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こたろう博物学研究所
探訪記録:20011111 |
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三津浜界隈探訪【平成13年(2001)11月11日】三津浜図書館【住吉2】図書館で調べモノをした後、三津浜探訪へと繰り出す。まず、図書館前に立つ館名碑をチェック。 「松山市立三津浜図書館は、大正13年12月1日当時の皇太子殿下御成婚を記念し、三津浜町立図書館として発足した。
なるほど、「この広い松山で分館が存在するのはここだけなのは何故だろう」と思っとったが、こんな由緒があったとは。
濱田醫院【住吉2】三津浜図書館より北に向かって細い路地を歩いていると、何やら古めかしくレトロな雰囲気を醸し出している建造物が目に留まった。木造二階建て。庭には棕櫚(しゅろ)の木や手入れされた犬柘植(いぬつげ)が植わっており、お洒落な感じがするのだが、窓ガラスが一部外れていたりして、とても開店営業中とは思えん。 6人の力士の墓【元町7】ヤマサキデイリーストアのある朝日橋の袂の横断歩道を渡り、宮前川の辺を南に歩いて行く。先程図書館で目にした本で、この辺りに「力士・押尾川の墓」があるとの情報を掴み、それを便りに探して歩いたのだがなかなか見つからん。厳島神社前の路地を通過して、半ば諦めながら次の門を右折し、厳島神社参道へと歩いていくと、住宅街の路地の傍らの角地にそれらしき墓があるではないか。 @三ツ湊 :万延元年(1860)没
・向かって正面より、
●地蔵尊・享保元年(1816)と刻まれている。●豫州溺死者招魂碑・明治17年(1884)の大津波の犠牲者を祀る。愛媛県女子師範学校/愛媛県女子師範学校附属小学校跡【須賀町】・元町と須賀町の間の道を歩くと、松山西警察署の官舎敷地に隣接して碑が建てられているが目に留まる。・昭和52年5月15日、両校の同窓会が建立した碑で、両校の歴史が刻まれている。 ●愛媛県女子師範学校・明治43年4月1日、松山市木屋町愛媛県師範学校に開校した・明治43年10月12日、独立分離して当地へ移った。 ・昭和18年4月1日、官立の愛媛師範学校女子部となる。 ・昭和25年11月、警察予備隊へ校地を提供し、愛媛大学内へ移る。 [校歌] 白帆は行き交ふ伊予の灘 眺めに富みたる三津ヶ浜 この良き自然の中にして 学ぶはいかなる幸ひぞ ●愛媛県女子師範学校附属小学校・明治44年4月1日、当地に開校した。・明治45年4月1日、高等科を併置し、幼稚園を開設した。 ・昭和25年11月、警察予備隊へ校地を提供し、三津浜幼稚園へ移る ・昭和27年4月1日、愛媛大学内に移り、三津の地を去る。 三津浜小学校「そういや、三津浜小学校敷地内に狸伝説も伝わるというお茶屋井戸があるはずじゃ」ということで訪問。しかし、お茶屋井戸には狸の痕跡一切無し。大樹があるとか、狸の像があるとかを期待したのに、残念からけるぞよ。●お茶屋井戸校舎南側のグランドの脇にお茶屋井戸があり、その横にお茶屋井戸由来を記す碑が建っている。「江戸時代(1603〜1867)のむかし、徳川幕府は全国の大名を治めるために参勤交代という制度をつくりました。松山の大名も江戸へ行くのに海を通っていくことになっていました。その船つき場として、三津浜が定められていました。潮待ちや休けいのために御別邸としてお茶屋をつくりました。海が近いので真水の出るところがなかなかみつかりませんでした。しかし、この場所から真水が出てお茶屋をつくりました。これがこのお茶屋井戸です。 のち、松山藩の学校である明教館の分校となり、その後現在の小学校になったのです。 いつまでも大切にして守りつづけましょう。 昭和62年2月吉日 改修 創立百周年記念」 ●三津浜小学校校歌(作詞:古田拡、作曲:清家嘉寿恵)校門をくぐってすぐの正面玄関右脇に鳳山書の校歌碑が立つ。1.波うららかな三津が浜 三津の浜べのわたしらは
2.風さわやかな三津が浜 三津の浜べのわたしらは
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