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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990627 |
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東予市/丹原町散策【平成11年(1999)6月27日】★東予市在住のとよださんと共に、2つの周敷神社を訪ねてみた。 ★「周敷神社」は「すふじんじゃ」と読むとずっと思っていたのだが、どうやら「すうしき」ともよぶらしい。こないだ(4/30)に西条市の伊曽野神社を訪ねたときも、宮司さんが「すうしき」とよんでいた。周布という地名が残っており、「すふ」「しゅふ」と呼ぶところから、こちらのほうが成立が早く、あとから「周敷」という名前が出来たのかと推測していたのだが、ひょっとしたら「すふ」「しゅふ」という呼び方の方が「誤読定着」してしまったのかもしれない。 1.周敷神社【東予市周布本郷1532】・境内社として八雲社、厳島社、壷井社、青木社、御霊社、山神社、和霊社がある。壷井社は、延喜式神名帳に載る「周敷神社」は周布に鎮座する「周敷神社」と説いた神学者壷井義知を祭神とする。●周敷神社・古代の郡家も周敷駅もこの附近にあったと考えられる。・主祭神は火明命、配神は大山祇命、大己貴命。 ・延喜式神名帳記載の神社で伊予国24座の内、桑村郡3座の1社でであるが、当周敷神社の鎮座地は周布郡周布村であって桑村郡でないことから、寛文10年西条初代、松平頼純が入国巡視の際、式内社周敷神社について疑義を生じ、天禄8年と宝永2年など何度か調査したが確認できなかった。 ・享保5年国安村の周敷神社をはじめ、円海寺村蓮宮明神、宮之内村宮内神社からも、それぞれ式内周敷神社だとの訴えがあり、なかでも国安村周敷神社とは久しく紛争が続いたが、結局は中央の神学者壷井義知の「周敷神社鎮座違和郡考」の説に準拠して周布村の周敷神社の勝となり、神祇菅領、吉田家より裁許状を授けられ、享保7年一応の決着をみた。こと周敷神社一帯や湧泉が多く、早くから稲作が行われ、周敷郡の政治産業の中心として栄えていた。 ・天平宝宇8年、多治比連真国ら10人に周敷連の姓を賜り、ついて真国ら21人に周敷伊佐世利宿称の姓を賜る。この一族が先祖の神を氏神として祀ったのが周敷神社ある。 ・境内、東西32間、南北37間、馬場の長さ134間、氏子およそ315戸である。神主の伊佐芹家は、周敷伊佐世利宿禰に繋がるものである。 ・天正13年の兵火で社記、宝物など全焼したが、享保7年西条藩6社の一つに加えられれ、藩主の代参、神田の寄進があった。旧県社、萬代講、永代講があったが中止された。 ・例祭は10月の15,16日である。社宝には、延喜式弁疑、松平頼安の寄進状、一柳直卿の社号、掛け軸などがある。 (以上、周布公民館/周布地区生涯学習推進委員会による立て看板より) ●周敷神社神殿・東予市指定文化財:建造物(平成9年3月28日指定)・元禄5年(1692)の創建。 ・桁行三間梁行二間の切妻、平入流造りの建物である。度々の修復にも原型を損なわず、創建当時の姿を今にも止めている。 ・昔は檜皮葺であったが、現在は銅板葺になっており、軒は二重繁垂木である。 ・建物の様式は、彫刻や木組みなどに安土桃山時代の特色をよく伝えており、古代より破風の桁飾りに蚕の蛾や桑の葉などの彫刻があるのも珍しい。 ●一柳直卿の奉納額・東予市指定文化財:書跡(平成2年11月19日指定)・一柳直卿は、寛文6年小松藩主一柳直治の長子として生まれ、40歳で跡を継ぎ、3代目藩主となった。 ・詩歌、書画など諸芸に優れていたが、特に書道が得意で、当時の300諸侯中第一の能筆家といわれ、将軍へも習字の手本を納めたほどであった。神仏に対する信仰が厚く、社寺に多くの額を奉納している。 ●周敷神社絵馬・東予市指定文化財:絵画(平成9年3月28日指定)・周敷神社には、馬面の名手として知られる一方、屏風などの大画面に本領を発揮した、地方でも希有の作家である松本山雪(岨■)の描いた「白馬・黒馬図」の絵馬が対をなして奉納されており、また、県内有数の絵馬の作者で、猿をはじめとする動物画に秀でた画家として知られる山本雪渓の描いた「韓信の股くぐり」の絵馬も奉納されている。 ・どちらの作品も、それぞれの作者の特徴がよくでた優れものである。 2.周敷藤原神社【東予市国安】★もともとは、東予市高田に鎮座していたのだと、とよださんが教えてくれた。何でも大明神川がよく大水を起こし、社地が水に浸かることがしばしばあったため、上流側に移転したという。・複数の社殿を持つ神社は珍しくはないが、複数の本殿を併せて一つの拝殿を設けている神社は今までかつて目にしたことはなかった。 ●周敷神社●藤原神社●住吉神社●東予市保存樹木:クスノキ●「御旅所」の碑3.生木地蔵正善寺【丹原町高松】●神木:クスノキ★生木に彫られた地蔵を拝見できると思っていたのだが、伐られて横たわったクスノキの巨木があるだけだった。●雨乞石:元禄10年(1697)願主保助役人中「南無阿弥陀仏」昔は田へ水を入れるには自然の流れに頼るより外に方法がなかった。日照りが何日も続くと稲田は割れ、畑は乾き作物が枯れて、飢饉となることが何十回、何百回あったか知れないほどあった。生木山縁記には、慶長年間においても大旱魃があり、地蔵尊の前に祭壇を作って雨乞いの祈りをした際、二三日大降りとなって皆活きかえって喜んだとある。その後の旱魃の際にも、地蔵様とこの石の間で火を焚き、「南無阿弥陀仏」と唱えて雨乞いをしたと伝えられる。4.福岡八幡神社【丹原町今井】★生木地蔵正善寺境内東側からの長い参道を上ると「おしぶ山」の頂に鎮座する福岡八幡神社社殿に辿りつく。木が生い茂り、境内から周りを見渡すことができないのがちょっと残念。★境内地には多くの末社が祀られている。 ★その他は特筆すべき事項なし。 5.道前渓温泉【丹原町臼坂】★今日のところは、駐車場から写真を写すだけに止めた。今度ゆっくりとつかりに来よう。6.劈巌透水【丹原町鞍瀬】・丹原町指定史跡(昭和57年11月20日指定)・「伊予の青の洞門」としてその業績を讃えられている劈巌透水は、安永9年(1780)時の来見村の庄屋越智喜三左衛門によって起工され、私財を投じ、自身も鑿(のみ)を振い岩を削り、9年の歳月をかけて、長さ十二間(21.6m)の井堰と二十間(36m)の隧道及び九十六間(172.8m)の岩石堀割水路を設け、寛政元年(1789)完成したと伝えられている。 ・その後、明治19年(1886)と大正2年(1913)に喜三左衛門の後裔で当時の中川村長越智茂登太翁が大改修を実施し、美田三十町歩を潤す水路を完成させた。 ・記念碑は、大正9年(1920)5月に願成寺(大字北田野)の鳳快洲和尚が、来見村耕作組合員に請われて文を撰し書写した。 ・喜三左衛門が農民の灌漑用水の不足による窮状を見兼ねて起工し、苦労の末に完成した堰堤が、風雨によって決壊し、その修復工事の労苦と農民の喜びを託し、さらに茂登太翁の農民を思い村を愛する熱情によって二度にわたる大改修により、大いに水利の便を得たことが述べられている。 ★連日の大雨で中山川は増水し、普段とは異なり勢いよく流れる姿を見せていた。 |
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