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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990529 |
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五十崎町/肱川町/城川町散策【平成11年(1999)5月29日】1.宇都宮神社【五十崎町古田】●五十崎森の宮・祭神:比賣大命・縁起:推古天皇34年(626)、伊予の大守越智益躬が創建した。光孝帝仁和2年(886)10月22日、五十崎森ノ宮として大政官府に登録された。 ●宇都宮神社・祭神:大巳貴命、武御名方命、事代主命・縁起:天正4年、龍王城主宇都宮綱實が氏神を勧請し、五十崎森ノ宮を合祀し、宇都宮神社と改称した。処領内山区11ヶ村の郷社となった。 ・明治40年、神社条例により町内各社を合祀して、現在に至っている。 ・祭礼:夏大祓祭 7月20日、秋期大祭 10月16日 ●境内社:天満宮●境内社:護国神社●ネズミモチ・町指定天然記念物(昭和63年7月22日指定)2.香林寺【五十崎町平岡】3.五十崎町平岡の町並み【五十崎町平岡】●子規句碑「切れ凧や 糸くひともる 鬼瓦」★句碑の前には道標があり、「和紙の里龍宮通り」「宿面街道龍馬脱藩の道」「香林寺」などの行き先が記されている。 4.天神産紙工場【五十崎町平岡】●大洲手漉紙保存会・町指定無形文化財●大洲和紙の里・町指定無形文化財●大洲和紙・通産大臣指定伝統的工芸品(昭和52年10月14日)・愛媛県伝統的特産品 ・大洲和紙の起源は古く、古文書(紙漉重宝記)によれば、「万葉の歌人柿本人麻呂により岩見国(島根県)に紙漉きの技が起こり、その術たちまちにして伊予の大洲に伝われり」と記されている。元禄年間(約300年前)越前の人善之進、平岡郷に来村し、大洲藩紙漉士の師として、現在地を大洲藩和紙の里として以来、古代の五十崎郷は良質な和紙の産地として、国内に名声を博し繁栄を極めた。 ・当時大洲和紙は、大洲藩の専売品として庶民には縁の遠い貴重品であったが、明治の廃藩置県と共に大洲藩専売の恩恵を失い、流通の能力無き庶民は、明治文化に依るペン書きの流入と共に、毛筆に適した大洲和紙の販路に苦しんだ。明治末期において、内子町より紙商、吉岡平衛氏、当五十崎町より事業家、井口重衛氏を輩出し、ペン書きにも適した三椏中心の改良半紙の併産が指導され、再び当地域を業者430名を数えたと言われるまでの国内有数の和紙の産地とした。 ・しかしながら機械文明の発達には対抗しがたく、昭和20年終戦時には74名を数えた業者も、現在は五十崎町内に5業者と野村町に1業者の6業者となった。 5.小薮渓谷【肱川町宇和川下小薮】●八大龍王神社●「龍雲山 肱川新四国八十八ヶ所整備事業完成記念の碑」・肱川お四国学級生一同建立。・平成6年4月吉日、安川正則贈。 ・渓谷遊歩道の入口に建つ。 ●安川正則頌徳碑6.小薮温泉【肱川町宇和川下小薮】●小薮温泉●小薮のイヌマキ・小薮温泉前にある。・町指定天然記念物(昭和42年7月24日指定) ・高さ12m、目通り3mの大きさで、地上4mぐらいのところから枝が貼り出している。 7.御在所自然の森【肱川町大谷】●御在所山8.金刀比羅神社【肱川町大谷】9.轟の滝【肱川町大谷】●轟の滝●轟龍王神社・春季大祭が4月15日に行われる。●轟龍王伝説その昔、6代目の当主に権大僧都彌勒院快仙法印という修験者がいた。祈念霊験ともに優れた山伏で、近郷近在の善男善女に大変慕われていた。 時に桃園天皇の御代で、延享5年7月(1748)のある日、いつものとおり下女が轟に洗濯に行ったが、昼になっても帰ってこない。いぶかしく思った快仙が迎えに行ってみると、洗濯物が洗って籠に入れてあるのに下女がいない。滝壷の淵に草履が揃えてあるので、龍に見入られたに相違無いと思い、小刀を口にくわえ滝壷に入った。岩穴の奥に岩屋があり、下女は表の間で糸を紡いでいた。下女は快仙を見るとはらはらと涙を流し、 「わたしはもう人間界には戻れません。誠に勝手ながらお暇を下さい」 という。事情をつぶさに聞いた快仙が、後生の供養を約束すると、 「ただいま主人は奥の部屋で仮眠中です。起こさないよう、また覗かないようお願いします」 と念を押し、茶を入れてくると席を外した。興味を惹かれた快仙が襖の隙間からうかがうと、十畳ほどの部屋で龍がとぐろを巻いて寝ていた。娘が戻ってきたので、しばらく話して、それではと別れを告げ、滝壷から出てから含んできた茶を吐いてみると、真っ赤な血であったという。 その後快仙は、娘との約束通り、滝の上部にお室を造り、龍王と娘の霊を併せて轟龍王神として祀った。何年か後、大旱魃があり、大変困っていたとき、娘の霊が快仙の夢に現れ、「御祀りいただいて龍王も大変嬉しく思っています。今旱魃でお困りの様子、皆さんで雨乞いをなさればお取り次ぎします」という。快仙は、早速村人にはかり、御室の前で雨乞いを始めた。すると、天俄にかき曇り、雷鳴轟き、閃光は滝の底にも達し、大雨が降り旱魃が解消した。(大谷を考える会) 10.穴神洞遺跡【城川町川津南3723】●穴神洞遺跡・県指定有形文化財[考古資料](昭和51年4月6日指定)・鍾乳洞の中に展開する本遺跡は、城門時代の遺跡として県下屈指のものである。特に縄文早期初期に相当する層位(第9層)から、我が国で最も古い土器(約12000年前)であるとされている隆起線文土器の口縁部が発見され、また小型楕円、山形押型文(約7000〜8000年前)とともにタカラガイ、ツノガイ、キセルガイ、シドロガイなど、いずれも海産の貝殻を囲うして作った装身具が豊富に出土したことなどが注目されている。 ・さらに頭蓋部をはじめとする人骨片も出土し、縄文早期の人類の姿を解明する良い手がかりが提供されている。人々の生活のあとを止める遺構としては、やはり早期に属する最下層部から礫を集めて築かれた炉址が検出された。なお上層部からは後期〜晩期の土器や石器が発見されており、この洞穴がかなり長期にわたって人々の生活の一根拠地であったことも物語っている。 ・「穴神は万年前の住居跡」(城川かるた) ●穴神鍾乳洞・町指定天然記念物・全長75mの鍾乳洞。 ・この鍾乳洞は、昭和44年6月、地元の中学生が「こうもり」を取りに入って発見したものである。 ・洞は全長75m、高さ8〜10mで、石筍、鍾乳石など豊富で変化に富み、県下では類のない鍾乳洞であるといわれている。 ・「こうもりの飛びかう穴神鍾乳洞」(城川かるた) ●緑雨句碑「暖や 働く人も 野の物も」・平成3年5月建立。 11.西方寺・宗派:曹洞宗・山号:瑞光山 12.「勤王志士坂本龍馬脱藩通過地」の碑【城川町高野子 大門峠】・明治100年記念に、高山長寿会が建立した。・「文久二年三月二十四日坂本龍馬士等四人此ノ地ヲ通過」と横側に刻まれている。 13.城川茶堂群:菊之谷茶堂【城川町】・高川保育所前にある。★丁度横に「土石流危険渓流:黒瀬川水系東ゴボノオク川」という看板が見える。 14.城川自然ロッジ界隈●天蚕センター●城川自然牧場●城川自然ロッジ●窪野小学校跡碑・明治8年、井谷寺の一室にて三滝小学校を開設した。・明治19年、男地浦田氏隠宅にて三滝小学校分教場を開設した。 ・明治20年、窪野簡易小学校と改称。場所は河内宮下になった。 ・明治25年、窪野尋常小学校と改称した。 ・昭和5年、現在地に校舎を改築した。 ・昭和16年、窪野国民学校と改称した。 ・昭和22年、窪野小学校と改称した。 ・昭和47年、学校統合により閉校となった。 ●ゴトランド紀石灰岩・県指定天然記念物(昭和28年3月13日指定)・県内で最も古い地層である。地質時代から言えば古生代末期のおよそ4億2000万年前のものといわれるこの地層は、東は窪野地区から西は嘉喜尾・男河内へと町内のほぼ中央を北寄りに不連続的な帯状で存在し、その中に分布している石灰岩の中から床板サンゴ類に属する鎖サンゴ・蜂の巣サンゴが発見された。 ・このシルリア紀の床板サンゴ類は現在までの研究では、わが国最古のものである。この石灰岩は、左後方下の川床に現出している。 ・「歴然と化石に残るサンゴ類」(城川かるた) ●万葉の道★城川自然ロッジから地質館へと続く道沿いに40基の歌碑が立ち並び、そしてその碑文の万葉歌に出現する植物が碑の傍らに植えられている。●地質館●びっくりハウス15.三滝渓谷.●クロスケ昼寝の石クロスケ(別の名をホホグロという)は塩の商人で、豊親山蔵王権現の信者であり、向こう倍の力を授かっていた。このクロスケは、暇さえあればこの石で昼寝をして力を蓄えていたという。今でもこの石に腰をかけて城跡に向かって手を合わせ、「豊親大権現」と17回唱えると、力が相手の倍になると伝えられている。●産湯の滝今から約450年前、この滝の下、合良橋のほとりに、三滝城おかかえの甚兵衛という仲の良い樵の夫婦が住んでいた。ある日夫婦が木こりをしていたとき、嫁のおとめさんが俄かに産気づいて、家に帰る途中、この滝の辺で男の子を産んだ。日頃三滝城守護神を信仰していた甚兵衛は、蔵王大権現に祈り続けると、不思議なことに滝の水が湯に変わり、その滝で産湯をつかわせた。夫婦は子供に次郎吉という名前をつけた。それから、誰とはなく「次郎吉産湯の滝」という。●ジロウ淵頃は天正の時代、次郎吉という樵が城主に召抱えられていた。樵では不満であった次郎吉は、城から出てここで武芸を修練した。この鍛錬が実を結び、やがて城主に認められて馬掛りに出世、士官となった。 ★産湯の滝の次郎吉と同一人物を指すかどうかは定かではない。 ●タロウ淵●アカゴ淵●テッポウ淵●二見滝●「二見滝の虹しぶき」の伝説・中野川から落ちる右の滝壷がナベ淵、窪川から落ちる左のトックリ淵、二つの異なった谷から落下する滝を見られるのは、全国でも稀なことであるという。・トックリ淵の上にヨゼン淵、豊親様が水に入り行をされたというカンス淵、ヨゼン淵の水煙かすむところにひずめのような小洞があり、石を投げ入れるとよい嫁さんを迎えられるとか、いつでも満石である。ヨゼン淵は石鎚山の登山者が身を清めていく処だといわれている。(土居郷土誌) ●茶堂●塩崎素月句碑「鶯や 眉の上なる 三滝城」●城川町ふるさとこみち「三滝渓谷とシルリア紀石灰岩」・多くの伝説を秘めた渕の連なる三滝渓谷は、新緑、紅葉の季節はもとより、四季折々の景観は素晴らしく、町内随一の景勝地である。また渓谷の下流にあるシルリア紀石灰岩はハチノスサンゴなど床板サンゴ類に属する我が国最古の化石も発見されている。・慶弔地とともに地質学上からも興味深い渓谷である。 「紅葉照る 九十九渕の 三滝城」(城川かるた) 「歴然と 化石に残る サンゴ類」(城川かるた) 16.三滝城跡●三滝神社●林庭院・町指定有形文化財・三滝城主紀親安の廟 ・碑石に、のちの庄屋、矢野惣左衛門景遠、同惣之蒸景長父子が願主となり、宝暦13年(1763)親安の命日にあたる正月13日追塔焉とあるから親安没後180年後の建立となる。 ・建物は平成2年原型のままに再建されたが、その原型は明治24年(1891)の改築であったから、それまでにも幾度か改築があったものと思われる。 ・碑文正面中央が親安公の林庭院殿日諦正春大居士であるが、その左槙秀山花大姉は奥方の菊の方、その右月峯正詠上座は長男正親を合祀したものといわれている。 ●三滝城の大いちょう・県指定天然記念物(昭和26年11月27日指定)・旧二の丸にあり、高さ約40m、根周り約8.6m、目通り約7.4m、枝張り半径約15m、地上8mにて二大幹となっている。推定樹齢350年。 ・天正11年正月13日、城主紀州親安は城に火を放ち、この大銀杏の下で辞世の歌を詠み自害したと伝えられる。 ●三滝城の大いちょう前の歌碑「蔭山の 花は咲けとも 散りくちて 草の都の 花さかり見む」・昭和33年12月、窪野区により建立された。 ・三滝城主親安(ちかやす)公の辞世の句という。 「親安の最期を語る大銀杏」(城川かるた) ●馬場跡●三滝城跡●三滝山・標高642m17.城川茶堂群:下里茶堂【城川町窪野】・滝花橋バス停前にある。18.三嶋神社【城川町土居】19.どろんこ祭り保存館【城川町土居】20.黒瀬川鍾乳洞【城川町下相】.・町指定天然記念物(昭和50年10月22日)・この鍾乳洞は、昭和35年11月、肱川流域総合学術調査地質班愛媛大学永井浩三教授等によって調査されたもので、延長300m、壁は純白の石灰華で覆われ、鍾乳洞の宝庫といわれている。 ・また県下では珍しいユビナガコウモリの大群が棲んでおり、地元ではコウモリ穴と呼んでいる。 ・洞穴動物の研究は昭和42年国立博物館上野俊一博士によって始められ、コウモリ類、多足類、昆虫類など約40種の動物の棲息が確認されている。 「黒瀬洞 国の調査で 名も高く」(城川かるた) 21.サルバイ【城川町田穂】・昔、田穂の領地をめぐって、魚成の神と野村の神が境界争いをした。両方の神は、各々の社を出発し、出会ったところを境界にすると約束した。・ある朝、一番鶏を合図に魚成の神が牛に乗り、野村の神が猿に乗り出発した。猿の方が足が速く、野村の神はとうとうここまで来て魚成の神と出会った。 ・この場所を猿が奪ったから「猿奪い(サルバイ)」という地名が付いたそうである。 |
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