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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990515 |
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丹原町・東予市内散策【平成11年(1999)5月15日】1.安楽寺【丹原町湯谷口】・山号:教王山・四国七福神まいり[辧財天] ・周桑東予新四国第37番霊場 ●安楽寺「弁財天」の由来・1050年の昔、一人の旅僧がこの地を通りかかった。黒染の衣に錫杖を手にしたこの僧を、後世の人はお大師さまと崇めた。・大師は、行手の樹林に神気をお感じになって錫杖を止められた。草庵あり、大池あり、湯煙りの立ち上る中に、白鷺、雉、鹿などの傷つき悩めるを御覧になられ、大師哀れとおぼしめし、日頃信仰したもう。江戸は冬木の弁財天の尊像を刻みて大護摩の秘法を修したもう。鳥どもの傷たちどころに癒え、喜びの羽音とともに山へ飛び去りしと。尊くもこの御尊像は、今なお奥殿に安置してある。 ・文久2年(1862)松山に桂月子という信者あり。江ノ島、竹生島、厳島の日本三大弁財天の御体を安楽寺に勧請した(正面拝殿)。その御尊像は一面八背(はっぴ)で、古く奈良時代より信仰されてきた真言密教の秘法による姿であり、頭上にとぐろを巻く白蛇は由緒ある守賀の神様で密教本来の姿でもある。 ★湯谷口保育園が境内に設けられている。 2.天満宮/喜多留見(喜多留水)神社【丹原町来見】・村社。・昔は、垂水天王社と呼ばれていた。 ●喜多留見神社・天満宮拝殿の左手に建つ。・従来来見部落内に散在していた若宮社(水神社、山神社、高倉社、金刀比羅社、三保神社、和霊神社、御先社、稲荷大明神社)を、明治42年4月に合祀してこの社殿に祀った。 ・大松社は、明治420年7月29日に移転し、単独社として別所に祀っている。 ・この建物は、天保10年大谷口垂水天王社神殿であった。 ●松本豊後守御社・天満宮拝殿左手、喜多留見神社社殿の北側にある小さな祠。3.中川公民館前【丹原町石経】★ふるさとマップが立てられている。4.旧金毘羅街道道標【丹原町長野】●「右こんぴら道」道標・文化八辛未三月建之●「金毘羅大門ヨリ二十二里」道標●「旧金毘羅街道渡舟場跡」碑・昭和61年4月、鞍瀬の松本武氏により建てられた。・「釜ノ口渡シ 最後ノ渡守 当所 戸田愛蔵」と記されている。 5.玉山天神社【丹原町明穂】★拝殿はまるで民家である。鳥居の北側、境内の一角には草相撲の土俵がこしらえてある。★鳥居には、天保四癸巳歳八月吉日の銘有り。 6.安養寺【丹原町明穂】・山号:大乗山・宗派:高野山真言宗 ・東予周桑新四国第36番札所 ●薬師如来堂●仁王門・昭和59年11月に再建された。●句碑・山門の石段の左側(東側)に建てられている。★碑文の句及び作者は判読できず。 7.日吉神社【丹原町寺尾】・「当社ハ昔近江ノ日吉神社ヨリ御分霊ヲ勧請シテ才祀シタ社デ古クヨリ山王権現ト称シテ郷土ノ篤イ尊崇ヲ受ケテイル」と社号碑の裏側に刻まれている。●遥拝社・「綾延神社」と「疱瘡神社、龍神社、石鎚神社、金刀比羅神社、若宮八幡神社、稲荷神社、須賀神社、荒神社、山神社、辧天社」の合祀社の2つから成る。★本殿前に猿の彫り物が...何故猿?豊臣秀吉の幼名「日吉丸」と「猿」との関連か? ★若い杉が真っ直ぐに林立して静かな木々の空間を創り出していて、時折鶯が美声を披露する。が、いかんせん後方の山際から劈くような高速道を走る車の音が突き抜けていく。神様もきっと「やかましい」と御立腹なことだろう。 8.熊野神社【丹原町志川】・祭神:事解男神ほか二柱・社格:村社 ・宝物:神鏡、棟札 ●境内社:九神合殿社(稲荷神、山之神、明神、稲荷神、花ノ木神、佐恵神、妙見神、森ノ木神、楠ノ木神)
●衝上断層・神社西側、志古川河床にある。●柏の木・樹齢約600年・町指定天然記念物 ・神社裏の丘の上にある。 ◆文台城跡 南方山上旦地【丹原町志川】・伊予の国造平維盛の目代は、豪族河野通清に敗れて赤滝城[明荷]に立て篭もり、その部下は文台城[志川]、大熊城[鞍瀬]の両城によって河野軍を防いだ。・中山川に流れ込む二つの支流がある。一つは鞍瀬川、もう一つが志古川である。それぞれの河口の喉頸にあたる地点であり、両城とも赤滝本城を守る前哨的な砦の役目であったが、激戦の末、城は陥落した。 ◆兼頭館跡・兼頭修理亮邸宅前の東方農耕地にある。◆鍾乳洞・薬師堂前洞穴内、東方神社前。9.椀貸しの楠【丹原町志川】・国道11号線の北側にある。・樹齢約600年 10.矢倉大明神社【丹原町石経】●境内社:恵比須神社、天満神社、大森神社11.萬福寺【丹原町関屋】・宗派:真言宗醍醐派・院号:慈光院 ・周桑新四国第54番札所 12.三島神社【丹原町関屋】・昭和60年10月に本殿を改築した。・鳥居には、「文久元辛酉八月吉日」と刻まれている。 ●境内社:乳母神社、滝ノ宮神社、山神社、蓑(?)神社 ★参道は、丁度川によって分断されている。これは、きっと「この川で禊をした後にお参りしなさい」ということだろう。しかし、今ではこの川も水無川。夥しい数の砂防ダムが物悲しそうに列をなして佇んでいる。 13.黒滝神社【丹原町田滝】★黒滝神社から更に上流へと行くと、瀬戸内サーキット場がある。14.布都神社【東予市石延大ヶ市】・社格:村社・勧請年月:不詳 ・祭神:布都主神ほか六神及び秘密祭神 ・当社は延喜式に載する古社(伊予24社、周桑東予市に3社)の内の一社である。仁寿元年(851)正六位、天安2年(858)9月21日正五位を授けられた。 ・文武帝から光孝帝(697〜886)の10帝の間に、62回の勅願有りと社記にあり、位階を給わること12度と記されている。 ・往時四丁四方の境内に美麗を極めた社殿が建立されていたと云う。 ・興国3年(1342)阿波の将、細川頼春の侵攻により焼失し、後に数回遷座し現在位置に小社を建立し祀る。石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔あり、布都神社の本殿跡と伝えられる。 ●保存樹木:モチノキ15.観念寺【東予市上市】◆象ヶ森城址・市指定文化財[記念物史跡](昭和58年7月18日指定)・城主は、風早河野家18将の一人、櫛部肥後守兼久で、天正7年(1579)新居郡金子城主、金子元宅に攻略され、天正8年に討死した。 ・山城は、海抜185mで、庄内側から象、吉岡側がら蝙蝠の姿に見える。曲輪6、堀切6、土塁3、土橋1、堀割1、切岸多く、横井戸など防御機構の規範を備えている。 ◆観念寺の山門と石垣・市指定文化財[記念物史跡](昭和58年7月18日指定)・観念寺は延応2年の創建、山門は天保13年再建。唐様で龍宮門に似て風格がある。正面に寺位を示す「南海諸山」、楼上に雄大な眺望を示す「呑海楼」の扁額がある。 ・高石垣は、松山藩4代定直公が「郡普請」で築造した。粒の揃った流石を集め、面を小さく奥行きを深くした入念な「野面積」の妙技で、300年の天災地変に耐え、当時の姿を残し、美しい。 ◆観念寺仏殿文化八年上梁棟札・市指定文化財[考古資料](平成9年3月28日指定)・観念寺仏殿文化八年上梁棟札は、総高151.2cm、肩高149.1cm、上・下幅とも24.2cm、厚さ2.7cm、頭部の形状は尖頭で、仕上げは台鉋、材質は桧である。 ・棟札には、当時の住職太髄文可和尚自筆の観念寺改築の状況が表面に、裏面には同筆による観念寺沿革の概要や再建に至る経緯等が鮮明に記されている。 ◆観念寺の本堂及び鐘楼堂・市指定文化財[有形文化財建造物](平成2年11月19日指定)・現在の本堂は、文化8年(1811)に再建されたもので、正面入口の桟唐戸や正面と側面の弓形格子の欄間や花頭窓を持った唐様式の建物である。天井板には一枚一枚草花・鳥獣・人物の絵が描かれている。 ・鐘楼堂は、本堂と書院とを結ぶところに位置している。楼の朱色に塗られた桟唐戸と柱や欄干が一層唐様式の感を深めている。 ◆観念寺文書・県指定文化財(昭和31年11月3日指定)・観念寺は、文永年間(1264〜1274)に越智盛氏の創建にかかり、元弘2年(1332)鉄牛和尚の開基による新居氏の氏寺で、昔は末寺30ヶ所があって、松山久松候の祈願寺でもあった。 ・この寺には、足利尊氏の禁制書など同寺の創立から江戸時代初期におよぶ古文書(教書、禁制、置文、下状、譲渡状)102通があり、絹本掛軸に装幀14軸に納められ保存されていて、伊予の豪族神野・越智・新居氏の盛衰を知る必見の資料となっている。 ・境内には単層入母屋造りの雄大な本堂があり、古来「観念寺の門を見ずして結構をいうな」といわれた名建築の楼門もある。 ・又、裏山の三基の宝筺印塔は完全に保存された鎌倉時代の素晴らしい石造文化財である。山頂には中世の城象ヶ森城跡があって、近くの山中には片山古墳もある。 16.本谷公園【東予市】★ちょっと遅いが、ここで昼食(弁当)をとる。★本谷温泉より、やや下ったところに以下の看板が立てられている。 ◆藤ヶ森城址/古屋敷/弓場谷 ・ふるさとこみち-4 ・藤ヶ森城址は、佐川の西、俗称古屋敷の山頂にある。象ヶ森城の属城で、櫛部出雲兼氏が拠っていたと伝えられている。約500mの平坦地になっており、南側に石垣が築かれている。麓の「古屋敷」の地名は城兵の屋敷があったこと、川を挟んで南側の「弓場谷」の名は、当時の武芸修練の場所があったことの名残である。 17.大元神社【東予市河之内】・河之内の引地から奥の地域の氏神で、祭神は国常立尊、天照皇大神である。・大元大権現、大元大明神と呼ばれたこともあり、昔から鎮座の古社である。 ・大明神川沿いの断崖上に境内地があり、古木の茂り森閑としている。 18.金刀比羅大権現【東予市河之内】・医王院の境内横の急斜面の石段267段を登ると、頂上に金刀比羅神社が祀られている。・明治初年に社号を金比羅宮を金刀比羅社と改めた。 ・慶長年間、松山城主加藤嘉明が山頂に勧請した金毘羅大権現を明治に医王院本堂横に移転した後、山頂は神社となり、金刀比羅社となった。 19.医王院【東予市河之内】・宗派:真言宗・山号:杉尾山 ・本尊:薬師如来 ・東予周桑新四国第66番札所 ・光仁天王の頃(770〜781)、伊予の国守河野玉澄の嫡子で、周布郡司の河野益男が建立した。 ・貞治年間(1362〜1363)、兵火のため全焼し、後に山内・僧河・近田の3城主により再建された。 ・本堂横の金毘羅大権現は、慶長年間松山城主加藤嘉明が当院に勧請した。当時山頂にあったが、明治初年に移転した。 20.近田城址/水源地【東予市河之内】・大明神川のきれいな水を台所に送る浄水場の上手の小山に近田氏の拠城があった。・天正8年城主経治は、櫛部兼久とその父兼氏等をかくまったため、新居郡高尾城主の金子勢に夜襲され、櫛部父子と共に炎の中で自刃した。 ・「夜討ヶ窪」の保の木名が残った由来である。 21.夜討ヶ窪の大樫と首塚・胴塚【東予市河之内】・ふるさとこみち-5・天空を覆うばかりの大樫は、胴周り6m、樹高約16mである。 ・樹齢約400年といわれ、市の天然記念物に指定されている。 ・その根元に首塚、少し離れた所に胴塚といわれる小祠がある。昔、夜遅く押し入った野盗7人を鉄砲で退治し、胴と首を別々にして葬りまつったと伝えられている。 22.本谷温泉【東予市河之内】・その昔、舒明天皇や斎明天皇が湯治したという伝説があり、道後温泉・鈍川温泉とともに伊豫の三湯の一つとして古い歴史を持つ。・泉質は清澄な弱アルカリ単純泉で、ラドン、フッ素、硫化水素などを多量に含む良質の温泉で、神経痛や皮膚病などに効能がある。 ・本谷温泉館へは、約4km離れた山奥の源泉から湯を引いている。 ・源泉名:三芳鉱泉1号泉、2号泉
★探訪でずっといごき(動き)っぱなしで汗かいたんで、入浴料300円とタオル代200円払うて、温泉に漬かることにした。浴室の扉をあけると、爺やんが浴槽脇のタイルの上であぬけ(仰向け)になって横たわっておる(ちゃんと股間はタオルで隠しておる)んで、わしゃのぼせてぶっ倒れとるんじゃなかろうか思うて、よいよ不安になりましとい。(ちゃんと息はしておいでたようで...安心安心。)
23.十地院【東予市旦之上(だんのうえ)】・宗派:真言宗・東予周桑新四国第67番霊場 ・天武天皇の勅願所として白鳳13年(685)に大黒山の裾盆地(十地院谷といわれる所)に建てられていたが、約150年前の文化2年に現在地に移転建立された。 ・本尊は薬師瑠璃光如来。 ・移転前は七堂伽藍を備えた堂々たる格式の大寺であったという。 ・河野家より寄進された寺宝の仏画が32幅保存されている。 ●薬師堂●十地院の仏画不動明王像出釈迦弘法大師涅槃図・市指定文化財[絵画](平成9年3月28日指定)・十地院は、大黒山城主旦之上小三郎の祈願寺として河野家より、寺領・仏像・仏画を寄進されたと伝えられている。 ・諸祈願の本尊である不動明王像は、鎌倉時代末期の作、出釈迦弘法大師像は室町時代中期の作、常楽会の本尊である涅槃図は南北朝時代の作であるといわれており、いずれも見事な仏画である。 ●仏画十地院の十二天・市指定文化財[有形文化財絵画](昭和58年7月18日指定)・十地院は天武天皇の白鳳13年(685)泰量上人によって大黒山の麓に建立されたが、戦火によって焼失。天保3年(1831)現在地に移った。 ・立派な仏像・仏画が多数あり、十二天もその一つ。(十二天とは帝釈天など十二の天部で、道場を守護する神である。) ・平安末期、牧谿の作と伝えられる。 ●十地院聖観音菩薩像・市指定文化財[彫刻](平成9年3月28日指定)・本像は、像高102cm、総丈165cmで、寄木造り、漆箔、玉眼で、左手に持つ未敷蓮華を右手で開く通形の聖観音である。 ・胴体部分の着衣や肉取りなどには平安時代の様式が見受けられるが、頭部の髷の高さから鎌倉時代初期の作と考えられる。また、その作風には、天台宗の傾向が見られる。 24.庄内公民館【東予市】★庄内地区の「ふるさとこみち」のパンフレットを戴く。25.実報寺【東予市実報寺甲758】・新四国曼荼羅霊場第35番霊場・伊予六地蔵第1番札所 ●速水句碑「咲き満ちて息を止めをる桜かな」●保存樹木:桜●保存樹木:一樹桜・市指定文化財[天然記念物](平成2年11月19日指定)・「遠山と見し是也花一木」寛政7年(1795)、小林一茶が一樹桜を訪ねて来て、この句を作ったことが「寛政紀行」という一茶の旅日記に記されている。 ・エドヒガンとかウバヒガンといわれるこの種類は、染井吉野に先駆けて咲き、その純白の花は実に見事である。 ・同種の古木が境内になお二本ある。 ●阪本謙二句碑「聖主峰 縹■と雪 新たにす」・平成10年10月建立。 ・阪本謙二は、本名を謙一といい、昭和5年に愛媛県内で生まれ、現在松山市に在住している。元、愛媛県立高校の校長を務めていた。 ・昭和22年に富安風生に師事し、若葉同人、糸瓜編集長を経て、平成5年に欅を主宰した。 ●実報寺山八十八ヶ所霊場・実報寺山の八十八ヶ所は、明治24年、当山63代住職徳永霊仙僧正の時、福正寺の芥川好太郎氏の発願により、芥川近蔵氏はじめ112名施主(白石にその名を刻んである)の方々の寄附により開かれた霊場である。ゆっくりおまいりして2時間のコースである。山上からの眺めは素晴らしい。●俊盛筆聖帝山来由記・市指定文化財[有形文化財古文書](昭和58年7月18日指定)・平安時代の貞観10年(868)実報寺第11代住職俊盛上人が書いた寺の縁起で、正式の名は「予州聖帝山実報寺来由之記」という。 ・縦約30cm、長さ392cmの巻き物で、恵隠法師開山の様子、その後の移り変わりが書かれている。 ・明和6年(1769)の写しも現存する。 ●実報寺の地蔵菩薩像・市指定文化財[有形文化財彫刻](平成2年11月19日指定)・現在、本尊としてまつられている地蔵菩薩像は、木造(材質は楠)寄木造り、坐像で一丈(約3m)ある。 ・寺伝では、行基菩薩作と言われてきたが、鎌倉初期の作と推定される。 ・厨子の扉は平素閉じられていて、33年に一度の御開帳法要の時に開かれるしきたりとなっている。 ●一柳直卿の奉納額・市指定文化財[書跡](平成2年11月19日指定)・一柳直卿は、寛文6年小松藩主一柳直治の長子として生まれ、40歳で跡を継ぎ、三代目藩主となった。 ・詩歌・書画など諸芸に優れていたが、特に書道が得意で、当時の三百諸候中第一の能筆家といわれ、将軍家へも習字の手本を納めたほどであった。神仏に対する信仰が厚く、社寺に多くの額を奉納している。 26.内宮神社(うちのみやじんじゃ、てんのうさん)【東予市楠甲1244】・祭神:天照皇大神、手力雄命、袴幡千々姫命・例大祭:7月25日 ・もとは、現奈良原神社のある山の頂にあったが、文政元年(1818)現在地に遷座したようである。 ・また、ここは午頭天王(ごずてんのう)の角力場として文化5年(1808)地元有志の労力奉仕によって造られたという記録もある。 ・境内社は水神宮、明和9年(1772)寄進の棹石円柱灯籠がある。 ●保存樹木:クスノキ27.世田薬師(世田山栴檀寺)【東予市楠】・新四国曼荼羅霊場第36番札所・本尊:薬師如来 ●世田山遊歩道・瀬戸内海国立公園・えひめの自然100選 ●三宝大荒神●大館氏明公位牌殿・大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重臣として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。・1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死する。 ・墓は山上本堂横に有り、位牌は三宝荒神尊社横にまつられている。 ・太平洋戦争終戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭が行われていた。 ・社殿前には大正12年に大館保存会により顕彰碑が建てられている。 ●花まつり(世田薬師大祭)・5/2228.春日神社/天満宮【東予市楠】・春日神社は供山寺鎮守として祀られていた。・社の側には槙の大木がある。 ・例祭は7月25日。 ・芥川平陸郎政忠(楠部落の組頭で、寺小屋で女子の育成につとめた)は、敬神の念厚く、文化年間、筑前太宰府に詣で、天満宮を勧請し、楠の春日神社の右側へ之を創建した。 ・古くより芥川本家で祀っていたが、今日では部落の神として、天満宮もまた7月25日に例祭を行っている。 29.供山廃寺【東予市楠】●供山廃寺の宝筺印塔・市指定文化財[有形文化財石造美術](昭和58年7月18日指定)・宝筺印塔とは、塔中に宝筺印神(心)■経を納めた供養塔である。法華経を納めたものもあるという。 ・この宝筺印塔は鎌倉時代の作で、東予市では最も古く、石造文化財として極めて重要なものである。 ・誰がどんな時にどんな発願によって建立したかは不明であるが、当時この地に優れた人物が住み、古い大きな寺があったことを物語る重要な文化財である。 ●知足庵の馬頭観世音菩薩像・市指定文化財[有形文化財彫刻](平成2年11月19日指定)・豊田家の御先祖の自安という人が庵を営み、京都で求めてきたのがこの馬頭観世音菩薩像だといわれている。 ・鎌倉時代の作と推定され、身丈43.5cm、総丈70cmの木造坐像である。三面八臂像で二手に印を結び、左手に蓮華・瓶・棒、右手に鉞斧・数珠・索を持ち、蓮華座に輪王座して大忿怒相をしている。 30.道安寺【東予市楠】・宗派:真言宗高野派・周桑新四国76番番外札所 ・本尊は薬師如来で、聖徳太子作と言われる。 大化3年(647)孝徳天皇の勅願所として恵顕上人が開基した。 ・1362年細川頼之の世田城侵攻の際、大きい堂等が焼失した。その後再興されたが、再び戦火を受け、寺領も失う。かつての壮大さはわからないが、境内には礎石があり、奈良時代の河原(複弁・単弁蓮華紋の瓦、布目瓦の破片等)が出土し、歴史を物語る。 ・弘法大師が四国を遍歴巡錫されたとき、道安寺に逗留され、そのとき掘った泉の一つが白井御来迎と呼ばれ、加持水として尊ばれていた。 31.三芳村役場跡【東予市三芳】・JA三芳の前に石標が建っている。32.出張橋(でばりばし)【東予市三芳】・この川はお大師さん川、または真手川という。ここに架かっていた真手川橋を古くより出張橋と呼んでいた。・慶長6年(今から約400年前、1701)、三芳村(中村東、中村西、黒本村)は大洲藩の領地であった。そのため、毎年、年貢の検地・収納・運搬などで代官派遣が行われた。大洲藩としては、遠隔地のため色々と不便を来していた。 ・寛永11年(1634)、松山24万石に蒲生忠知が封じられた。しかし、忠知は参勤交代の途上急病に罹り死亡した。忠知には後継ぎがなく、家は取り壊し、領地は幕府に没収された。その後1年間は大洲藩預かりとなった。大洲藩としては、この際、不便な飛地問題を解決したく幕府に願い出た。それは松山藩と大洲藩の領地交換である。松山藩へ行くのが13208石、大洲藩へ行くのが13472石である。幕府は検討の末、判断し許可を与えた。 ・この年を最後に三芳村の大洲藩代官所時代の出張は終わった。 ・その名残として、出張橋の名が今に伝わっている。 ・翌、寛永12年(1635)伊勢桑名城主松平定行が松山15万石の城主となった。(三芳村が天領となったのは、明和2年(1765)である。 33.光明寺【東予市三芳】・本尊:大日如来・東予周桑新四国第78番札所 ・宗派:真言宗御室派 ・山号:観音山 ●保存樹木:桜(東予緑を守り育てる会、昭和60年度)34.弘福寺[日切(ひぎり)大師]【東予市三芳】●保存樹木:クスノキ●渡辺スエ女の碑・スエ女は渡辺小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟する身となった。スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となった。そして明治36年に亡くなった。・スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。三芳村では後生にスエ女の徳をたたえるため、昭和3年表彰碑を建立した。 35.保内八幡神社【東予市円海寺】●保存樹木:クスノキ[3本]●境内社:周敷神社36.郷土館【東予市周布】●ふれあいの径●ふれあいの像 ●カブトガニ飼育室 ・3匹のカブトガニがいた。この歳になって、はじめて生のカブトガニを見た。何となく感動した。 ●民具展示室 ◆松山藩壬生川浦番所記録・市指定文化財[古文書](平成9年3月28日指定)・秀吉の平定後、壬生川村は政治の拠点であるとともに漁村であったので、港を中心に商業が繁栄し、他村より高税率であったことや、雑税として水主役を義務付けられていたため、鷺森城跡に人を詰めさせ、行政にあたらせた。 ・浦番所は代官所に属し、港湾における通行船舶、通行人、荷物などの検査と、分一銀を徴収するところで、今の税関と港務所にあたり、この古文書は壬生川浦を研究する貴重な資料である。 ◆久米庄屋古文書・市指定文化財[古文書](平成2年11月19日指定)・久米庄屋古文書の内訳は、 @近世初期の土地制度に関するもの A干拓新田の開発に関するもの Bその他一柳監物への提出文書 などの三群16册である。 ・中でも一柳監物への提出文書は、小松藩開藩直前の広江村のあらゆる状況を詳細に読み取ることができる大変貴重な資料文書である。 ◆珠文鏡・市指定文化財[考古資料](平成9年3月28日指定)・珠文鏡とは、古墳の副葬に使われた■(ぼう)製鏡の一種で、珠文(小円点)を密に並べたものや、二重、三重に並べたものもあり、ほとんどが小型で■(ぼう)製鏡末期(古墳時代後期)に作られている。 ・この珠文鏡は直径7.3mで、内区に一列に環状に並べた珠文があり、鋸歯文帯、櫛目文帯を伴っており、損傷は少なく、円満寺古墳より出土されたものである。 37.貝田廃寺跡【東予市周布】・周布公民館ふるさとこみち28番38.大気味神社【東予市北条】・今からおよそ300年前、当地方は虫害や風水害によって大飢饉にみまわれた。そこで村人達が神の助けを求めて建てたのが、大気味神社で、時に宝永2年(1705)のことである。・祭神は、大気都姫神、大国主神、大年神御年神、若年神、猿田彦神で、五穀豊穣、家内安全、息災延命、商売繁盛、交通安全、学業成就、男女和合の七福を守護する。 ・その頃、境内の老大樹に喜左衛門という大狸が棲んでいた。変幻自在の神通力を持っていて、上方にまでその名が聞こえていた。やがて喜左衛門は、怨霊の祟りを鎮めるとともに、大気味神社の眷族(神使い)として祀られることになり、喜野明神(喜の宮)と呼ばれるようになった。 ・喜左衛門狸の伝説は数多く残されていて、童話や研究誌、小説(合田正良「伊予路の伝説」、井上ひさし「腹鼓記」など)にも取り上げられている。 ●保存樹木:ムク●保存樹木:エノキ●狸まつり・5月22日 |
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