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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990514 |
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松山市内散策【平成11年(1999)5月14日】1.善喜寺【松山市余戸中】・宗派:真言宗智山派・山号:月光山 ・院号:法憧院 ・当山の縁起について詳しく書かれた書跡や古記録はないが、ただ伊予旧記によると、遠く歴史を遡ること1300有余年の昔、人皇第36代孝徳天皇の大化2年(646)、名聖道慈律師が伊予の国に来られて余戸の郷に一寺を建立し、月光山法憧院善喜寺とし、自ら開基となって世道、人心の浄化につとめ、或は天下泰平、五穀豊穣、諸人快楽の祈請をなされ、広く人法の為御尽粋されたと伝えられている。折しも天下に悪疫が流行し、世人の恐怖喩えようもなかったところ、律師は勅を蒙り、祈祷の法を修したところ、法益霊験あらたかで、忽ち平癒したので皇帝深く感賞され、その法顕を大変喜び賞せられ、余戸の郷の内700石の地所を下賜せられ、金剛胎蔵両界の曼荼羅をも賜った。尓来、一庵を有してその末寺は、10ヶ寺におよび知行も相当の料あり威勢は拡大した。河野家はもとより足利、源氏の尊信を受け、近郷に数多くの信者をかかえるようになった。このようにしてその堂宇は七堂伽藍を構えて雄大を極め、道後平野に威容を示していた。然し、天正年間(安土桃山時代、1573〜1592)、河野家の衰滅とともに次第に権威をなくし、近郷に権力を振っていた古刹善喜寺も僅かに一小伽藍を残すだけとなり、ただ今では昔の歴史を語るだけになってしまった。現存はしないが末寺であった主なものを挙げると、瀬音寺、大道寺、瑞応寺、牧泉寺、天福寺、千香坊、加多寺、龍門寺、見光庵、長楽寺、観音院等11ヶ寺、因に瑞応寺は針田にあって法華宗となり、天福寺は現在の常法院、観音院は富久部落にあるが住持なし。言い伝えによると本尊の延命地蔵尊は霊験すこぶるあらたかで、たまたま馬に乗ったまま門前に来ると忽ち馬は悲鳴をあげて足を折り、歩くことができなくなってしまった。このことがあって、当時の檀家や信徒はその仏の不思議な力をおそれ敬い、「東門を南側に移して南門に改めたという、今の表門が即ちこれである。 ★山門前西側に六地蔵有り。 2.中央公民館【松山市千舟町8丁目69-4】★今日はわざわざ会社を休んで松山市生涯学習入門コースのセミナーを受けに来たのだ。★今日の演題は「古代熟田津について」で、愛媛大学の松原弘宣先生が話された。松原先生は古墳の出土状況や当時の時代背景から、瀬戸内交通・軍事拠点として重要な位置付けにあった熟田津は「重信川河口」と比定されていた。これには全く賛成である。 3.JR松山駅界隈【松山市】●富安風生句碑「石鎚も 南瓜(かぼちゃ)の花も 大いなり」・昭和12年5月、逓信次官を退官して、7月初めて愛媛を訪れ、まず新居浜に着いた時、愛媛の第一印象を詠んだのがこの句である。 ・南国伊予の明るい大らかさを讃えた四国讃歌である。四国一の高嶺も偉大だが、一輪のかぼちゃの花の命も大きいと見たところに、風生流の「花鳥諷詠」がある。 ・南瓜の花は夏の季語。 ●正岡子規句碑「春や昔 十五万石の 城下哉」4.宝塔寺【松山市朝日ヶ丘】・宗派:日蓮宗・山号:妙見山 ●奥平貞幹の墓・松山市指定文化財[史跡](昭和62年5月26日指定)・奥平貞幹(1817〜1882)は松山藩士で江戸末期の農政家。通称は三左衛門、月窓と号した。藩校明教館で学んだのち、周桑・久万山・和気郡の代官を歴任した。和気郡代官としては殖産興業に尽くし、嘉永4年(1851)温泉郡の税収減少に対処するため、同郡別府・吉田両村(現松山市)の海岸地域の干潟に着目し、山西村(現松山市)庄屋一色義十郎に干拓工事を担当させ、安政5年(1851)に約50町歩の大可賀新田を開いた。また征長の役に彼は薩摩・長州藩に使し、両者の間を奔走した。明治15年4月に66歳で没した。 5.三津浜港【松山市三津1】★朝日ヶ丘から山際を通り、衣山の団地の中を通り抜けて伊予鉄西衣山駅の横に出る。西へと走り、山西にある新田高校前から北へ曲がり、国道437号線の下をくぐり古三津に入る。儀光寺前を通り過ぎて次の四辻にへんろ道の道標がある。ここを左に折れ、再び進路を西へ。祓川1丁目を通りぬけると、宮前川の辺に着く。川縁を北に走り、三津浜銀天街の入口の脇にある住吉神社に行ってみるが、めぼしいものはない。仕方ないので、三津浜銀天街の中を通り抜けてみる。相変わらず閑散としている。昔は賑わったろうに。今ではシャッタを閉じている店が大半だ。(単に金曜日が定休日なのかもしれぬが)★三津浜港へ来たところで、余り目当たらしい(めぼしい)ものはない。 6.三津恵比須神社【松山市三津2】●芭蕉翁塚(あら株塚)・俳句の里城北コース6番「しくるるや 田のあら株の くろむほと」 ・この芭蕉塚は「あら株塚」と呼ばれ、この句は元禄3年(1690)頃の芭蕉の作で、「田里への道すがら」の前書きがある。万延元年(1860)大原基戎が大可賀小松原に建立したもの。「あら株」は「新株」のこと。 花之本大神 「敬へば なほもたたしや 花明り」 ・花の本大神とは、芭蕉を敬い讃えた言葉で、基戎の高弟遠甫(1838〜1909)が芭蕉塚の由来を記している。 |
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