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こたろう博物学研究所
探訪記録:19991016

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障子山登山・砥部町散策【平成11年(1999)10月16日】


朝9:00に目覚め、犬の散歩をしながら松山平野南方の山々を眺める。天気予報では曇りから雨といっていたが、秋晴れの様相を示している。2日後に小松町の高瀑へ行く予定にしているので、土日はゆっくりと自宅で過ごそうかとも思っていたが、晴れ上がった空を眺めていると、足もとがうずうずしてくる。遅目の朝食を摂った後、11:30頃ガソリンを満タンにして、松山市を出発。出足が遅かったので、皿ヶ嶺辺りに行こうかとも思ったが、山頂付近が白く霞んでいるので眺望が期待できそうにない。急遽予定変更して、砥部町の鵜崎峠南方にある障子山に登ることにした。
 国道33号線を南下し、三坂峠登り口手前で国道379号線へ右折。引き続き県道53号線・大平-砥部線へと折れて、鵜崎峠を目指す。この道は、春は七折の梅見、夏場はカブトムシ・クワガタ捕りによく活用しているのだが、秋口に通ることは殆ど無い。勝手知ったる道なので、周りの景色を眺めながらゆっくりと車を走らせる。紅葉の季節にはまだまだ遠いようだ。


1.障子山【砥部町】

 12:00過ぎに鵜崎に到着。
 「皿ヶ峰連峰県立自然公園 障子山 愛媛県砥部町」と書かれた看板の建つ場所の前方の広い路側に車を停めて、峠へ向けて歩き始める。ふと南方を見上げると、急な稜線を描いて障子山が雄々しく聳えているのが見える。結構距離が有りそうで、時間的にきつそうな気もしてくる。
 峠の所より左折する。道路の右側に地蔵堂が、左側には六地蔵がひっそりと佇んでいる。車一台通るのが精一杯のアスファルト道をゆっくりと上がって行く。障子山登山口を示す標識は一切見当たらない。
 数件の民家から成る集落が間もなく見えてくる。農作業中のおばちゃんに、「障子山へはどこから行けばいいのですか?」と訪ねる。おばちゃんは即座に、「そこのお墓さんのとこから上がっていったほうが近道よ」と答えてくれる。続いて「この(アスファルトの)道は、弓のように曲がっとるけん、遠回りになるんよ」と親切に教えてくれる。「有り難う」と一礼して、教えて貰った径を上っていく。すぐに再びアスファルト道と合流する。間もなくどこからか酸っぱいような香りが漂ってくる。公孫樹の木が道路に多くの実を落としているのだ。更に少し上ったところにも比較的大きな公孫樹の木がある。神社や寺や学校の跡地でもなさそうなのに、公孫樹の木が立っているのには何となく違和感を覚えずにはいられない。とは言え、庚申社と記された小さな祠が立っているので、それに纏わるものかもしれない。因みにこの庚申社は平成7年4月に新築されたもので、古めかしさなども全く感じられないものである。

 そこから10mぐらい更に上がったところの右側の柿の木のところに、「障子山登山道 高松軽登山愛好会」という看板がかけられているが、どう見ても民家の庭へと続いている。果てさてこのまま進んでいいものかと立ち止まって思案しているところへ、丁度この家の住人が出てきてくれた。
 「登山口はどこになるんですか?」
 「ああ、登山口はこの下の畦道を通って真っ直ぐ行けばいいんよ」
 なるほど、よく目を凝らしてみると登山口とは思えない程の小道が、石垣の下に延びている。
 「よう登山する人が間違えて入って来なるんよ」
 と住人は、笑いながら説明して下さる。
 「登山道は結構しっかりしてるんですかね」
 「ええ。人が踏みしめたような道じゃがなぁ。この畦道をずっと行って、あの辺りで左に曲がって、あとは竹林の中を上っていけば杉林の中に続く道が続いとりますわい。幾つか分かれ道があるけど、まあ兎に角、上へ上へと上がっていけば辿り着きますよ」
 この言葉を聞いて安心した。まあ、ここから先は道に迷うようなことはなさそうだ。礼を述べて再出発しようとすると、背後から、
 「水は持っとりますか?」
と声を掛けてくれた。
 「有り難うございます。ちゃんと持っておりますので」
 言葉にはされなかったが、「無いのならば、水場はこの先には無いので汲んでいきなさいよ」という呼び掛けだったのだろう。頭をペコッと下げた後、畦道をゆっくりと上り始める。時刻は12:20を少し回っている。

 教えて貰った通り、竹林から杉林へと続く。途中の雑木林にはアケビが鮮やかな赤紫色の実を地上から遥か高いところにぶら下げている。ひたすら「採って食べたい」という欲望にかられながらも、手が届かない場所にあり為す術がない。悔しい思いを抑えながら山道を進むしかない。
 山道は、ただ植栽された杉の真っ直ぐに伸びた幹しか目に入ってこない。非常に退屈と言えば退屈な道である。勾配はそれほどきつくない。いつもだったらすぐに休もうとする鈍ら根性が出てくるのだが、この道では自然と足が前に出る。
 順調なピッチで登山は進む。所々分かれ道があるものの、要所要所に看板が立っており、道を失うことはない。教えてもらった通りだ。
 歩き始めて40分ぐらい経っただろうか。北側斜面に入ったころから、登山道の上部を枯れた杉の葉が覆い包んで、とても昼間とは思えないような真っ暗な空間を作り出している。このような不気味な道を一人で進むのは若干心細くなってくる。木々のトンネルを急ぎ足で進む。やがてそのトンネルを抜け光を取り戻すと、勾配がやや緩めになった道が見えてくる。尾根が近いことを感じる。
 思った通り、すぐに尾根に辿り着いた。やや道が不明瞭になっているものの、赤テープを辿っていくと、尾根上にくっきりとした真っ直ぐな道が走っている。山頂方向を示す看板も立っている。尾根付近も杉の植林になっている。北西方向に明るく開けた空間があるのが見える。三角点を示す看板が建ってのも小さく見える。時計を確認すると13:10。車を停めてから1時間ぐらいで山頂に到着したことになる。

 山頂には「一等三角点 885m」を記した標柱が建っている。小学生の一行が登頂記念に記名して残した蒲鉾板も数枚転がっている。遠足か何かで上ったことだろう。
 山頂からの眺望は生憎よろしくない。立ち木が邪魔して、松山平野は殆ど臨めない。木々の間から砥部町の街並みが僅かに見える程度である。上を見上げても、杉の葉が青空の大半を隠しており、山頂一帯は薄暗い森となっている。夏場だったら心地よい森の空間ということで楽しめるのだろうが、秋口になると空気も冷たく、景色も楽しめないので長居するにはちょっと...といった感じだ。
 取りあえずいつもの如く、昼食のラーメンを作り、暖かいコーヒーを飲んで、タバコを一服して山頂での時間を過ごす。30分ほどして、汗をかいていた身体もすっかり冷えてきたので、下山を始めることにする。時刻は13:45。

 南東方向のピークに一旦立ち寄り、自分が上ってきた道以外にも登山道が幾つか延びているのを確認した後、元来た道を引き返す。
 時折ルートをノートに書き写しながらノンストップで歩き続け、登山口に14:20に到着。約30分で下山した。

 取り立てて特筆すべきことも無いのだが、松山界隈からも短時間で登山口に行くことができ、登山口から山頂までの距離も手頃なので、ハイキングがてら登ってみるのも悪くはないところである。飽くまでも景色に拘る人には、残念ながらお勧めできないが。


2.鵜崎峠【砥部町鵜崎/伊予市鵜崎】

 鵜ノ崎峠と障子山は「伊予市八景」に選定(平成8年4月選定)されているが、峠にしてもこれと言って格別眺望に富むわけではない。只、峠の脇の小高い丘(墓場)に上がれば砥部町の街並みが見下ろすことができるが、場所が場所だからゆっくりとするわけにもいかない。
 「伊予市八景」の標柱の脇には、朽ち果てた「鵜ノ崎化石層地層」の標柱が転げている。何か化石でも転がっているだろうかと、道路脇の石ころを拾い上げてみるが、それらしきものが容易に見つかるはずもない。

3.鵜崎集会所前【砥部町鵜先】

 県道をやや下ったところに鵜崎集会所が有り、その前に2基の碑が建っている。一つは「大平砥部線竣工記念碑」(砥部町長 松崎明、昭和54年1月吉日建之)、そしてもう一つは「砥部町合併十周年記念碑」(明治百年 昭和43年3月建之)である。
 集会所の玄関脇には水道の蛇口が有るので、登山の折には水を拝借するのも良かろう。(とは言え、勝手に使ってもまずいであろうが。)

4.小屋谷バス停上の溜め池【砥部町五本松】

 県道53号線・大平−砥部線を東に下る。途中、小屋谷バス停手前で、溜め池の辺に「砥部四国60番」との立て看板を見つけたので立ち寄ることにする。車を路傍に停めて、池の辺を歩く。(名は知らないが)秋の花が色とりどりに咲いている。芒の穂も風に揺れている。
 ぶらり散策がてら歩いてみるものの、それらしき祠が見つからない。よくよく見てみると、池を取り囲む柵の向こう側に地蔵が一体、池のほうを見ながら座っている。「これだろうか」と一応はデジカメに収める。しかし、家に帰って資料を眺めると、「五本松奥山の唐津山跡」にあると書いてある。どうやら、目的とするものと違っていたようだ。

5.砥部町陶芸創作館【砥部町五本松】

 まだ時間もたっぷりあるので、ここに車を停めて砥部町内をゆっくり歩いてみることにした。西の方に目をやると、先程上った障子山が美しい円錐形で佇んでいるのが見える。陶芸創作館の塀に埋め込まれている陶板にも、まさに今自分が眺めている風景を描いているものがある。確かにこの場所から臨む障子山の姿は何とも言えないほど風雅である。

 陶芸創作館の裏側には、大下田一号窯がある。
 
大下田一号窯
 この窯跡は昭和57年宮内の大下田より発掘されたものをこの地へ復元したものです。
 胴切間(予熱室)及び五連五房の準地下式連房の登り窯で、規模は胴切間の焚口から最上段の奥壁までの水平距離15m、垂直高4m、幅は広い所で4.8mあります。
 窯跡からは窯道具のほか、茶碗、皿、鉢、花瓶、急須などが出土されており、中には天保辛卯(1831)麻生焼と書かれた皿もあり、この窯が江戸末期に使用されていたことがうかがえます。
   昭和59年春 砥部町

この説明書きまでも陶板でこしらえてある。流石砥部焼の町である。

 その前には陶板で歌が記された吉井勇の歌碑が建っている。
「陶ものに 旅の歌など 書きつづる 砥部風流も おもしろきかな」
昭和60年3月に建立されたもので、文字は吉井勇自筆の軸を写したものである。


6.陶祖ヶ丘【砥部町】

 様々な陶板の埋め込まれた径を上っていく。今日は第三土曜日。丘の上にある小学校から下校途中の小学生が、元気良く坂道を駆け降りていく。
 

●陶祖杉野丈助翁之碑

 副碑には、
 
 陶祖杉野丈助翁ハ宮内村ノ人ナリ 大洲藩主加藤泰候其ノ臣加藤三郎兵衛ニ命ジ砥部ニ.....

と、砥部焼の歴史に関する詳細が記されている。

●梅野鶴市翁像

 右側の陶板には
地方自治のため盡瘁されたる偉大なる足跡
窯業発展のため献身されたる不滅の業績
その高潔なる人徳と共にここに讃えて永遠に傳へん
この山川のある限り 
そして左側の陶板には
賜 藍綬褒章/勳五等双光旭日章記念
制作 日展評議員 伊藤五百亀
題字 愛媛県知事 久松定武
昭和41年4月吉日
梅野鶴市翁寿像建設会
と書かれた副碑が建っている。

●愛山向井和平翁顕彰碑

内閣総理大臣佐藤栄作書

●古陶碑 

砥部焼磁器創業弐百年記念として、昭和52年4月23日に建立されたものであり、江戸中期から大正期にかけての割れ茶碗を埋め込んでいる。

●忠霊塔

如雲(じょううん)句碑

「 陶祖碑に 立てば一望 砥部小春 」
・昭和60年建立

陶板の道

手づくり郷土(ふるさと)賞
建設大臣 大塚要司書 素材部門 愛媛県砥部町 平成3年7月

7.砥部四国49、50番霊場【砥部町】


8.砥部町武道館【砥部町大南】

井上正夫像

正岡子規歌碑

「 砥部焼の 乳の色なす 花瓶(はなかめ)に 梅と椿と 共にいけたり 」
・昭和60年建立
今歩いてきた道は、「陶芸創作館・陶祖ヶ丘・窯元巡りコース」として整備が行き届いた散策コースとなっている。

地酒「初雪盃(はつゆきはい)」の蔵元、協和酒造、

地蔵

八谷川災害復旧記念碑

裏面には、
八谷川災害復旧工事概要
施工 自昭和54年11月 至昭和57年3月
延長919.6m
総工費1億千万圓
関連事業
和田川橋改修工事概要
竣工昭和56年3月
総工費3千1百10万圓
工事施主泉建設株式会社
と記されている。

9.大宮八幡神社【砥部町】

イチョウ

樹高23m、胸高幹周360cm、推定樹齢300年以上

●クスノキ

樹高23m、胸高幹周400cm、推定樹齢300年以上

ムクノキ

樹高22m、胸高幹周300cm、推定樹齢300年以上
樹高27m、胸高幹周410cm、推定樹齢300年以上

10.大森彦七供養塔【砥部町宮内】

・太平記に記載のある大森彦七に関する代表的な遺跡で、正徳2年(1712)に麻生の庄屋・田中権内が、彦七の功を永く称えんとして、庄屋田中治兵衛および五本松村小助、川井村忠左衛門の協力により建立された。
・その後風化が激しく、また塔身は3つに折れている。
・銘刻は、正面に「長盛院殿大森彦七士神儀」と誌されているが、現在は判読も困難な状態に風化している。

11.理正院【砥部町】


12.円通(禅)寺【砥部町重光446】

・宗派:臨済宗妙心寺派
・山号:慈眼山
・文明14年8月、当国河野家支流土居備中守通光候が建立され、恵照山真光寺と号し、法系は東京品川東禅寺に属したが、妙心寺の末寺として、明和7年8月25日、現在地に再建され、山号寺号を改め、慈眼山円通寺として今日に及んでいる。
・開山より280年にして、火災のため拾町与瀬鳴より現在地に移され、禅宗臨済派妙心寺(京都)を本山として215年の歳月を経ている。
・その間、19代の住職がこれを管理し、本尊は釈迦如来・正観音菩薩・脇仏として地蔵菩薩・達磨大師及び権現様が安置され、毎年8月16日に施餓鬼法要を営んでいる。
・昭和53年5月15日、本堂庫裡が改築されて落慶御開帳の大法要が盛大に行われた。

窪田兵右衛門の墓(五輪塔)

・「大機院観月浄照居士 俗名窪田兵右衛門居士」「不昧院心月妙照大姉」
・新谷藩が建立した。
窪田兵右衛門と親しかった円通寺の和尚が、彼の死後直ちに立てたもの。
八倉公民館(八蔵寺跡)にも兵右衛門の墓標がある。

アラカシ

・樹高15m、胸高幹周350cm、推定樹齢300年以上。
・アラカシはブナ科の常緑高木であり、本州・四国・九州に産し、朝鮮・インドシナからヒマラヤにかけて広く分布している。
・柱目に美しい虎斑があり、床材などに利用されている。

島人句碑

「俳句とは 禅とは梅の 花咲けり」

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