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こたろう博物学研究所
探訪記録:19990912

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日浦から銅山越経由西赤石山への登山【平成11年(1999)9月12日】



 06:00、松山市南吉田町のローソン駐車場で稲葉さんと待ち合わせ。定刻通り、松山を出発する。
空港通りを東進し、南環状線経由で国道11号線に出て、目的地を目指す。
途中、川内町のサラヤで食材を調達。ここの店は惣菜が豊富である。

 高速道は料金が勿体無いということで、国道を走ることにしたのだが、日曜日の早朝は意外と交通量が少ない。順調に車は流れる。FMラジオからは20〜30年前の懐かしのメロディが流れる。7:30頃には新居浜市内に到着した。

 別子ライン(Besshi-Rhine)、マイントピア別子の看板が立つ交差点を右折して、山根公園のところから足谷川沿いに上っていく。県の名勝に指定されている別子ラインの景観を眺めながら、目的地をめざす。直にマイントピア別子に辿り着く。この先、トイレらしいトイレも無いだろうということで、小用を足すため立ち寄る。早朝なので観光客の姿も見えない。ひと昔前の温泉宿のように鄙びた感じの音楽がスピーカを通して辺りに広がっている。

 出すもんも出して、再度順調に車を走らせていく。鹿森ダムを越えて進んでいく。あちこちでトンネルが開口しているのが目に映る。もう少しすれば、別子山村に向けての旅も随分楽になることだろう。しかしながら、今日の行程は相変わらずの過酷な細道を通らざるを得ない。いつ岩が上から崩れ落ちてもおかしくないような細道を進んでいく。清滝を越え、大永山越えのワインディングロードを上っていく。空気は段々とひんやりと心地よい温度に移っていく。途中、住友所有のロッジも建っており、「住友はこんないい建物持ってるんですねぇ」などと羨ましそうな口調でお喋りしていたら、知らぬ間にトンネルに到着。トンネル内の空気は天然の冷房状態で本当に心地よい。排気ガス臭もなく、窓を全開にして冷たい空気を浴びる。

 トンネルを通過するとそこは別子山村中七番(なかひちばん)。やや坂道を下ったところにある住友の森には老年グループがいっぱいたむろしている。それを横目で眺め「今日は登山客、多いんですかねぇ」などと話しながら通り過ぎていく。やがて別子ダム湖が見えて来る。目的とする登山口はもうすぐそこである。

 08:00少し過ぎに登山口に到着。丁度、登山口の手前に駐車場が設けられている。「長兵衛の思案所」と看板が立てられた休息所もあり、トイレも完備している。無理してマイントピア別子で小便を放り出す必要もなかった。駐車場には既に多くの登山客が訪れている。ざっと見渡すと、その殆どが50歳過ぎの老年グループだ。

 車を停め、準備を整え、身体をほぐして、08:15、いよいよ登山開始である。日浦から旧別子の産業遺構をめぐりながらの登山路案内板も設けられており、「登山」と構えなくてもハイキング気分で楽しめそうな感じである。登山道もよく整備された状態になっている。
 
●旧別子銅山入口
 旧別子とは、元禄4年(1691)より大正5年(1916)に至る225年の間、別子銅山の採鉱ならびに製錬の中心(地)であった所で、山中には多くの遺蹟が残されており、新居浜市発展の礎を築いた所として、市民の心の故郷となっている記念すべき所である。山中を通り銅山越をこえて嶺北角石原(かどいしはら)まで約2時間の行程である。
西に聳える堰堤は別子ダムで、貯水量542万トン、この水は西山銅山越の間をトンネルで抜けて小女郎川東平発電所に落ち、鹿森ダムに溜まって工都新居浜の工業用水として利用されている。

 登り始めて10分程度経ったころであろうか。小さな沢を挟んだ薄暗い谷間に石垣を積んだ墓地が見える。円通寺小足谷出張所跡である。
円通寺小足谷出張所跡
 この奥に、円通寺小足谷出張所の跡があり、その廻りの墓地には開坑以来大正5年別子撤退までの220余年の間に、山中で病に倒れ、または、災害に命を失い、水害で歿した幾多の霊が静かに眠っている。山中の諸霊に花を捧げて心から冥福を祈ろう。
 別子撤退後、寺は別子山村白尾の南光院の境内に移され、諸霊への供養は今尚続けられている。
なお円通寺本院は、延宝6年(1678)別子山村保土野に建立された古い寺で、ここにはその出張所があった。
 無縁仏を祭る墓碑が登山道脇に建っている。採鉱のためにこの地にやってきて、家族の姿を再び見ることもなく遠い異郷の地で果てた人々もきっと多くここで眠っていることだろう。

 ここから少しだけ上っていくと、道の上方に立派な赤煉瓦塀が構えているのが見える。
●小足谷接待館跡
 明治の後半、この煉瓦塀の中に接待館があり、山中を訪れる要人が宿泊したり、ここで各種の宴会が開かれたりしていた。
 ここより少し沢寄りのところに煉瓦造りの煙突が立っているが、ここが小足谷醸造所跡で、明治初年より年間100kリットル位の酒と、後には醤油も造っていた。
 ここの酒は、鉱夫達に喜ばれ、鬼をもひしぐ山男共もこの酒に酔えばたわいもなく横になってしまう所から、人呼んで「鬼殺し」と名付けたという。小足谷部落は大正5年別子探鉱本部の東平への撤退に伴い廃墟となった。
●小足谷(こあしだに)部落収銅所跡
 ここから横に入ると小足谷部落跡に出る。そこは職員部落で銅山の責任者でもある別子銅山副支配人の広い屋敷跡の煉瓦塀に昔の規模が偲ばれる。料理屋や精米所もこの部落にあり、栄えていたが、明治32年の台風により家屋は倒壊し死傷者が出た。
対岸には小足谷沈殿池の長い石垣が下流に続いており、寛政坑の坑口は、この上の道端の小さな山神社の下方の川岸に口を開いている。
沈殿池では鉄屑の表面に排水中に溶けている銅を析出させて回収すると共に、廃水処理を行い鉱害を防止していた。
※この坑は寛政初年(1790年代)坑内排水用として着工、難工事のため長年月を経て明治に入って完工し、永年の湧水一挙に処理した画期的排水坑であった。

 登山道の右手の石垣の上には山神社が鎮座しており、まるで民家のようないでたちの社殿が建っている。鳥居など神社をイメージさせるようなものは残っていない。どう見ても掘っ建て小屋である。山神様の住む社とは案外こんなものかもしれない。

 測候所跡を通り、更に進むとやがて小足谷劇場跡小足谷小学校跡の立派な石垣が見えてくる。登山道よりも一段高い位置に、山中には似つかわしい平坦な敷地が広がり、幅5〜6mは有りそうな幅広の石段が悠然と構えている。昔多くの人が訪れたという劇場の規模が相当なものであったあことが偲ばれる。
 
●劇場跡小学校跡
道ばたに残る長い石垣は、上段が山林課と土木課の事務所兼小足谷劇場の跡で、下段が住友別子小学校跡である。劇場は明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。
明治6年(1873)小足谷に設立された小学校は、明治22年(1889)にここに新築され、30年には目出度町に分教場が設けられたが、大正5年(1916)廃校となった。
ちなみに、明治32年(1899)3月末の在籍生徒数は男女合わせて298名。教員は7名であった。

登山開始後約45分の09:00頃、ダイヤモンド水広場高橋製錬所跡に到着。
登山者には非常に嬉しい水場で、清涼な水がこんこんと湧出している。先に出発した老年グループが辺りのベンチに腰を下ろしてひとときの休息をとっている。我々も空いているベンチに腰掛けて、重たい荷物を地面に置いて一休み。まずは乾いた喉を潤す。本当に冷たくて美味い。疲れが一瞬のうちに飛んでしまうようだ。稲葉さんはおもむろにリュックからPETボトルを取り出し、家から持参した水との詰め替えを行う。昼食のインスタントラーメンに用いるとのこと。
 
●ダイヤモンド水
金銅鉱床坑外ボーリング(試錘)探査1号孔のことです。金銅鉱床の露頭(鉱石が地表に現われる部分)はこの後の山の頂上近い標高1300mくらいのところにあります。
この鉱石を確認するため昭和25年9月から4ヶ月間傾斜角度45度でボーリングによる探査を行いました。途中約80mの深さのところで地下水脈に出合い、以来その水が絶えることなく自噴しつづけています。硬い岩盤に孔を開けるためロッド(回転駆動軸)の先に小さなダイヤモンドを散りばめたピットを使っていましたが探査が終わった後これを回収することができなくなり孔底に残ったままになっているところから誰言うとはなくこの自噴水を「ダイヤモンド水」と呼ぶようになりました。
(参考)
坑外ボーリング2号孔(昭和26年8月から4ヶ月間実施)はこの少し上流の奥窯谷添い標高1160mくらいのところです。また標高800mくらいの坑内からも14本のボーリング探査を試みました。
●高橋製錬所跡
ダイヤモンド水の対岸より黒橋の辺りまで続いている石垣は、明治12年に建てられた洋式溶鉱炉、製錬炉、沈殿池、収銅工場や倉庫等の跡で、対岸の岩山の上に残る石積みは和式溶鉱炉の跡であり、この辺りの川の上には石造の暗渠が築かれていた。暗渠の一部や川に流れた銀が今も残っている。
ここ高橋製錬所は、明治期洋式の新鋭精練所として活躍していたが、明治32年(1899)9の台風により被害を受け、その後は一部を除き製錬作業は新居浜惣開に移された。

写真撮影したり、手持ちのお菓子を口に含んだりして10分程度休息した後、登山再開。
歩き始めてすぐのところに分岐点有り。どちらのルートも「銅山越まで50分」と書いてある。「どっちの方が見所が多いんですかねぇ」「どっちが楽に上がれるんだろう」などと散々思案した結果、結局先に上っていったグループを跡追いするかの如く右に折れていくことにした。沢に架かる橋を渡った先は結構、キツイ坂になっている。赤黒く錆びた手摺をぐっと握り締めながら一段一段と上っていく。前方の方から「あーあ。下の道のほうが楽かったかなぁ」という溜め息交じりの声が響いてくる。ちょっと後悔の念がよぎったけれども、結局はそれほどでもなかった。

10分ほど上がったところで分かれ道になっており、「東延斜坑20分、銅山越40分」と書いてある。今日の主目的は西赤石山なので、行く途中から寄り道ばかりして体力を消耗しても何なので今日のところは探訪を断念した。

沢に架かった吊橋を渡る。橋の袂には紫陽花のような花弁の白い花をつけた木がある。名前が良くわからないが、「山紫陽花」と呼んでおくことにした。

「勧場跡」と記された案内標柱が立っている。しかしその痕跡は殆ど見えない。
 
●木方焼鉱窯跡と重任局跡
この辺りは木方とよばれ、道の上部一帯は焼鉱窯(鉱石の蒸し焼炉)が並び、道の下方、足谷川の川べりには鉱夫の住宅があり、南口に近い方には明治25年目出度町から移された重任局(鉱山事務所)があった。
重任局の屋根の上には「やぐら太鼓」(明治2年設置)がおかれて、山中10,000人余の住民(従業員数2,300人)に時を知らせていた。重任局には、当時鉱山支配人をはじめ多くの職員が勤務し、銅山の中枢を形成していた。
●見花谷と両見谷部落跡
対岸の目出度町の左方の谷で向って左側が両見谷、右側を見花谷といい、これらの谷の間のせまい急斜面に木で張盤をつくり、その上に建てられた鉱夫の住宅が何段にもひしめき合っていた。
別子開坑以来の大惨事といわれる明治32年8月の台風(山中の死者総数613人、倒壊家屋122戸)で大音響と共に起こった山津波により、見花谷部落の平和な鉱夫街は一瞬にして押し流され、多くの人が家もろとも眼前の足谷川の濁流に飲み込まれた。
●大山積神社跡
対岸の植林された一帯が目出度町跡で、中央部の石垣の中に残る階段の上に明治25年以来木方から遷された大山積神社があった。神社は元禄4年開坑まもなく大三島の本社から勘定し山の守護神として祀られたもので、山中数千人の住民の氏神様となっていた。正月の大鎮祭と5月の山神祭りには大変な賑わいであった。
●目出度町(めったまち)鉱山街入口
ここから足谷川源流を渡り、蘭塔場山を廻って山中に入ると目出度町である。銅山の中心街で明治時代にはここに重任局(鉱山事務所)、勘場(会計)、大山積神社、住友新座敷(接待館)、住友別子病院、郵便局、別子山村役場、小学校分教場、料亭一心楼、伊予屋雑貨店や住宅が櫛の歯のように並んでいた。
このように栄えた街も大正5年春、別子上部撤退後、すべて撤去され、その跡に植林されて今は石垣の跡に昔日の面影をを止めるにすぎない。
目出度町から見花、両見谷を通り奥窯谷に出て東延からの道と合する。
●蘭塔場跡
前方の小高い岩山の上に見えるコの字の石垣が蘭塔場である。蘭塔場とは墓場のことである。
元禄7年(1694)4月25日、焼鉱炉からの出火が折柄の旱天続きにたちまち燃え広がり、主要設備をほとんど焼き尽くした。
ここはそのときの火災で殉職した手代(別子銅山支配人)杉本助七以下132人の霊を祀る墓所である。
大正5年の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑は新居浜市の瑞応寺に移され、諸霊はここで安らかに眠っている。
現在もなお、この蘭塔場跡で、毎年盆の供養が行われている。

展望台の下を過ぎ、09:52歓喜坑に到着。
坑の前には乾いた身体に嬉しい、山の清水が湧いている。
まずは喉を潤して、その後記念撮影。
 
●歓喜坑
ここは、別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、工都新居浜発展の基となった所で市民の心に銘記さるべき地である。
元禄3年(1690)切り上がり長兵衛という渡り坑夫により嶺南に有望な露頭のあることを知らされた備中国(岡山県)の住友家経営吉岡銅山の支配人・田向重右衛門らは、苦心して山中を調査し、この附近で見事な鉱脈を探し当て、翌元禄4年幕府の許可を得て9月22日に採鉱を開始した。
人々はこの人跡稀な山中において、抱き合って歓喜し開鉱を祝ったところからこの名がある。右は歓東坑で、上部一帯には山方という鉱夫の集落があった。

しばし休んで疲れを癒して再度出発。山の上から腕章をした男性2人連れが下りてくる。なにやら「愛媛県...パトロール」と書かれている。趣味と実益を兼ねているとすれば、何とも羨ましい限りの仕事である。但し、これが日常の生活になってしまえば、やっぱり大変なのかもしれない。たまに登るからこそ、山は魅力的なものなのかもしれない。

道端にはアカモノの花の姿もちらほらと見えてきた。銅山越がもうすぐそこに近づいていることを示すかの如く。
この辺りは、ツガザクラ、アカモノの群生地として知られている。

銅山越のやや手前に差し掛かると見晴らしも非常に良くなってきた。南斜面にて記念撮影。と、スローペースで歩きながらも10:10頃、銅山越到着。

峰地蔵の前で、先程の老年グループが腰を下ろして休んでいる。「お疲れさまです」自然に挨拶の言葉が口に出る。
やや西山寄りの小高い峰の上で腰を下ろしてしばし休息を取る。稲葉さんが差し出してくれた氷砂糖が疲れを癒してくれる。

10:20、西赤石山を目指して登り始める。
しばらくしたところで、県の何とかというパトロール団体が定点観測というのをやっている。D点と記された位置標識が立っているところで何やら植生を観察している。「何をしとるんですか?」
「で、植生の変化は見られるのですか?」「いや、まだ始めて3年じゃからわかりゃぁせんよ。10年は見んとな」
長期スパンでしか結果の見えないような仕事というのもいいんだよなぁ....などと羨望の眼差しで彼らの作業を眺めてみる。サラリーマンだと、即結果が求められる。のんびりした気分にはなかなかなれない。

「アリノトウグサは書いといるかのぅ!」突然御年配のパトロール員の方が大声を出す。
「そのアリノトウグサって一体何?」と覗き込んだが、どの草を指し示しているのかさっぱりわからなかった。「蟻の塔」だろうか、「蟻の頭」だろうか。

更に進むと、東平からの近道ルートに合流。そのルートから別の老年グループが上ってきた。
健脚である。御歳を尋ねると、何と77歳とのこと。元気である。パワーに満ち溢れている。
登山歴50年だとのこと。こんな老人になれればいいねと思ってしまう。

途中、形の変わった美しい花を見つける。老年グループに名前を尋ねると「ホトトギス」という。何とも美しい名前である。

ホトトギス(Tricyrtis macropoda)
ユリ科。北海道西南部、本州、四国、吸収の山野に生える多年草。


あちこちにリンドウの青い蕾も目に留まる。ホタルブクロの白い花弁もそこらにある。こんなに落ち着いた気分で草花を眺めることもなかった。身体は疲れていても精神的には非常に落ち着くのだ。

目の前に見えた西赤石山は非常に遠い。何どもアップダウンを繰り返しながら、まだかまだかと進んでいく。
結構足腰は堪えている。しかし目標が間近に見えることもあって、自然に身体は前方向へと進む。

最期の岩場を登りつめる。ここが正念場だ。ふと足下に目をやると岩場の途中にキラキラと輝く小石が散らばっている。土産に小片を一個拾ってポケットにしのばせる。

11:40、目標通りの時間で西赤石山に到着。稲葉さんが早速冷えたビールを手渡してくれた。タブを引っ張ると心地よい音と共に、白い泡が溢れ出る。喉に流し込む。美味い。この上なく美味い。自然の中で、爽快な気分に浸りながら飲むビールは格別だ。

留守番している子供達に、携帯電話で歓喜の報告をする。山頂でも携帯電話は繋がるものだ。

そうこうしているうちに、稲葉さんがインスタントラーメンをこしらえてくれている。先程汲んだダイヤモンド水で麺を茹でる。さすが1600mの高地。水の沸騰速度も些か早いような気がする。
暖かい麺をすする。これまた美味い。最高のご馳走だ。

食事を終え、辺りの山々をスケッチしたりして、一時の休息を楽しんだ後、山頂で記念撮影。

13:20頃より下山に移る。
往路で気にかかった草花を写真に収めながらのんびりと下っていく。大分ガスも出てきたが、風はそれほど無く、相変わらず蒸し暑い。

14:07、銅山越に到着。
ゆっくりゆっくりと下りてきたが、往路の半分の時間で辿り着いた。ここでは休まず、水の湧いている歓喜坑まで下りてから休息をとることにした。14:16、歓喜坑に到着。ゆっくりと休息を取る。水を飲む。いくら飲んでも尿意を催さないから不思議だ。

目出度町(めったまち)鉱山街入口の所の分岐点から、元来た道とは別方向に折れる。水無しの沢を渡って小道を進む。14:36、蘭塔場入口に到着。上ろうかとも思ったが、体力にも自信が無く、また銅山越やや上部からコの字型の遺構も眺めることができたので、取り止めにした。

更に進むと鬱蒼とした木々が建つ比較的平らな場所に出てくる。日出度町鉱山街跡である。
 
●重任局および大山積神社跡
元禄7年(1694)大火のあと、山方の歓喜坑より勘場(のちの重任局と勘場を併せた鉱山事務所)がここに移され、※銅山の中心街目出度町が下方の樹林の中一帯に出現した。勘場(会計)や鉱夫の住宅・分教場・病院・郵便局・村役場巡査駐在所や料理屋(一心楼)等が並んでいた。
重任局は明治25年(1892)に焼失し、対岸の木方に移り、その跡に木方の延喜の端(現在のパノラマ台)上にあった大山積神社が遷された。現在石垣の上に残る石の狛犬は当時のものであり、社殿の基礎も残っている。社殿の前には角力場があり、正月の大鎮祭や5月の山神祭は大賑わいであった。社殿の左隣には住友新座敷(接待館)の跡が残っている。

大山積神社跡から更にどんどん下りていく。下り坂ばかりなので楽に下りていけると思っていたが、膝が笑うような感じでガクガクしてきている。登りとは別の負担が足腰にかかってきているのだろう。
 
●木方部落跡(対岸)
対岸一体を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には建屋や住宅がびっしり並んで建っていた。正面に見える石垣は明治25年(1892)目出度町から移転した重任局(銅山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。目出度町と木方との間には足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積のみがここからよく見られる。この先の谷が両見谷、つづいて見花谷で、下部の樹林の中に鉱夫の住宅が密集して建てられていたが、明治32年(1899)8月の台風で見花谷の部落は山津波によって下の川に流され多数の死者(全山で513人)が出た。

14:56、奥窯谷入口に到着。
 
●奥窯谷(おくがまたに)入口
この谷を奥窯谷とよび、足谷川の支流である。この谷を200m程上って右の稜線に立っている鉄塔を越えると旧鉱山街奥窯谷に入り、目出度町から銅山越に行くことができる。また、この谷を遡行すると金鍋坑を経て薪炭輸送の中継地大阪屋敷に達する。
この谷の入口には大きな木炭■■があり、谷の向こう側には■門という部落もあった。
南口から銅山越に出るには、本流を渡ってがし場を上るとそこが南口である。
案内板の文字がかなり褪色して見えづらい。

15:04、ダイヤモンド水広場に到着。ここの水場に来ると本当に生き返る。地下から湧き出る冷たい水は、乾いた体に染み込んできて心地よい気分にさせる。家への土産としてPETボトルに汲んでリュックに詰める。十分に休息を取ったあと、15:18、下山再開。

下りは快調だ。15:48、登山口に到着。

帰路、道前渓温泉で小休止。湯船に浸かり疲れた身体を癒してから松山へと帰る。
初めての登山。少々体力的に心配だったが、何とかなるものだ。今後の自信に繋がる気がした。
 

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