道後公園・護国神社界隈【平成14年(2002)6月18日】
今回はメモ雑記のみ。
娘が英検を受験するというので、送り迎えのついでに試験会場周辺を散策。
目にした看板の内容は以下の通り。
●道後公園
道後公園は全体で約8.6haあり、外堀を含め南北約350m、東西約300mで、中央部は約70m(比高約30m)の丘陵部となっています。
明治19年に設置された道後植物園を前身とし、明治21年に県立道後公園となりました。
昭和62年の道後動物園移転に伴い、昭和63年から発掘調査を実施したところ、湯築城跡の遺構や遺物が数多く出土しました。
12年間におよぶ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、遺物として土師質土器、輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など約25万点が出土しています。
湯築城跡の遺構は、全国的にみても、中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、極めて貴重な遺跡であることが明かになりました。
この遺跡を保存・活用するため、復元区域では、武家屋敷や土器などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており、散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としております。
●湯築城跡
湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城(ひらやまじろ)」の形態をなす中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、河野通盛(みちもり)によって築かれたといわれています。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、13世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有(みちあり)がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家文書の記述などから、遅くとも建武年間(1334〜1338年)には築城されたと推定されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正13年(1585)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景(たかかげ)に湯築城は包囲され、河野通直(みちなお)は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。
●管理事務所
●湯築城資料館
▼湯築城の構造的な特徴
湯築城跡は、丘陵部の周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。平面形は南北にやや長い亀甲形(南北約350m、東西約300m)で、北東部のみ鉤形に隅が欠けています。
14世紀(南北朝期)の築城とされていますが、発掘調査では15世紀の遺構が丘陵部を中心に見つかっていて、その頃は山城であったと考えられます。その後1世紀前半に周囲に堀と土塁を築いて城を大きく拡張したようです。
発掘調査は、昭和63年度に開始され、平成6年度まで平地部の南部を中心に行われました。また平成7年度には丘陵部(きゅうりょうぶ)・東部・西部の試掘(しくつ)、平成10〜13年度には搦手門(からめてもん)などの追加調査が実施されています。
その結果、内堀(うちぼり)の周囲に内堀土塁(うちぼりどるい)、外堀土塁(そとぼりどるい)の内側には道路が巡り、その間に礎石建物(そせきたてもの)などがある居住区が存在する様子が明らかになりました。
▼土器捨て場の位置と規模
守護や戦国大名の城館(じょうかん)では、高級な陶磁器を座敷に飾り、庭園を眺めつつ宴会(えんかい)をして土器を使い捨てる行事が重視されました。土器がまとめて捨てられた遺構はその行事の痕跡(こんせき)です。大規模な土器捨て場や高級な陶磁器が多く見つかった庭園区・上級武士居住区は、河野氏の館(やかた)である可能性も含めて検討する必要があります。
▼河野氏の歴史
中世の伊予で最大の武士団を形成した河野氏は、風早郡河野郷(北条市)に発生し、やがて源平の争乱には、河野通信(みちのぶ)が平氏討滅戦で大きな功績を立てたので、鎌倉幕府から有力御家人に並ぶ待遇を与えられました。
承久の乱では、通信をはじめ河野氏のほとんどが後鳥羽上皇方となり、敗れて没落しましたが、通信の子通久(みちひさ)は幕府方に組したため、久米郡石井郷を与えられました。
元寇(弘安の役)では、一族あげて九州におもむき活躍し、その恩賞として九州でかなりの領地を与えられ、一族は九州、美濃、信濃、甲斐等諸国に広がりました。
南北朝の動乱を戦い抜き、伊予国の守護としての体制を築きあげると共に、本拠を河野郷から道後湯築城に移し、以後、湯築城は守護所として伊予国支配の中枢となりました。細川氏の介入、長い一族間の内紛を経て戦国期には、室町将軍足利氏との結びつきを保ちながら周防の大内氏、豊後の大友氏、安芸の毛利氏と次々に近隣の有力大名と同盟を結ぶとともに村上氏などの海賊衆を背景として伊予の支配を維持し続けました。
通直(弾正少弼=だんじょうしょうひつ)は、娘婿の村上(来島)通康(みちやす)の後ろ盾を得て、家臣団の反乱を克服しました。その頃、湯築城の外堀とみられる堀「温付堀」が築造されています。
その後、通宣(みちのぶ)(左京大夫=さきょうだいぶ)の代には、毛利氏の援助をえて土佐一条氏の侵攻を阻止しましたが、最後の当主通直(幼名牛福丸)は、土佐の長宗我部氏との戦いのさなか、全国統一をめざす豊臣秀吉の軍門に降って当城を明け渡し、河野氏の伊予支配に終止符がうたれました。
●土塀
土塀は川原石を使って0.7m幅(最大は1.0m幅)の二列の石列を作り、間に小さな石をつめて2〜3段の高さの基礎を立ち上げます。その上に粘土のブロックを積み重ねて、表面に壁土を塗り仕上げます。調査では基礎石部分だけが検出されました。各屋敷は14〜15m間隔で土塀によって区画されており、道路側で土塀によって区画されており、道路側で土塀の切れている所を入り口としていました。
土塀の立体復元は、周辺民家の土塀や石手寺に残る「往古図」にみられる各種の土塀を参考に、本体や屋根の構造とか高さなどが検討されました。土塀本体は基礎石の上に厚さが約20cmの粘土ブロックを6段積み上げて作りますが、屋根を安定して支えられるように上のほうがやや幅広くなっています。壁土は5回に分けて塗り重ねられ、厚さは約6cm程度あります。屋根は板で葺き、土(上土=あげつちという)で押さえます。
高さについては、土塀の役割が主に敷地の区画と侵入防止にあるとの見方から、人の目線より高く、乗り越えにくい高さという条件から、基礎幅が0.7mの土塀で1.8m、1.0mで2.3m程度としています。
●武家屋敷1
●家臣団居住区
●内堀(うちぼり)
●内堀土塁(うちぼりどるい)
この城には堀が二重に巡らされています。そのうち内側の堀を「内堀」といいます。敵が中央の丘陵に簡単に攻められないようにするために掘られたものです。さらに守りを固めるため、堀を掘った時の土を掻き上げて土手を造っています。これを「内堀土塁」と呼びます。
内堀の規模は幅11〜12m、深さ3m、内堀土塁は基底幅7m、復元高2m程度です。
内堀土塁が作られるより前の層(おおよそ14世紀)に掘り込まれた土坑(どこう)(穴)が見つかりました。土坑の中には石が4個と、大量の炭や焼けた土がつまっていました。さらにその土に混じって人骨の小破片がたくさん見つかりました。このことからここでは火葬が行われていたと考えられます。4個の石は棺桶を置くための台であったのでしょう。
●武家屋敷2
この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや、当時の資料をもとに復元されました。
5個の礎石と2箇所の礎石抜き取り痕が発見され、これは建物の棟通りと考えられます。
また西側の南北に並ぶ礎石は、他の礎石よりも小さいことから、この建物の西側には庇があったと考えられます。
●道路・排水溝
外堀土塁の内側には道路と排水溝が巡っています。道路の幅はおよそ3mです。道路に接して流れている排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られています。
城内には排水溝が折れ曲がり道路幅の狭くなっている所が数箇所ありますが、この場所は道路も排水溝も直線的に伸びており、これらの基本構造を最もよく表しています。
●庭園区
●庭園の池
ここでは池が発見されました。3m四方に小石を敷き詰めた深さ0.3mの浅い池と、大きな石を周囲に配置した最長8m、最深部0.8mの池が一体化した形です。
道路に沿って流れている排水溝から、細い溝をつないで池に水を取り込んでいます。
池の周囲には建物の一部と思われる礎石があることから、池をのぞむ建物などがあり、庭園が造られていたと考えられます。
●最大土坑(さいだいどこう)
この場所には、長さ6.8m、幅3.4m、深さ0.8mの、発見した中では最大の土坑があります。
中からは土師質土器の■が大量に出土しており、また、破損した陶磁器や魚骨、貝類などもみられ、ここがゴミ穴として利用されていたことがわかります。
当時、土師質土器の■は、儀式や宴会で使用された後に捨てられます。近くにある庭園をのぞみながら宴会などを楽しんでいたのでしょうか。
●外堀土塁(そとぼりどるい)
外堀土塁は外堀を掘った時に出る土を盛り上げて造られており「掻揚げ土塁」と呼ばれています。堀と一体となって城の領域を形づくり敵の侵入を防ぐことや、城内がどのようになっているのかを外から見られないようにする目的があります。この付近の土塁が最も残りが良いので、断ち割って造り方をみることにしました。
機械のない時代に多くの人々の手によって造られたこの大規模な土塁は、湯築城跡の中でも最も代表的な遺構です。
●上級武士居住区
●土塁展示室
開館時間 AM9:00〜PM5:00
●道路・排水溝・外堀土塁裾石
城内の南東角に当たる場所です。外堀土塁に沿って造られている道路や排水溝は、この場所で折れ曲がり、水はここから西へ流れていきます。
また、道路に面して外堀土塁の裾に巡らされている裾石は、ここが最も高く良好に残っています。
●土坑(ゴミ捨て穴)
土坑の大きさは、長さ約2.5m、幅2.0m、深さ0.5mです。この土坑は内堀土塁裾に作られた排水溝を壊して掘られています。
出土遺物は、土師質土器の■や杯が最も多く、なかでも京都の土器を真似たものが、他の土師溜りに比べて多いことが特徴です。これ以外に釜や擂鉢、備前焼や中国陶磁器、瓦質土器がみられます。また周辺では西日本で出土例が少ない丹波焼きの擂鉢もありました。最大土坑と同じく儀式や宴会で使用されたものが棄てられたと考えられ、前方にみられる天然の岩肌のすばらしい景色を眺めながら宴会が行われたのでしょう。
●遮蔽土塁
この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い所です。この土塁の重要な役割は、大手からの視線をさえぎることと、上級武士居住区への容易な侵入を防止することにあります。もちろん、この土塁と外堀土塁の間には門が必要です。
▼排水溝(実物展示)
■の前の溝は当時の実物です。大手からの溝は2段■まで使用された後、埋められていました。石の間に見られる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石を入れ復元しています。
内堀に流れ込む溝は4段階のもので、遮蔽道理の南面を区画しています。溝が交わっている箇所で、作られた時代の新旧を判断することができます。
●岩崎神社
祭神
1.白人明神小千命
1.河野家累代の霊
1.土居備中守の霊
1.得能備後守の霊
建長年中 別府弥七郎■ 創祀
貞享二年 道後温泉閉塞
里人相談し神楽を奏す
霊験をえて再び報賽の神楽を奏す
元禄年中 安田氏 心願により改築
享保二〇年 里人拝殿を再建す
【民話】
この神社は、蛇を祭っていると言ういわれがあります。昔、お爺さんがたけのこを掘ろうとしていると、おかしな事に急に眠くなり、そばの木の根元に座ってタバコを一ぷくしながら休み、吸い殻をポンと、木の根っこに落としました。すると木の根っこがぐらっと揺れて遠くの方から(アッチッチ)と言う声が聞こえたような気がしました。
よく見ると、木の根っこと思っていたのは実は大蛇だったのです。あまりの怖さに気を失い、大蛇に食べられました。この蛇は大変大きく長さはこの神社より義安寺にとどくくらいだったそうです。その後大蛇は、暴れ回り何人もの村人を飲み込んだり、村中を荒らし回ったので困り果てた村人はどうしたら良いか相談し、神社を作り蛇を祭る事にしました。それからは暴れる事もなく村も平和になったそうです。今でもこの蛇を(ミイさんミイさん)と呼んで大事にし、この神社をおまいりする女性も多いようです。
小祠にはタマゴがお供えしてある。いかにも蛇を祀っている神社らしい。
●河野氏城址碑
岩崎神社への参道登り口、鳥居の横に建っている。
河野氏元越智氏 孝霊天皇の裔乎致命に出つと稱す 応神天皇の朝伊豫小市國造に任せらる後裔居を河野郷に遷し以て氏とし高縄城に據り治を伊豫に布く承久の乱河野
通信義兵を京畿に出して精忠を■んで元寇の役伊豫水軍の師河野通有進撃不運を戮して困難を救ふまた清僧一遍出てて時宗教を開き聖教洵に萬世に薫る建武中興には土居通増得能通綱支族より出てて向公の忠節に殉す後更に居を道後に遷し湯月城を築く河野通直の時に至り豊臣氏の攻むる所となりて滅ぶ時に天正十三年九月■に六十餘代千三百有餘年也偉なりと謂ふへし項目慈光會教主空覚尼この■地に巡錫し轉その桑海の■を悼む同信相寄り茲にこの碑を建立 以て世に河野氏の遺績を傳ふ
昭和16年11月建立
●展望台
●丘陵広場
●「皇太子殿下駐駕所」碑
・「正三位勲一等男爵波多野敬直謹書」とある。
・背面には「明治36年10月16日行啓 久保庄太郎謹訓」と記されている。
●句碑
ここから湯釜薬師へと下りる道沿いには数多くの椿が植わっている。
●道後温泉碑
●石造湯釜
「重要文化財 湯釜 昭和29年11月24日 愛媛県」の立て札が向かって左側に建っている。
●子規記念博物館
●句碑
「寝ころんで蝶とまらせる外湯かな」
●子規/漱石句碑
「ふる枯や 鏡にうつる 雲の影 子規」
「半鐘と 並んで高き 冬木哉 漱石」
●子規歌碑
「足なへの 病いゆとふ 伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば」
道後公園の内堀は、紅白の水蓮の花が見頃であった。
●万葉植物園(みゆき会館)
▼熟田津の碑
●龍泰寺
▼めがね橋
▼物外和尚
休憩所内に貼られていたコピーを書き写してみた。
万松山龍泰寺(曹洞宗、本尊釈迦如来)〜めがね橋のある龍泰寺〜
寺の入り口には、大川が流れており、有名な石造りのめがね橋(太鼓橋)がかかっている。寺が現在地に移転されたころ造られたと伝えられている。中国の技法をまねて造られたもので、近代力学にかなうじょうぶな橋だといわれている。
龍泰寺は、千秋寺と御幸寺の間にある。天正6年(1578)ころ、商大グラウンド(松田池跡)の南東に立屋是春(?)が寺を開いたと伝えられている。現在地に移建されたのは、十三世宝山の時で、四代松山藩主松平定直の保護によるものである。
このめがね橋を渡り、30mほど行った所に龍泰寺の山門がある。この山門は移建された当時のもので約200年前のものである。昭和62年屋根のふきかえをし、鬼がわらに変わっているが、以前は、龍泰寺の象徴として龍の形をしたかわらが屋根の棟の端に置かれていた。
本堂は戦災にあい、残念ながら消失したが、昭和22年(1947)にお寺の裏山の木を使って近隣のどの寺よりも早く再建されたという。この本堂で、昭和8年(1933)ころから始まった座禅の会が今も行われている。一般の人たちのための精神修行の場として広く知られている。この座禅会には、沢木弘道老師も12年間参加されたという。
(1)文明(ぶんみょう)と五百羅漢
めがね橋のたもとに−「五百らかんあり」−と刻まれた立石がある。これは、龍泰寺の住職であった文明と親しかったといわれる明月上人が書いたものである。この五百羅漢は。天明5年(1785)に、十五世賢峰文明(ぶんめい)が造立したと伝えられている。文明は、享保〜寛政年間(1716〜1801)の人で、寺では「ぶんみょう」と呼ばれ、松山寛政八僧の一人である。五百羅漢と分明とのかかわりについては次のような話が伝わっている。
寺内に五百羅漢の像を設けるため多額の寄附を集めていたが、ある夜、三人組の強盗がそれぞれ日本刀を抜いて暴れこんだ。寺男等はブルブルふるえ上がっていたが、和尚は毅然として三人の兇賊に向かい「幸いこの家に五百羅漢の寄附金が溜めてあるから、これを進上しよう。そのかわり諸君も仏の子にちがいないのだから、以後改心して正しい商売をやりなさい」と説教をして、寄附金の全部を渡し、なお食事をあたえ、「途中空腹になったら食べるがよい」といって。にぎり飯まで持たせて帰した。それから1,2年の後、その三人組がりっぱな商人となり、多額の金を返して来たので、和尚は「生きた羅漢を三人つくった」といってよろこんだという。
龍泰寺の歴史を語る五百羅漢は、戦災にあい残念ながら焼失した。現住職夫人は、三体の羅漢について「私が子供のころ見た三体の羅漢さんは、他の羅漢とちがって光背がない木彫りで、でばぼうちょうとにぎり飯を持ち、ほうかむりをしていましたね。改心した三人が昔の自分の姿を彫ったものだと聞いております」と語った。 |
●一草庵
●御幸寺
門前には「南無御幸山蔵王大権現」「南無大師遍照金剛」と染め抜かれた赤い幟が立ち並んでいる。
●御幸寺山
山頂には4等三角点が建っている。見晴らし良好。
▼愛宕権現/白山権現
▼「國威宣揚」碑(梅津喜一謹書)
▼御幸寺山蔵王
●護国神社
どういうわけか、お宮参りに訪れていた知人(高橋さん)にばったり出会う。
●萬翠荘
▼藩政時代の井戸
●愛媛県美術館分館 郷土美術館
「塩月桃甫とその周辺」(主催:愛媛県美術館、会期:平成14年6月15日〜8月11日)をやってたんで見学することにする。観覧料金100円。非常にリーゾナブルだ。缶ジュースを飲むよりも安い。
出品作品は以下の通り。
塩月桃甫 |
風景(昭和25年・油彩)、風景(昭和20年・パステル)、風景(昭和20年・コンテ)、舟のある風景(昭和20年・鉛筆、パステル)、猫(昭和20年・鉛筆、パステル)、魚(昭和20年・パステル)、朝顔(昭和20年・パステル)、人物(昭和20年・鉛筆)、母と子(昭和20年・鉛筆)、人物(昭和20年・パステル) |
高濱虚子 |
伊豫の湯 原稿(大正8年) |
松原一 |
庭(昭和初年・油彩)、裸婦(昭和20年・油彩)、裸婦(大正11年・油彩)、着物(制作年不詳・油彩)、婦人像(制作年不詳・油彩)、遍路(制作年不詳・油彩) |
藤谷庸夫 |
金扇(昭和4年・油彩) |
石川欽一郎 |
台湾 朝の港(明治40〜45年・水彩) |
●愚陀仏庵
●裏山散策
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