指定、久門範政所有)
・天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐で焼失した高外木城(たかとげじょう)の東の館で、現在も昔の建築様式を止めている。

・土居構とは古い城郭の形式である。此処は約六百余年の昔、新居・宇摩2郡を支配した河野通直が築造したと伝えられる。主峯高峠を中心に麓に加茂川の急流をめぐらした城塞の拠点として偉容を誇った高外木城主の平生の居館の跡である。
・時代は移って石川氏がこれに拠ったが、天正13年(1585)の兵乱に建物等一切焼亡して僅かに石垣芝生の犬走等のみ残存している。
・寛永19年(1643)久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承して今日に至っている。
・寛文のはじめ建築した家屋はその後改造を重ねながらなお旧態を保っている。書院の庭園は江戸初期民家の代表的なものとして推奨されている。
・本邸を囲む居樹老樹を含む植物群は旧時よりの居住者の生活様式を類推し得る意義深いものがある。

●典籍七経孟子考文補遣

・市指定有形文化財(昭和45年8月5日指定)

●植物群

・県指定文化財。
・構跡内の植物は約40種で、植物群として貴重なものである。

●塞神


保国(禅)寺【西条市中野甲】

★11:40頃着
・山号:萬年山
・保国寺は、古く聖武天皇の勅願寺として開創され、建治年中(1275〜1277)禅刹となった。

●石庭

・国指定文化財[名勝](昭和50年10月16日指定)
・室町時代(永享年間)の作と言われ、四国最古のもの。
・面積は約700u。
本庭園は第4世大愚和尚のとき(1430年頃)の築造とされている。
・正面築山上に三尊石、その下に枯滝の石組を構え、左右の山畔から池辺にわたって多数の石を配し、池中に亀島をおいてある。
・特に石組は室町時代特有の傑出した手法をみることができ、庭園文化史上価値が高い。

●木造仏通禅師座像

・国指定文化財(昭和46年6月22日指定)
・保国寺開山仏通禅師の座像である。像高78.3cm、等身大の木彫りの像で、肖像彫刻の代表的仏像ある。
・正和元年(1312)禅師の没後間もない頃の作と思われる。
。この倚像は、もと本山東福寺に安置されていたが仏遍禅師が保国寺中興の高僧であるため江戸時代の末期、乞うてここに移されたものである。
・像の地肌は黒光りしており、俗に黒仏さんと呼ばれている。堂々たる容姿はよく均整が取れ、重厚な顔かたちは、京都東福寺の管長であった傑僧の風格を良く現している。
・鎌倉末期の禅宗頂相彫刻の円熟した技法が伺える。
・昭和45年11月、アメリカのボストン美術館に日本の仏像代表として出典されたこともある。

●保国寺のソテツ

・名水・名木50選(平成3年3月指定)

●石川備中守通清の墓

・石川備中守通清は高峠(高外木)城の最後の城主であり、天正の陣の前年に病没した。
★保国寺の西側に聳える山の頂上に高外木城があった。

伊曾野神社【西条市中野日明】

・祭神:天照大神、景行天皇の第2皇子 武国凝別命を祀る。
・社伝によると、成務天皇28年の創建という古い歴史を持つ。
・現在の社殿は昭和15〜16年に建て替えられたもので、総檜の神明造り(伊勢の皇大神宮と同じ)である。

●下福古墳の遺石

・西条市中野字下福にあった古墳については、天保13年に書かれた「西條誌」に、
「塚穴は大石を積み上げ天井のようにして、内の広さ二坪ばかり、中野村庄屋作之介や組頭平作等が、度々中に這入ったと話している」
と書かれている。その後古墳も開畑・開田により破壊され遺石も散逸してしまっていた。
・下福道路の改修に当たった栗田建設の特別な奉仕により、遺石の蒐集・展示をするに当たり、高橋尚城氏や高橋進氏からも遺石の提供があった。

●宝物館

・入館料:大人200円、小人100円
・館内写真撮影禁止。
★見物客はワシ一人であったが、宮司(年の頃合いは若く、30〜40才)の方が懇切丁寧に宝物の由来等を説明して下さった。
★日本画の巨匠が描いた作品が多数奉納されておる。

●社宝「予州新居系図」

・国指定重要文化財(昭和27年3月29日指定)
・新居氏の一族である東大寺戒壇院の長老示観国師凝然が、弘安4年(1281)に伊予の豪族新居氏の家系を消息文の紙背(手紙の裏側)へ詳細に書いたもので、3.6m余りの横系図である。
・伊曽乃神社の祭神である武国凝別命の子孫が新居氏とよばれ、系図には、上は一条天皇の頃から下は後宇多天皇の頃までおよそ300年間にわたって12世500人が書かれている。
・この新居系図は、和気系図・海部系図と共に、日本三大古系図のひとつに数えられている。
・複製したものが宝物館に収蔵・展示されている。

●社宝「西条祭絵巻(伊曽乃祭礼絵巻)」

・西条藩主がお国自慢として元禄年間に仙台候に贈ったもの。

●秋祭り(10月15日、16日)

●伊曽乃神社の社叢

・西条市名水名木50選(平成3年3月指定)

●大楠

・樹齢500〜700年の老楠。
・目通り幹周約5.5m、樹高約30mの巨木である。

●伊曽野神社の大石【西条市中野日明 伊曽野神社】

 ・伊曽野の神は女神であったが、ある時に西条の奥の加茂川の畔で石鎚の神に巡り会った。石鎚の神は姿も凛々しい男神であったが、二人の神様は一目見るなりお互いに心惹かれるものがあった。
・女神はたいそう恋い悩んで石鎚の男神に結婚を迫ったが、男神はわれはこれから先も石鎚の山で修行を積まねばならぬのでとても結婚はできぬという。しかし修行が終わればその時には結婚するから待っていて下され、私が石鎚の山の頂から大石を三つ投げるからその三つの石の真ん中の石のところに館を作って待っていて欲しいと言われ、そのまま石鎚の山にお昇りになってしまった。やがて山からは三つの石が投げられてきた。そして女神は真ん中のところにお社を建てて待っていられた。一方石鎚の男神は女神が修行の済まぬうちに待ちこがれて上がってこられては大変だと思い、天に向かって上がって行こうと思い、右の足を上げようとした。それ以来、石鎚の神様の像は右足が上がっているのだという。
・なお三つの石のひとつは一の鳥居の右手に今も残っている。

●古茂理神社(こもりじんじゃ)

・中野村(現在の西条市中野)の産土神。
・祭神は木花之佐久夜毘賣命(このはなのさくやひめのみこと)。木花之佐久夜毘賣命は大山津見神の娘で、石長毘賣(いわながひめ)の妹。美人の神で、神武天皇の祖々母にあたり、後世安産育児の神として信仰がある。

●境内社:遥拝社

・加茂・神戸両郷内諸社遥拝所
・古来より本社境外末社を遥拝するために設けられている。

●境内社:天満神社

・祭神:菅原道真公、大物主命、可々背男命(かがせおのみこと)、大山積命、神田大明神
・古来天神さまとして崇められ、文化11年(1814)に勧請された。その後、大正3年加茂村荒川鎮座天満神社を合祀した。
・学問の神様として合格成就に霊験あらたかである。

●境内社:山王神社/厳島神社/妙見神社

・山王神社は大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とする。明治42年船形の鎮守神を合祀した。
・厳島神社は多紀理毘賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)を祭神とする。古く境内桜間の池に祀られた神と併せて下町厳島神社の全祭神を併せて祀る。
・妙見神社は八千鉾神(大国主命の別名)を祭神とする。古来縁結び、病気平癒の神として崇められ、船形の鎮守神を合祀する。

●境内社:瑞枝神社(みずえじんじゃ)

・祖霊(神葬者霊魂)並びに天正の陣に殉じた久門家の祖神を祭神とする。

●境内社:鎮守神社(又野神社)

・又野の村上平兵衛、宇高の高橋孫兵衛、高橋彌一左衛門を祭神とする。
・宝暦3年(1753)、西條藩主頼淳(よりあつ)公定府(江戸在位)で、当時西条藩の苛政に窮苦した農民は藩庁に哀訴嘆願したが容認されず、加茂川原に集まり訴えた。
・ 祭神となっている三名は首謀者として捕えられ、宝暦4年江戸藩からの赦免状が間に合わず加茂川原で斬刑された。後日、藩公がその死を哀れみ三名の霊を境内に祀った。

●境内社:御先神社(おんさきじんじゃ)

・猿田毘古神(さるたひこのかみ)を祭神とする。猿田毘古神は天孫降臨にあたり、先導をした国神。

●寒風山トンネルの岩塊

・寒風山トンネルの坑内工事現場で採取され、平成7年7月高知県との県境到達の記念として鹿島・大成共同企業体より伊曽乃神社に奉納したもの。
・泥質片岩(黒色片岩)

●大倉粂馬翁頌徳碑

・昭和15年11月1日建立
・大倉氏は伊曽乃神社が国幣中社に昇格したときの功労者である。
・南予出身の文学博士山本信哉氏が撰文した。


船形橋を渡り、船形バス停のところから東へ行き、奥武丈(おくぶじょう)にある津越の滝[鮎返りの滝(3m)、雌滝(10m)、雄滝(20m)]でも眺めようかと思っていたが、腹も減ってきたし、時間が時間なので、訪問はまた今度の機会にすることにした。


寒風山トンネルが開通したせいか、真新しい「もうじき高知」という観光案内板が建っている。本川村、吾北村、伊野町の3町村の観光地を紹介している。

石鎚芸術村チロルの森【西条市】

★小休止。ピザ(\390)を買って腹ごしらえをする。ビールも飲みたかったが、我慢。

大樽の滝【西条市】

・名水名木50選
★石鎚芸術村チロルの森よりも、やや上手にある。

川来須大師【西条市】


風透山(かざすきやま)【西条市藤之石】

・西条市と高知県を結ぶ国道194号線の風透(かざすき)山トンネルは平成10年(1998)2月25日に開通した。全長5,494m。

風穴

うすぐも姫

・天正2年 土佐窪川城主山内常清にひとりの娘が生まれ、名を「うすぐも姫」と付けた。幡多郡上山郷の内田野城主 田辺次郎九郎からの縁談申込を強要され、常清は湯月山城主 河野通直に相談の上、姫の身柄を風透山にかくまった。
・暫くして夜毎姫のもとに通う青年が現れ、姫もその青年に段々惹かれていった。
・この青年が何処から来て何処に帰るかわからないので、ある夜、侍女が青年の着物の裾に針を通し、おだまきの糸をつけておいた。翌日侍女と共にその糸を辿っていくと、昔から蛇が住むと言い伝えられている風穴に入っていった。
・姫は余りの事に病に伏し、それ以来青年が訪れることはなかった。
・姫は何時の間にか身ごもり、やがて生まれたのは蛇の子であった。姫は驚きの余り「うす雲を風透山に吹きおろし、桜と共に散りぬべきかは」と辞世の句を残し、止呂淵に身を投げた。

うすぐも姫の墓


止呂明神【西条市藤之石下津地】

この辺りはうすくも姫の伝承が残る。

止呂峡【西条市下津越】

新寒風山トンネル【西条市/高知県本川村】


一之谷渓谷【本川村桑瀬一ノ谷】

・葛原川
★「一之谷やかた」と書かれた幟が至る所に立っている。

大橋貯水池【本川村】


木の根三里郷土の森【本川村戸中】

●木の根三里

・村指定有形民俗文化財[史跡](昭和62年2月1日指定)
・安徳天皇の潜幸伝説で知られる稲叢山(1606.2m)の東南麓に位置する。
・戸中は、昔は内番所のあったところで、吾川郡清水方面に通ずる街道筋にあり、村の要所でもあったが、下流の脇ノ山より通ずる山道は鬱蒼と繁る原生林の中をくぐる往年の地域生活道として一般の交通要路でもあった。木の根が大きく張り出し、岩場・崖の丸太橋など難所が多く、当時往来する人により「木の根三里」という名称が残された。
・本川郷風土記に、「段々と申所此所本川郷往来之道滝のわだ越木の根岩などに取付き往来仕り候」などとあり、いかに難所の多い山道であったか往時の人の姿が偲ばれ、「木の根三里」の表現が理解できる。
・現在はダム建設により、山道は殆ど湖底に沈んでいる。
・東には、平家平(1692.6m)、冠山(1732m)が聳える。

●木の根三里遊歩道

・延長1,152m、幅員1.0mの散歩道である。
・小振りではあるが、ダム湖に流れ込む多段の滝を眺めることもできる。

●木の根三里橋

・1998年3月に完成。
・ダム湖を跨ぐスチール製の吊り橋。総長100m、幅員1.0m。
★公衆トイレ有り。
★世間では「しまなみ海道」の大橋のことをしきりに話題にしているが、このような橋を訪ねてみるのもええもんよ。

長澤ダム【本川村】


山中家住宅【本川村】

★折角来たのに山中家の都合により拝観を差し控えよとのこと。うーむ、残念。
★瓶が森林道まであと18kmというところまで来たので、思わず予定変更しようかと心揺らいだが、本来の計画に戻ることにした。

大森神社【本川村】

大森川渓谷【本川村】

・時間的に苦しいのでスキップ。

清雲禅寺【吾川郡吾北村】

・山号:洞流山
・宗派:臨済宗妙心寺派
・広瀬から右折。国道439号線を行く。

八社鞍馬神社【吾川郡吾北村】

・小川川沿いを西へ。 国道439号線を西に走る途中、右側に鳥居が見えたが、何もなさそうなのでそのまま立ち寄らずに通り過ぎた。

句碑【吾川郡池川町】

「この南 くぼんだ所が 鈴ヶ峠(すずがとお)」
・津野映翠書

木本神社【吾川郡池川町】

★特筆すべきことなし。


右折して、県道362号線「安居公園線」を行く

八所河内神社【吾川郡池川町】

・郷社
★この辺りには「河内xx神社」「川内xx神社」と称する神社が多い。どちらも「かわうち」「かわち」「こうち」と呼べる。「高知」という名との関連付けが気になるところである。

●安居神楽

・文部省特定重要無形民俗文化財(昭和55年指定)

安居小学校跡【吾川郡池川町】

★「宮尾登美子先生の初任地安居小学校」と1文字ずつ大きく描かれた看板がグラウンドを取り囲むフェンスに架けられてているのが見える。よく眺めてみると、最後の「校」の文字の脇に「アト」と書かれているのが微笑ましい。きっと廃校になったのであろう。

氷室天神社【吾川郡池川町】

・手箱山の氷を高知城下へ運んだ時の中継地とされる。
・安居小学校の前辺りに神社へと続く上り道がある。

安居渓谷【吾川郡池川町】

・県立自然公園
・安居川

●もみじ谷

●千仞峡

●見返りの滝

●乙女河原キャンプ場

●飛龍の滝

●荒男谷

●宝来荘

★駐車場脇の檻の中に捕獲された野生の猿が4匹ばかりいる。デジカメを向けると威嚇してくる。

●宝来山

●宝来橋

●喜助淵

・大滝神社の上に直径3mの滝壷があり、意外に深くて大きい。淵の主は大蛇で、昔から数多くの不思議な出来事を残している。中でも、木流し喜助の話がある。
・喜助は、藩主山内氏から手箱山の木を切り出すよう命ぜられ、人夫を連れて入山した。増水時を待って伐採木を川下へ流すため大滝淵に木材を投げ入れたところ、天地一変、雷鳴轟き嵐となり、用材は忽ち淵の奥へと姿を消した。責任を感じた頭領の喜助は淵に飛び込み、奥深くに棲む主に会い、絶対口外無言の約束を誓い、再び上がってくると嵐は静まり木材は浮き上がってどんどん川下へと流れ出した。一行がこのかみのキスケタビへ来た時、淵の中の事を一部始終話してしまった。その途端、喜助は川の中に引き込まれて死んでしまった。

●東陸様

●大滝

●大滝神社


池川神社【吾川郡池川町】

・祭神:伊邪並命、速三之男命、他9神
・三所神社(祭神は熊野三社口伝あれども不詳)、神明宮(祭神:天照皇大神)、石土神社(祭神:伊予石鎚神社と同じ)、当神大明神(大己貴大神)、高加茂神社(一言主大神)の5社を明治3年に合祀し、これらを全称して池川神社とした。
・昭和53年10月鎮座800年を記念し、大屋根銅板葺き替えの大改修を行った。
・例祭:元旦祭(1月1日)、須賀神社祭・合神祭(3月7日)、夏季大祓祭(6月30日)、夏大祭(7月9日)、秋大祭(11月23日)、冬季大祓祭(12月31日)
・池川神楽は秋大祭に奉納される。
・天保9年(1838)2月18日、土佐藩主山内豊資公の許しを得て、三葉柏を社紋とした。

●池川神楽

・重要無形民俗文化財(昭和55年2月1日指定、文化庁)
・昭和35年1月に県指定無形文化財、昭和48年8月に文化庁無形文化財に選定される。
・池川神社社家・安部家を中心に伝承されてきたもので、文禄2年(1593)の「神代神楽記」に土佐の神楽としては最古のものと記されており、舞人の服装も独特である。
・毎年11月土居の池川神社の秋の大祭で奉納される。
・土佐三大神楽に数えられる。

●句碑
「神々の 舞ひおさめたる しぐれかな」



橋の欄干に緑色の河童が座っている。


国道33号線を南下し、本日の宿泊場所を探す。
伊野町の土産物センターへ行って、家族への手土産を購入後、再び北上。「温泉に入りたい」を目標に上がっていくが、適当な場所が見当たらない。結局久万町まで戻り、古岩屋にて車中泊。

八幡神社【久万町】

・県指定文化財(昭和43年3月8日指定)
・八幡神社は鎌倉時代の創祀と伝えられる。現在の社殿は寛政元年から2年に亘って築造されたものである。本堂は鞘堂によって古風を伝える素朴さが守られており、拝殿も簡素ななかに習合の平安期の曲線風や鎌倉期の唐様の感じられる部分があり、内部構造の特徴もこの時代のものとしては珍しい棟梁が地元であり、よく古風を守ったと察せられる拝殿の屋根裏から寛政元年の号を記した尺杖が発見され、確証・指定に至った。
★樹叢も非常に良い状態で残っている。
★郵便局横から東へ堂山神社参道の看板が立っているが、所在不明。

ふもと友愛館/ふもと温泉【久万町直瀬】

★郵便局から1.8km上がったところにある。
★ここから南への眺めは美しい。

鴨宮(加茂宮?)【久万町直瀬】

★下で触れる「小倉さん」がこの名前を教えてくださった。漢字でどう書くのかはわからないが、「かものみや」と呼んでいるらしい。


★郵便局のところに車を停めて、金比羅宮・浄福寺の所在を地図で確認していると、近所にすむ小倉さん(?)が「何しよるですかな」と声を懸けて来てくださった。ワシが怪しい行動をしていたのか、果てさて怪しい風貌に見えたのか、その理由は定かでないが、これこれしかじかと神社仏閣を訪ねている旨を話すと、色んなことを教えてくださった。
★神社、寺を探しながら小道を上がっていくと、通学途中の中学生が「おはようございます」と丁寧に挨拶してくる。忘れかけている純朴さがここにはまだいっぱい残っている。

金比羅宮【久万町直瀬】

★年2回、2月11日と秋(11月)に火祭りという祭りを行っているらしい。仁淀村(だったかなぁ..)にある秋葉神社へ輪番制で2人が御札をとってきて神社に奉納した後、寄り合いをするらしい。

浄福寺【久万町直瀬】

・宗派:臨済禅宗
・山号:慧光山

●イチョウ

・町指定文化財(平成2年8月7日指定)
・樹高22m、周囲5m、樹齢約200年

パステルファーム・なおせ(Pastel Farm Naose)【久万町直瀬甲3110】

・電話番号:31-0065
・「四国で星に一番近いお花畑」というキャッチフレーズがお洒落である。

直瀬小/中学校【久万町直瀬】

・直瀬中学校は平成11年(1999)3月閉校となり、久万中学校に統合された。

●直瀬中学校校歌

「水清らかに 山気澄む 心直瀬の 平和郷 わが学び舎に みなぎるは 勤労の風 進取の気」

五社神社【久万町直瀬】

★伊勢神宮と同じ祭神か?
★地元の人の日参が多いのには驚く。それほど、氏神信仰が根強く残っているということか?それとも単に朝早く神社に訪れたからそう感じるだけなのか?
★「神寄■五社神社」という神額が架かっている。(■:窓の心が木となっている。)
★赤穂浪士だろうか、多くの奉納額が架かっている。
★樹叢はかなり豊かで、杉の高木が林立している。

畑野川中学校【久万町畑野川】

・平成11年(1999)3月、52年間の歴史を閉じ、久万中学校に統合された。

千本高原キャンプ場【久万町】

★何も無いところだが、名が通っているせいか、それともオートキャンプ可能ということなのか多くの人(といっても10数人といったところか)がテントを張って野営していた。

幽谷小人入定の地 【久万町】

●幽谷上人の事歴

・幽谷上人は戦国時代初期の弘治3年(1557)、伊予郡松前町に生まれ、浄土宗を修め南予で研鑚したが、後に霊地を求めてこの地に庵住し、山谷を跋渉して超人的な修行を積み、仏道の奥義を極めて、寛永4年(1627)阿弥陀寺を創定した。功徳の奇蹟は、人々を驚かし、尊崇帰依する者が甚だ多かったが、寛永8年(1631)75歳の時、奥の院の地下に入り入定した。
・上人の徳化はこの地方に至大の影響を興え、お十夜盛りの祭祀や、阿弥陀寺の相撲は昭和の始め迄盛大であった。また地方の子供を集めて寺小屋を開き、学修の指導に力を入れ、その学統は明治大正の時代に及んだ。人々の上人に捧げる畏敬賛嘆の念は、今も多くの伝説となって語り伝えられている。

●はだし参りの参道

・お霊屋(たまや)へお参りする石畳道で、白砂を敷き詰め、清浄な霊地としてはだしてお参りした。明治の頃まで樹木が鬱蒼と茂り、霊気が身にしみる参道であった。

●行場(ぎょうば)

・上人が座禅を組み修行するため自ら建造したもので、周囲は石で囲み、屋根は緑泥片岩の板石で葺き、自然の洞穴を象ったもので、昭和47年に修復した。
・傍らの窪みは閼伽の水を汲んだところである。

●名号石(みょうごうせき)

・堅質の安山岩に南無阿弥陀仏の六字の名号が彫り込まれ、宝珠の彫り添えられたものもあって行場の正面と参道にも建てられている。上人が指で彫ったものと伝えられ、今は苔むしているが、その字体は霊感ほとばしるが如く独得無比のもので、書道の上からも尊重されている。

●墓碑と五輪の塔

・上人入定後に建てたお墓がある。五輪の塔は供養のためのもので古い様式を象っている。

●幽谷上人霊廟

・奥の院として上人が建てたもので、後人が霊廟として尊び鞘堂を設けたので朽敗することなく、火災も免れて当時の建造を伝え、床下には建築の時に設けた上人入定の壕がある。
・正面の扉には上人修行の地の遍路の書き付けが判読される。
・今の霊廟は再建したものである。

遅越の滝【久万町上畑野川遅越】

★道路から300mほど山道を上ったところにある。案内の標が建っているが、見落としやすい。結局、あれこれ探していてもわからないので、仕事中の農家のおじさんに訪ねると、「ほれ、そこんとこを上がっていったらええわい」と教えてくれた。
★滝を見て帰ってくると「どうじゃったかな、暗いけん写らんかったろが。え、写った? ほじゃな、フラッシュたいたら大丈夫よな。」と奥さん共々、気さくに話し掛けてきてくれた。

金刀比羅神社/総河内神社【久万町上畑野川明杖】

・慶應二丙寅年三月の銘の入った奉納俳額有り。
★参道の階段下の広場では、老婆が三人、ゲートボールに興じていた。

善通寺【久万町下畑野川】

・宗派:臨済宗東福寺派
・山号:永隆山

久万農業公園アグリピア【久万町下畑野川】

・千本高原キャンプ場の下辺りに位置する。
★5月3日からのまつりの準備にいそしんでいる。
★建物の中には何があるんじゃろか?と覗いていると、「おーい、お客さんぞぉ」と叫ぶ声が。ワシって何のお客?「あ...ワシ、まぁお客じゃけど、お客じゃないんよ」と意味不明な回答をすると、「ほうかな、お客じゃないんかな」と会話が無理矢理成立するあたり....
★道路脇には多くのロッジが立ち並んでいる。

久万美術館【久万町】

★入館料金500円は高いような気がする...が入っていない身分でとやかく言う筋合いはなかろう。

●モニュメント

「井部栄治先生を讃えて」と副碑が添えられている。

物産館みどり【久万町】

★客の入りが芳しくない。とは言え、こういう自分も単にひやかしで店内を物色しただけで、全然売り上げに貢献していないのだが。

法然寺【久万町】

★すっかり荒れている様子。それとも草木萌える季節なので境内の木々が枝を伸び放題に伸ばしているだけか?
★町の住宅地内にある立派な門構えの寺なのだが、本堂前にはゴミくずが積み重ねられている。勿体無さを感じずにはいられない。

三嶋神社【久万町】


三坂峠【久万町】

●正岡子規句碑

●種田山頭火句碑

「秋風あるいてもあるいても三坂峠」

●へんろ道道標

・明治に造られたもの。「右へんろみち、左松山道」とある。

●檜垣翁顕彰碑

●「四国スキー発祥之地」の碑


湯砥里館【砥部町】

★国道33号線の途中から山道を下りていくと、湯砥里館に辿り着く。折角なんで風呂でも浴びて帰ろうかとも思ったが、またの機会とした。

●坂村真民「砥部温泉祝歌」碑

「砥部砥石砥部焼の地に温泉(いでゆ)まで湧きて和楽の栄えゆくさと」

永代寺【砥部町】

・宗派:真言宗智山派
・山号:清岸山

宮内天満神社【砥部町】

・祭神:大山積神、菅原道真公、淳茂命(菅原道真の子)、北の御方
・第45代聖武天皇神亀5年浮穴一の宮として越智郡大三島より大山積神を勧請し、井川神社と号した。仁和4年春、菅公讃岐守として民情視察の際この地に立ち寄り、姥桜を賞せられ、昌奏4年春右大臣の時太宰府に左遷される時に再度井川神社に来られ、姥桜を賞せられた。この二度にわたる因縁により、天慶..年9月25日国司越智好古神霊を太宰府より勧請して井川神社に合祀し、淳茂命(菅原道真の子)、北の御方を同座に祀り、井川神社を改め国内25天神社の一とした。

●米山書俳句額

・町指定民俗資料

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