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こたろう博物学研究所
探訪記録:20000326

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三ヶ森(丹原町/小松町)登山・丹原町散策【平成12年(2000)3月26日】


1.三ヶ森

かねてより行きたいと思っていた三ヶ森を目指す。

面木山登山の時に出会った菅野さんに「特に冬の石鎚北壁の風景は素晴らしいよ」と教えて戴いていた。
比較的楽だという志川川沿いの林道のコースではなく、鞍瀬谷上流の横海(よこがい)からのルートを目指す。鞍瀬谷を上っていき、横海の明長寺の寺号碑が建っているところから左折。明長寺の下の路傍に車を停めて登山準備に移る。時刻は9:40.

南方を仰げば、3月下旬だが堂ヶ森、二ノ森は冠雪しており、三ヶ森山頂からの絶景が期待できる。

小松町成薮へと抜ける道を探すのだが、それらしき標識も無く、またそれらしい道も見当たらない。仕方無いので辺りを見回し、畑仕事にいそしむ農家のおばちゃんに、「三ヶ森はどこを通っていけばいいのですか」と尋ねる。「三ヶ森かな。さぁ昔はここからも上る道があったんじゃが、今は荒れ果てとるんじゃないかのう」と児美谷神社からのコースを教えてくれた。(実は、後から気付いたのだが、このおばちゃんを見つけるために歩いた道こそが成薮へと抜ける道だったのだ....)

9:50、児美谷神社右脇から続くコンクリート舗装の道を登山開始。3月下旬だというのに路傍の梅の花は未だ散らず、満開状態である。樒畑の中を進んで行くと、間もなく小川に辿り着く。沢を渡って比較的しっかりとした山道を進む。

9:57、レンガ作りの炭焼き小屋の横を通り過ぎる。小屋は朽ち果ててはいるが、炭焼き窯はしっかりと原型を止めている。比較的最近まで焼いていたのだろうか。更に2分ばかり歩くと、小瀑に出会う。その左側に洞窟がぽっかりと口を開けているのが見える。天然の洞窟だろうか、入口は非常に狭い。ケービングするのはちょっと怖い。

10:04、石積みの址が見える。昔、民家か何かがあったのだろうか。じっと佇めば何となく生活の臭いがしてくるような気がする。横には小瀑が水を落しており、心地よい音を樹林内に響かせている。
鞍瀬にはこのような小振りの滝が本当に多い。来る途中も、県道の脇に幾つもの小瀑が音を立てて流れ落ちているのを目にした。

10:21、目の前に大崩落跡。台風の爪痕だろうか、登山道が完全に遮断されている。決して無理はしないよう心に決めていたが、まだ登り始めて30分少々。すぐさま諦めるわけにはいかない。注意深く、崩れ落ちた土砂の上を登って行く。土の塊の上になんとか登ったものの、今度は沢の横へと降りる道がなく、しかも幅2mほどの深い亀裂が行く手を阻んでいる。角度は急なのだが、雑木が残っている部分を選らんで、枝を持ちながら直下降することにする。下りてみてほっと一息ついてみると、不明瞭ではあるが、右岸により安全な道があった。

何とか下り終えた後は、赤いプラスチックの杭を頼りにどんどんと登っていく。途中道を見失うが、ヒノキの樹林の中を迷走していると、なんとか登山道らしきものに出会うことができた。行けども行けども景観は開けないし、三ヶ森を示す道標らしきものも見当たらない。果して辿り着けるか心配しながらも、ここまで来たからには先に進むしかない。

11:20、炭焼窯跡に到着。上がり気味の息を整え、一服する。煙草一本を吸い終わると、もう一頑張りとすぐさま歩き始める。11:35、景色が開けてくる。大きな岩塊の上に三角点が打ち込まれている。その上に立てば南から西にかけての山々の爽快な景色が一望できる。青滝山が眼前に聳えている。若干の雪を被った堂ヶ森もその横に。西には先先月に登った面木山の姿も見える。そして、北側を振り返れば三ヶ森のなだらかな稜線が上方へと続いている。あと1時間も歩けば余裕で山頂に辿りつけるだろうと、内心ほっとする。

落葉樹林帯を4〜5分歩くと、何やら人工の石積み。楕円形に石が取り囲んでいるが何の址かさっぱりわからない。しかしながら、こんな奥深い山にも人の生活の跡が見え隠れしているとは。ちょっと意外な気がする。

南東方向へ歩けど歩けど、一向に山頂へ続く道が見当たらない。距離的には山頂はもうすぐそこまでというところに来ているはずだ。たまりかねて、多少角度的には急ではあるが、沢に沿って直登を試みることにした。しかし、それは誤りであった。僕の前には道はおろか、踏み跡さえもなくなった。あとは方角感と距離感を信じて70〜80度にも感じるような急坂を枝を掴みながら登っていく。次第に雑木が生い茂り、行く手を阻んでくる。鬱陶しく蔓延る小枝を掃いながら上へ上へと登っていく。

時折、大きな氷柱、氷瀑が目に留まる。こんなものがバラバラと落ちてくるとたまったもんじゃない。時折空から白い真綿状の雪が舞い降りてくる。
やがて先程まで心地よく降り注いでいた太陽の光も灰色の雲に遮られ、辺りの気温も降下していく。道に迷う心配、氷柱が落ちて来るという恐怖感、そしてそれに加えて天気に急変までが不安感としてプラスされようとは。

時計の針は13:00、登り始めて3時間が来ようとしている。裸の木々の枝の間から、堂ヶ森、二ノ森、そして石鎚山の北壁が眼前に迫って見えてくる。曇ってはいるが、素晴らしい眺望である。
現在いる場所の高度は1300mを超えたと思われる。三ヶ森の山頂まではあと300〜400mぐらいだとは思ったのだが、あまり無理し過ぎてもいけない。これ以上薮こぎしながら進む馬力も失せてきた。
腹も減ってきたので、比較的なだらかで木々に邪魔されない場所を選び、そこに腰を下ろして昼食を摂ることにする。途端に空が晴れ上がり、暖かい太陽の光が降り注いでくる。生き物の息遣いも聞こえないような山の空間に、背後からペキペキという音が響く。振り返ると、氷柱が溶けて下の岩肌に砕け散っている。まあ、そんな雰囲気の中での食事というのも悪くはない。

30分ほど食事しながら休んだ後、下山に移る。下りは滑落でもしたら大変と慎重に下りる。それでも時折は尻餅をつきながら七転八倒状態である。難儀しながらもやっぱり下りは早い。先程、1時間半ほどかけて必死で登った急斜面を30〜40分で降り切った。見覚えのある道に出たときには本当にほっとした。これで今日も無事に家に帰ることができると、心から安堵感を覚えた。

来た道を順当に折り返したつもりだったが途中で車も走れる幅員の林道に出くわす。「えっ?ここはどこだ....?」と一瞬パニックになる。地図を広げてみると、どうも横海からやや北に下った余野から続く林道の様である。どうやら行き過ぎたようだ。そう、上りの際に迷った植林帯のところで左に逸れずに真っ直ぐ進んでしまったようだ。すぐさま後戻りし、あとは遠くから聞こえる沢の音を頼りに、行き当たりばったりに植林帯の中を進む。
やがて見覚えのある沢の辺に辿り着く。安堵感を憶える。ここからは小一時間もあれば下山できよう。時折、沢の水をコップに汲んで喉を潤しながら、順調に下っていく。

途中、来る時には気付かなかったが、人工的に組まれたような石積の洞穴が石垣の中にぽっかりと口を開けている。ひょっとして横穴式石室だろうか。手持ちの懐中電灯で中を照らしてみるが、光量が少ないせいか奥の様子までは確認できない。何となく不気味な感じがするので、入るのは止しておく。

15:34、児美谷神社に到着。南を臨めば、堂ヶ森が悠々と腰を下ろしている。ほんの2時間前には水平方向に見えた堂ヶ森が、今は見上げんばかりになっている。

今回の登山は目的地には辿りつけなかったものの、崩落跡の乗り越え、薮こぎ、急坂登坂など、登山ビギナーの僕にとっては色々な意味で良い体験になった。無事下山し落ち着きを取り戻すと、次回こそはこのルートでリベンジを果たしてやると、メラメラと意欲も涌いてくるのであった。



日暮れまでには時間があると、帰途ぶらぶらと散策することにした。
観察したオブジェは以下の通り。


1.児美谷神社
・村社
・藁で編んだ質素な注連縄が参道の脇に立ち並ぶ杉の小木の間に架かる

2.天龍山明長寺
・「周桑新四国中興起源 順番表保存ノ明長寺」と刻まれた碑が建つ。昭和53年3月に石川氏により建てられたものだ。

3.赤滝城跡
・「赤滝城跡は御祓川(おはらいがわ)の源流青滝山(1303m)の山腹あたりがそうである。文台、大熊の前哨戦に敗れた平家勢が最後の拠点として逃げ落ちたのが赤滝城であった。断崖絶壁の中に洞窟がある。本城の岩屋、野地の岩屋、木釣の岩屋である。しかし、洞窟戦は所詮は負け戦であった。今はこれまでと覚悟を決めた目代とその一族9人は岩屋から討って出て乱戦の末、自害して果てた。その地が九騎峠で温泉郡川内町滑川近くである。源平両氏の興亡を占う戦いが丹原町で起き、源氏方の河野勢が大勝した文台、大熊、赤滝の城跡は、日本史を飾る大史跡である。 平成6年3月吉日 丹原町文化協会建立」と説明書きが登り口のところに建てられている。

4.蜂ヶ森城
・「元弘3年(1333)、北条氏の鎌倉幕府は滅亡したが、その残党は各地にあって、建武の新政に対して反乱を起こした。伊予の国では赤橋重時が恵良城(北条市)で兵を挙げた。赤橋氏は北条市から出ているといわれ、重時は星の岡の戦い(土居通増、得能通綱の連合郡が長門探題・北条時直を破った戦い)に時直と気脈を通じ、敗戦後恵良山に城を築いて時期到来を待っていた。「重時反す」の報せに土居得能の連合軍は恵良城を攻め、重時主従18人は自殺したと伝う。
所が今一つの説が丹原町で生きている。重時は自殺と偽り、密かに城を遁れて周布郡に来て鞍瀬村(現丹原町)の面木山頂に立烏帽子城を築き、属城数ヶ所を構えて兵を挙げた。建武元年(1334)4月2日、得能通持、今岡通任、大祝安親ら2800余騎を率いて先ず属城楠窪の砦を攻めて守将・阿曽太郎を討ち殺し、進んで蜂ヶ森城を抜き、重時の一族・金沢蔵人を走らし、弟藤丸を斬った。同7日、赤岳城も落城して立烏帽子城は孤立無援となり、重時は城を出て遁れ遂に捕われて斬られた。城山の中腹に5基の五輪石塔が並んでいる。里人達兄弟を哀れみ、いつの頃か正面に胎蔵界の大日如来の種子(梵字)[他の三方は脇仏の梵字]を彫った立派な供養塔を建てた。
更に文政3年(1820)地蔵堂を建て、兄弟の霊をまつった。現在同地に大正9年(1920)氏子中で建堂一百年記念碑と、同年河野岩蔵氏寄進の八ヶ森地蔵権現堂(茅葺宝形造トタンで覆った美しい屋根)とその碑が建っている。ほんとうに故郷を愛する人達は、是非一度訪れて在りし日の歴史の跡を偲ぶべき貴重な遺蹟である。 昭和57年7月 丹原町文化協会」との説明書きが林道蜂下影線の入口に建てられている。

5.林道峰下影線
・幅員3.0m、延長6.0km
・途中に峰林道完成記念碑が建つ。
・登リ口の説明書きの地図には、八ヶ森地蔵権現堂まで1.5kmとあったので、是非見てみたいと2kmほど車を走らせてみたが、残念ながら見つけることができず。峰の集落のところに車を停めて、集落内を歩いてみたが、人の姿が見えず。畑に老婆がいたのを見つけたが、肥撒きの最中。ちょっと声をかけづらかった。

6.長目(ちょうめ)
・県道の上側に堂が建っている。これがひょっとして八ヶ森地蔵権現堂か?堂の前には六地蔵が佇む。どうやら寛保2年に建てられたもののようだ。
・長目橋の上から鞍瀬の清流を眺める。なかなか美しい風景である。

7.磐根神社
・夫婦杉、イチョウなどの巨木が聳える。
・イチョウは樹齢400年、樹高40.0m、目通り5.2m、根回り7.0mで、町指定天然記念物に指定されている。
・拝殿には牛頭天皇の額が掲げられている。
・10月10日には毛槍投げ奴が行われるようだ。

8.桜樹公民館前
・桜樹地区ふるさと案内板で確認した興味深いオブジェ達を記しておこう。
堂ヶ森、空池、相名峠、赤滝城跡、大野霊神社、石の神様、児美谷神社、天龍山明長寺、名護江塚、鞍瀬渓谷、貝の口滝、夫婦滝、奥夫婦滝、琴弾八幡神社、大谷観音堂、蜂ヶ森城跡、地蔵堂、磐根神社、毛槍投げ奴(10月10日)、千代の水、梅の木さん(新田塚)、稲荷神社、一石三尊六地蔵、子育観音堂、歯朽塚、素鵞神社、経塚、素喰神社跡、地蔵堂、岩勝隧道、十二社熊野神社、和霊神社、河野家の塚、大日堂、金比羅街道道標碑、おんびきさん(伊予の蛙石)、大熊城跡、猿舞嶽渓谷、七里碑、地蔵堂、諏訪神社、コガの木、祖母滝神社、虚空蔵堂、子持ヶ岳、地蔵谷、五社大明神社、金比羅権現宮、地蔵堂、五輪塔

9.新田塚(通称梅之木さん)
・「興国元年(1340)、新田義貞の弟・脇屋刑部卿義助、今張(今治)に上陸、国分城に入り5月4日急死す。新田の一族に義光と云う無精あり、再起を図ってこの地に隠れ住しも志なかばにして病のため死亡。臨終は白梅の古木の側であったと云う。文化11年(1814)里人武将の死を悼み佛塔を建てて供養を行う。爾来誰言うとなくこの祠を梅之木さんと稱えるようになった。毎年旧暦11月5日、臘梅ようやくふくらむ頃、里人相集い在りし日の武将を偲び懇なる供養を続けている。 [注]興国は南朝の年号である。北朝の年号は暦応で、興国元年は暦応3年である。  昭和59年7月 丹原町文化協会・丹原町観光協会」との説明書きが建てられている。



【同行者】なし
【コースタイム】今回は目的地到達不可だったので記さず。

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