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こたろう博物学研究所
探訪記録:20020601

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皿ヶ嶺登山・重信町上林探訪【平成14年(2002)6月1日】



今回はメモ雑記のみ。


 先週の「日本晴れの休日」を会社からの呼出で完全に潰されてしまい、むしゃくしゃした気分を吹き飛ばそうと山登りでもしようとも思ったのだが、疲労も貯まっているようで、どうも遠出する気にもならないない。うん、御近所の山にでも行って、ゆっくり花でも愛でながら歩くことにしよう。

 10:00過ぎに行動開始。近所のガソリンスタンドで給油し、お手軽な山登りの場所「皿ヶ嶺」へと向かう。途中、下林のコンビニ(サンクス)にて昼食の材料を調達し、11:30に上林小学校前の「皿ヶ嶺・上林観光案内図」を観察。ここを通るのは昨年の冬以来だが、知らぬ間に真新しくなっている。(平成14年3月にリニューアルされている。)



 寄り道していたら、結局風穴に到着したのは、12:00。5分ほどで準備を整えて登山開始。

 知らぬ間に林道から風穴横の東屋まで擬木の階段が設けられている。アウトドアリゾートを目論んでいるのか、税金の使い途がないのか....。「余り手を加えないほうがいいのにな」と尻目に眺めながら登山道を登っていく。
 風穴直下の林道沿いには15台ほどの車が所狭しと停められている。「今日はお客さんが多いのかなぁ」と思いつつ歩いているとけたたましいチェンソーの音が山間に響いてくる。どうやら伐採作業に訪れた人達の車らしい。静かな山歩きに一抹の不安を感じてしまうのだが、まぁ竜神平ぐらいまで上がれば、この音も気にならなくなることだろう。

 登りはじめて間もなく、登山道に腰を下ろし、スケッチブックに巨樹の絵を描いている夫婦連れとすれ違う。何の変哲もない風景なのだが、このように道に腰掛けてスケッチしている姿を見ると、何だか新鮮な景色が広がっているような気分になってしまう。

 今日は「花でも愛でながらゆっくりと歩く」のが目的。しかし、あまりめぼしい花とは出会わない。
 何組かの下山中の登山者と行き交う。その度に道の脇に除けて道を譲りつつ、目に留まった花や木、風景をデジカメで撮りまくる。竜神平のすぐ手前で、下山中の夫婦連れに「何か珍しいものでもありますか」と声をかけられる。花の写真を撮っていることを告げると「花は全然なかったですよ。薊の蕾があったぐらい」と寂しい言葉が返ってくる。

 13:01、竜神平。5分ほど散策したが、花が全くといっていいほど見当たらない。仕方ないので山頂を目指すことにする。

 愛大小屋の脇から続くルートを歩いていくと、一人の下山者とすれ違う。よくよく顔を見てみると、会社の同僚の佐藤さんである。
 「ありゃぁ、また来とったんかいな」
 「ここは思い付きがいい山だからねぇ」
 「そうそう。思い付いたら昼ぐらいからでも大丈夫じゃけんね」
 「今日はどっから登ってきたの?」
 「風穴からなんよ」
 「そりゃ、いかんなぁ。もっと手前から登らなにゃ!」
 「えぇ、佐藤さん、どっから登ってきたん?ひょっとして、上林のバス停んとこ?」
 「いやいや、そこまでは下がらんけど、ほら、滝のとことの分かれがあるだろ。あそこからだったら、800mほどの高度差があるからなぁ」
 いやはや、全くタフなもんである。

 10分ほど立ち話をした後、別れて一人山頂を目指す。13:32、皿ヶ嶺山頂着。晴れてはいるものの、白く霞んでいてどうも遠景がはっきりしない。日が照り付けて暑いし、虫も多いので、ちょっと下ったところで昼食休憩にすることにしよう。

 13:42、十字峠を越え、5分ほど歩いたところで腰を下ろすこととする。周り一面木々で覆われた空間ではあるが、涼しい風が時折そよぎ、ゆったりした気分になれる。たまにはこんなところでメシを食うのも悪くない。

 14:45までの約1時間、林間での食事休憩をとった後、風穴直上へと続くルートで下山。

 15:10、風穴に到着。ベンチに腰を下ろし、風穴から流れ出す冷気を浴びてくつろいでいると、20歳前後の若者カップルがやってきて、石室の中を覗き込み、
 「これが風穴?風吹いてないねぇ」
 「何が植わってるんだろ?」
 「何も説明書きされてないねぇ」
などと語らいはじめる。
 「それはヒマラヤ地方の青いケシを栽培しとるんよ」
と教えてあげようと思っていた矢先、東屋に腰を下ろして休んでいた夫婦2組4人連れが、腰を上げ、そして聞こえよがしに「あれヒマラヤの何やらを栽培しよるんとのぅ」と会話しながら立ち去っていった。
 そうか、あんたらも、しっかり若者カップルの会話に聞き耳たてとったんじゃね....。

 そうこうしていると、次々と山頂から登山者が下山してきた。そのうちの推定年齢65〜70歳のおじいちゃんが、「こりゃまた立派な歩道が知らん間に出来とるもんじゃなぁ」と独り言をつぶやいた。互いに単独行同士だったこともあり、これにはつい反応してしまい、「そうですねぇ。去年の冬に来たときには無かったのに、いつの間に出来たんでしょうね」と言葉を返した。
 それからは屋台での意気投合に似た状態である。色々と山談義が花咲いていく。 

 「ここのヒマラヤのケシは結構有名みたいで、わざわざ徳島から見に来た夫婦がおったわい。その夫婦の車がオーバーヒートで動かんなってなぁ。エンジンから蒸気吹き上げながら上がってきたんじゃけんなぁ。そして、にっちもさっちも行かんようになってしもて。それで旦那のほうが、『なんで出る前に点検せんのぞ』言うて怒りはじめて。奥さんが『ちゃんと車屋さんに点検してもろた』言いよったんじゃけど、いかんわいな。それでもオーバーヒートするんじゃけん。じゃけど、まぁ夫婦よな。奥さんが『まぁ下のところで素麺でも食べて気を静めましょうや』ちゅうてなだめすかしたら、『そうじゃな』言うで仲直りしよったけんな」
 まぁ、山談義というより、おじいさんの独断場といった感じである。
 更に話は続く。
 「こないだ堂ヶ森へ行きよったんじゃけど、途中で断念してなぁ」
 「そうですね。堂ヶ森上がるん、結構しんどいですもんね。で、保井野から上がられたんですか?」
 「ん?いや、面河からよ」
 「あぁ、梅ヶ市からですか。あっちのほうが少しは楽ですよね」
 「あれ、あの土小屋んとこに駐車場があろうがな。あそこに車を停めてな」
 「えっ、石鎚越えて堂ヶ森までですか!そりゃタフですねぇ」
 「いや、石鎚じゃのうて、...。神社の手前に車とめて上がる.....。.あ、違わい。筒上山じゃったわい」
納得。

 いつも他の登山者と出会うことが少ない山登りばかりしているのだが、このような話を繰り広げる登山というのも、たまにはいいもんだ。

●今日の登山で眺めた木や花々

登山途中では、ミズナラ(ブナ科)、サワシデ(カバノキ科)などの巨木を観察。
花については以下の通り。
 
ラショウモンカズラ 風穴付近。
季節遅れで花は散りかけ。
ホウチャクソウ 風穴〜竜神平
山頂付近
ガマズミ 風穴〜竜神平
竜神平〜山頂
ツルアジサイ 風穴付近
フタリシズカ 風穴直上 マムシグサ系 随所
ヤマツツジ 山頂 ギンリョウソウ 十字峠〜面白嶽途中
 
その他、スミレ科の白い花・名も知らぬ小花に出会うことができた。
下山後も色々と花を観察。
 
ヤマボウシ 風穴周回林道沿い ボタン 風穴周回林道沿い
ベニウツギ 風穴駐車場付近 ウツギ 風穴付近
ノバラ 水の元のやや下手の道沿い コガクウツギ 水の元のやや下手の道沿い
 



【同行者】なし
【コースタイム】風穴−(55分)−竜神平−(20分)−皿ヶ嶺山頂−(10分)−十字峠−(25分)−風穴

いつもの如く、下山後の探訪モードへと入る。
いつもの如く、主体性のない探訪、主体性のない記録になってしまうが、おこらえよ。



上林の棚田を見下ろす
 圃場整備されているため、趣にやや欠ける感はあるものの、広範囲に並ぶ棚田に水が張られた風景はなかなか見応えがある。


小社【重信町上林】
 白糸の滝方面と皿ヶ嶺方面との分岐よりやや下手のヘアピンカーブの上部に何やら小社が見える。路側に車を停めて訪ねてみるが、社名や祭神などを示すものは全くない。


上林の六十六部回国供養塔群【重信町上林 高智】
・町指定有形文化財(平成9年4月1日)
・高智橋やや下手の県道沿い。


「ささゆり夢未来」の碑・副碑「上林ささゆり緑の少年隊」【重信町上林】
 
昭和53年 上林小学校の児童を隊員として結成
昭和57年 国土緑化愛媛県推進委員会委員長感謝状
昭和59年 愛媛県教育委員会教育長表彰
昭和62年 国土緑化愛媛県推進委員会委員長表彰
平成5年 国土緑化愛媛県推進委員会委員長表彰
平成6年 緑化推進運動建設大臣感謝状
平成7年 日本鳥類保護連盟会長褒賞
平成11年 緑化推進運動功労者内閣総理大臣表彰

私たちは、碑文を深く心に刻むとともに緑化推進と豊かなふるさとづくり活動継承の証として、この碑を建立するものである。
平成13年2月25日 上林小学校創立125周年記念事業実行委員会

花畑
ナデシコ、クサフジなど



上林の六十六部回国供養塔群【重信町上林 谷】
・町指定有形文化財(平成9年4月1日)
 
天明5年(1785)〜文政5年(1822)まで、ほぼ40年間にわたり建立された上林地区の7基。すべて自然石。

町内には、現在15基の回国塔があり、内7基が上林地区の道沿いにあります。
釈迦滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が人々を救う。それまで経典を守り伝える目的で、66部の経を写し全国66か国の代表的な社寺・霊場に一部ずつ奉納して巡る人を「六十六部」略して「六部」「回国聖」「行者」などと呼びました。(明治3年廃止令)
その納経満願のしるしが「回国塔」です。
上林の回国塔の特質は、巨大で建立に相当の財力や人力の合力があったこと、回国者や建立者が、村人にとっては、■の人が多い事。刻文に「天下和順・日月清明」といった大らかさや、上浮穴郡との交流に想いを馳せてくれることなどでしょうか。
 



長林寺【重信町上林 花山】
●上林の六十六部回国供養塔群【重信町上林 花山】
・町指定有形文化財(平成9年4月1日)
●狩猟鳥獣供養塔


花山川/花山橋


上林保育園【重信町上林】
 
●造林記念碑
 
拝志村造林成在■明治三十四五年間先是村人天埜知規首唱之官賜資金若干知規乃今日村民宣救力不可出銭衆悦従其指揮協心戮力把■■斫榛奔遂植檜杉松櫪五十餘萬本於合二十年既在蔚乎成在者矣自今更経二十年則百八十三戸之■利可達数十萬圓云豈不盛乎由是観之衆心不一致指揮無其人焉百事不可成亦可推知也記以告後人大正九年三月下澣
   松山 村井俊明撰並書

●権衛社頌徳碑
 
 藩政中期、上林村五本松に権右衛門、五郎助という兄弟がいた。史料が残っておらないので明確なことは不明であるけれども、上林村に対する上納米の取り立てが厳しく、そのため村人は過重な負担に苦しんだ。そこで、二人は投獄を覚悟のうえ藩主に直訴した、
 二人は直訴の罪を免れず投獄され、五郎助は宝暦9年(1759)7月、権右衛門は同12年(1762)10月獄死した。
 明治維新後、村民はこの二人を義人としてたたえ、殿倉跡に権右衛門社を建て、また菩提寺法蓮寺に地蔵尊を建立して二人を顕彰した。
 上林区長 山内 勝
 昭和51年9月



お京ヶ淵【重信町上林】
 拝志川にある「お京ヶ淵」。河童に引きずり込まれたお京さんに纏わる伝説が残る場所で、以前から探訪したいと思っていたのだが、どうにも所在がよくわからない。花山橋のところから保育園の前を北へと折れて小道を下りていくと、農家のおじさんAが腰を下ろして休んでいたので場所を尋ねてみる。
 「こっちじゃないわい。この上へと真っ直ぐ進んでいったらお地蔵さんがあるけん、そこを左に行ったらええわい」
 「花山橋を渡るんです?」
 「いや、花山の方に折れんと、まだ上の方へ行ったらお地蔵さんがあるけんな」
 県道沿いにそんな地蔵あったかいな....と思いながらも、まぁ行けばなんとかわかるだろう。有り難うと一礼して言われた地蔵を目指して県道を歩いて行く。しかし、どこにも川へと下りて行くような道は見当たらないし、目印の地蔵も見当たらない。諦めようかと思っていると、丁度いいところに田仕事をしている農家のおじさんBの姿が。
 「すんません、お京ヶ淵はどこらへんになるんです?」
 「お京ヶ淵? あぁお京淵か...。ほら、あそこに大きな杉があろがな」
 指差す方向に目をやるが、川の辺は雑木が生い茂っていて、どれがどれやらさっぱりわからない。とにかく県道沿いを歩くのではなく、花山橋のところから続く農機運搬道を川沿いに上がらなければならないことはわかった。
 「ありがとうございました、とにかくあの辺ですね」
と県道を下っていこうとすると、
 「そこの畑の畦を通っていったらええわい」
と教えてくれる。ヒトんとこの畑を通るのは恐縮する思いだったのだが、有り難い言葉に従うことにする。
 畦道を通り、川の辺まで下りてみる。なるほど、淵らしきものが見えるが然程深くもない。おじさんAが言っていた地蔵も無い。
 ふと後ろを振り返るとおじさんBがしきりに腕を振り、何やらブロックサインを送ってくれている。「そうか、川に下りて左へ進めということか....」と勝手に解釈して下りていくと、抹茶ミルクのような不思議な色の、如何にも河童が棲息していそう淵がある。河童が住むにはやや手狭な淵ではあるが、異界的情緒はたっぷりである。
 写真に収めるにはどうもアングルが悪い。上を見上げると田の畦から全体が写せそうだ。引き返して上まで上がり、淵の直上に向かって進むと、確かに地蔵が1体佇んでいる。なるほど、おじさんAの語っていた言葉も嘘ではない。
 無事目的の淵を訪れることができ、満足した気分で川の辺の農機運搬道を歩いていると、上のほうからおじさんBが「わかったか〜!」と大声で声をかけてくれた。「ありがとう、おかげさまで見ることができたよ」と大声で返す。
 見ず知らずの人の親切に触れ、清々しい気分になる。これだから、探訪は止められない。


拝志神社【重信町上林】
 鳥居の横には「正八幡大神/稲荷神社」の神名石が、また拝殿内部には「正八幡宮/稲荷神社」と記された社号額が掲げられている。


茶堂【重信町下林】
 茶堂といえば城川町の茶堂郡が有名であるが、ここ重信町・川内町にも多くの茶堂が現存しているのは案外知られていないのではないか。


片山神社【重信町下林】
 以前から県道・伊予川内線を通るたびにその存在が気になっていたのだが、周りに駐車場らしきものも、拝殿へ続く道らしきものもないので、いつも停まるに停まれず、「またいつかの機会に」と探訪持ち越しが続いていた。
 今日は往路でどこらへんに路上駐車すればいいかを押さえていたので、念願が叶えることが出来た。しかし、期待に反し、余りめぼしいモノは見つからなかった。
 牛頭天王系の神社だろうか、拝殿内には「片山祇園宮」の額がかかっている。
 拝殿に向かって左側の奥に末社群が立ち並んでいる。勧請しているのは五穀神、天満宮など。


素鵞神社【松山市市坪】
 帰宅途中に、もう一ヶ所立ち寄ってみる。

●子規句碑
 
「荒れにけり茅針まじりの市の坪」
明治25年春の句。茅針は「つばな」。ちがやの若い花穂のこと。この年、子規は7月11日〜8月26日の間帰郷しており、7月下旬伊予郡永田村(現松前町)の友人、武市庫太を訪ねて一泊、8月2日にはその武市庫太にたのまれ永田村祭礼の折の初句の選をしている。そういう時にこの地を通っての吟か。昭和天皇御在位60年記念に昭和62年(1987)建立。
松山市教育委員会
俳句の里 城南コース16番

●素鵞神社(由緒)
 
伊予風土記に郡家の北町の所に一ノ津あり 是れ往古天道姫命御国巡りの時御船を止めさせ給へる地なるを以って一ノ津と言う 後世此地に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)及天道姫命を祭る 後ち安長家当村に在住以来自己の家に常に尊敬せし素盞男命(スサノオノミコト)を合せ祭る 慶長の頃足立重信により伊予川の河身変更の後しばしば水害の為め社殿衰退に帰せしが明和8年(1771)現在地へ移転して現今に及ぶ

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