![]() |
[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
Information Laboratory] Copyright (C) Kotaro Iseki (1996〜2022). All rights reserved |
![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 新居浜市 (旧・別子山村) |
【トップページ】【伊豫の隅々インデックス】【カテゴリ別インデックス】 |
村の花 | 村の木 | 村の花木 | 村の鳥 |
シャクナゲ | 五葉松 |
※2003年4月より、新居浜市別子山になった。
大字 | 字 |
中七番(なかひちばん) | |
日浦(ひうら) | |
弟地(おとじ) | |
筏津(いかだづ) | |
一の谷(いちのたに) | |
奥平(おくだいら) | |
葛籠尾(つづらお) | |
瀬場(せば) | |
床鍋(とこなべ) | |
保土野(ほどの) | |
肉渕(にくぶち) | |
芋野(いもの) |
旧別子銅山産業遺跡【別子山村銅山跡】
1999/9/12
![]() 旧別子とは、元禄4年(1691)より大正5年(1916)に至る225年の間、別子銅山の採鉱ならびに製錬の中心(地)であった所で、山中には多くの遺蹟が残されており、新居浜市発展の礎を築いた所として、市民の心の故郷となっている記念すべき所である。山中を通り銅山越をこえて嶺北角石原(かどいしはら)まで約2時間の行程である。 西に聳える堰堤は別子ダムで、貯水量542万トン、この水は西山と銅山越の間をトンネルで抜けて小女郎川東平発電所に落ち、鹿森ダムに溜まって工都新居浜の工業用水として利用されている。 |
![]() この奥に、円通寺小足谷出張所の跡があり、その廻りの墓地には開坑以来大正5年別子撤退までの220余年の間に、山中で病に倒れ、または、災害に命を失い、水害で歿した幾多の霊が静かに眠っている。山中の諸霊に花を捧げて心から冥福を祈ろう。 別子撤退後、寺は別子山村白尾の南光院の境内に移され、諸霊への供養は今尚続けられている。 なお円通寺本院は、延宝6年(1678)別子山村保土野に建立された古い寺で、ここにはその出張所があった。 |
![]() 明治の後半、この煉瓦塀の中に接待館があり、山中を訪れる要人が宿泊したり、ここで各種の宴会が開かれたりしていた。 ここより少し沢寄りのところに煉瓦造りの煙突が立っているが、ここが小足谷醸造所跡で、明治初年より年間100kリットル位の酒と、後には醤油も造っていた。 ここの酒は、鉱夫達に喜ばれ、鬼をもひしぐ山男共もこの酒に酔えばたわいもなく横になってしまう所から、人呼んで「鬼殺し」と名付けたという。小足谷部落は大正5年別子探鉱本部の東平への撤退に伴い廃墟となった。 |
![]() ここから横に入ると小足谷部落跡に出る。そこは職員部落で銅山の責任者でもある別子銅山副支配人の広い屋敷跡の煉瓦塀に昔の規模が偲ばれる。料理屋や精米所もこの部落にあり、栄えていたが、明治32年の台風により家屋は倒壊し死傷者が出た。 対岸には小足谷沈殿池の長い石垣が下流に続いており、寛政坑の坑口は、この上の道端の小さな山神社の下方の川岸に口を開いている。 ※沈殿池では鉄屑の表面に排水中に溶けている銅を析出させて回収すると共に、廃水処理を行い鉱害を防止していた。 ※この坑は寛政初年(1790年代)坑内排水用として着工、難工事のため長年月を経て明治に入って完工し、永年の湧水一挙に処理した画期的排水坑であった。 |
![]() |
![]() |
![]() 道ばたに残る長い石垣は、上段が山林課と土木課の事務所兼小足谷劇場の跡で、下段が住友別子小学校跡である。劇場は明治22年に建てられ、毎年5月の山神祭の3日間は、歌舞伎の名優をはるばる京都から呼んで、数千人の観衆をうならせたといわれる。 明治6年(1873)小足谷に設立された小学校は、明治22年(1889)にここに新築され、30年には目出度町に分教場が設けられたが、大正5年(1916)廃校となった。 ちなみに、明治32年(1899)3月末の在籍生徒数は男女合わせて298名。教員は7名であった。 |
![]() ・金銅鉱床坑外ボーリング(試錘)探査1号孔のこと。金銅鉱床の露頭(鉱石が地表に現われる部分)はこの後の山の頂上近い標高1300mくらいのところにある。 ・この鉱石を確認するため昭和25年9月から4ヶ月間傾斜角度45度でボーリングによる探査を行った。途中約80mの深さのところで地下水脈に出合い、以来その水が絶えることなく自噴しつづけている。硬い岩盤に孔を開けるためロッド(回転駆動軸)の先に小さなダイヤモンドを散りばめたピットを使っていたが探査が終わった後これを回収することができなくなり孔底に残ったままになっているところから誰言うとはなくこの自噴水を「ダイヤモンド水」と呼ぶようになった。 ・(参考)坑外ボーリング2号孔(昭和26年8月から4ヶ月間実施)はこの少し上流の奥窯谷添い標高1160mくらいのところ。また標高800mくらいの坑内からも14本のボーリング探査を試みた。 |
![]() ダイヤモンド水の対岸より黒橋の辺りまで続いている石垣は、明治12年に建てられた洋式溶鉱炉、製錬炉、沈殿池、収銅工場や倉庫等の跡で、対岸の岩山の上に残る石積みは和式溶鉱炉の跡であり、この辺りの川の上には石造の暗渠が築かれていた。暗渠の一部や川に流れた銀が今も残っている。 ここ高橋製錬所は、明治期洋式の新鋭精練所として活躍していたが、明治32年(1899)9の台風により被害を受け、その後は一部を除き製錬作業は新居浜惣開に移された。 |
![]() 対岸の目出度町の左方の谷で向って左側が両見谷、右側を見花谷といい、これらの谷の間のせまい急斜面に木で張盤をつくり、その上に建てられた鉱夫の住宅が何段にもひしめき合っていた。 別子開坑以来の大惨事といわれる明治32年8月の台風(山中の死者総数613人、倒壊家屋122戸)で大音響と共に起こった山津波により、見花谷部落の平和な鉱夫街は一瞬にして押し流され、多くの人が家もろとも眼前の足谷川の濁流に飲み込まれた。 |
![]() 対岸の植林された一帯が目出度町跡で、中央部の石垣の中に残る階段の上に明治25年以来木方から遷された大山積神社があった。神社は元禄4年開坑まもなく大三島の本社から勘定し山の守護神として祀られたもので、山中数千人の住民の氏神様となっていた。正月の大鎮祭と5月の山神祭りには大変な賑わいであった。 |
![]() ここから足谷川源流を渡り、蘭塔場山を廻って山中に入ると目出度町である。銅山の中心街で明治時代にはここに重任局(鉱山事務所)、勘場(会計)、大山積神社、住友新座敷(接待館)、住友別子病院、郵便局、別子山村役場、小学校分教場、料亭一心楼、伊予屋雑貨店や住宅が櫛の歯のように並んでいた。 このように栄えた街も大正5年春、別子上部撤退後、すべて撤去され、その跡に植林されて今は石垣の跡に昔日の面影をを止めるにすぎない。 目出度町から見花、両見谷を通り奥窯谷に出て東延からの道と合する。 |
![]() 前方の小高い岩山の上に見えるコの字の石垣が蘭塔場である。蘭塔場とは墓場のことである。 元禄7年(1694)4月25日、焼鉱炉からの出火が折柄の旱天続きにたちまち燃え広がり、主要設備をほとんど焼き尽くした。 ここはそのときの火災で殉職した手代(別子銅山支配人)杉本助七以下132人の霊を祀る墓所である。 大正5年の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑は新居浜市の瑞応寺に移され、諸霊はここで安らかに眠っている。 現在もなお、この蘭塔場跡で、毎年盆の供養が行われている。 |
![]() ここは、別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、工都新居浜発展の基となった所で市民の心に銘記さるべき地である。 元禄3年(1690)切り上がり長兵衛という渡り坑夫により嶺南に有望な露頭のあることを知らされた備中国(岡山県)の住友家経営吉岡銅山の支配人・田向重右衛門らは、苦心して山中を調査し、この附近で見事な鉱脈を探し当て、翌元禄4年幕府の許可を得て9月22日に採鉱を開始した。 人々はこの人跡稀な山中において、抱き合って歓喜し開鉱を祝ったところからこの名がある。右は歓東坑で、上部一帯には山方という鉱夫の集落があった。 |
![]() 元禄7年(1694)大火のあと、山方の歓喜坑より勘場(のちの重任局と勘場を併せた鉱山事務所)がここに移され、※銅山の中心街目出度町が下方の樹林の中一帯に出現した。勘場(会計)や鉱夫の住宅・分教場・病院・郵便局・村役場巡査駐在所や料理屋(一心楼)等が並んでいた。 重任局は明治25年(1892)に焼失し、対岸の木方に移り、その跡に木方の延喜の端(現在のパノラマ台)上にあった大山積神社が遷された。現在石垣の上に残る石の狛犬は当時のものであり、社殿の基礎も残っている。社殿の前には角力場があり、正月の大鎮祭や5月の山神祭は大賑わいであった。社殿の左隣には住友新座敷(接待館)の跡が残っている。 |
![]() 対岸一体を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には建屋や住宅がびっしり並んで建っていた。正面に見える石垣は明治25年(1892)目出度町から移転した重任局(銅山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。目出度町と木方との間には足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積のみがここからよく見られる。この先の谷が両見谷、つづいて見花谷で、下部の樹林の中に鉱夫の住宅が密集して建てられていたが、明治32年(1899)8月の台風で見花谷の部落は山津波によって下の川に流され多数の死者(全山で513人)が出た。 |
![]() この谷を奥窯谷とよび、足谷川の支流である。この谷を200m程上って右の稜線に立っている鉄塔を越えると旧鉱山街奥窯谷に入り、目出度町から銅山越に行くことができる。また、この谷を遡行すると金鍋坑を経て薪炭輸送の中継地大阪屋敷に達する。 この谷の入口には大きな木炭■■があり、谷の向こう側には■門という部落もあった。 南口から銅山越に出るには、本流を渡ってがし場を上るとそこが南口である。 |
![]() ・別子銅山の支山、別子鉱床の一部。余慶坑とその旧坑口がある。 ・火薬のない時代に手掘りで1メートル角の穴を1日40センチくらい屈伸して鉱石を採取した坑口跡と、明治初期より閉山までの坑内捨石がある。 |
![]() ・嘉永年間(1848年〜)より別子銅山支山として開かれ、昭和48年4月別子銅山最後の閉山坑となった。その坑口跡、露頭、銅鉱石地層が観察できる。 ・元禄年間(1688年〜)銅山川で木材搬出の際、筏を組んだことから筏津の地名がついたという。 ・ここには ■川田順歌碑 朝山の入坑時刻のざわめきのしばらくにしてほととぎすの声 ■佐々木信綱歌碑 別子のや雪のいただきほがらほがら初春の日のかがやけり見ゆ の碑が建立されている。 |
雨降りしきる県道の脇にひっそりと佇む寺院が見える。車を道沿いに停めて、境内を散策する。
境内には、
「徳島県大里の人、元禄7年(1695)土居上野に留錫中の南光院快盛法印は、住友家の要請により別子銅山に移り、住民の為に日夜を分たず福祉に努め、物の怪を物住谷に封じ、文盲の鉱夫に文字を教え、病を医して全山全て其徳に浴す快盛師示寂にあたって此地を以って、墳墓の地と遺言された銅山内老若男女、涙と共に師を送り、後に一ノ霊神として敬うていたが、寛政年間(1790)、別子銅山の守護神として南光八幡大菩薩と敬い、社殿を建立し永くその徳を慕う。明治7年(1874)神佛分離と共に圓通寺鎮守佛となり、現在に至る。現拝殿は、明治12年再建されたものである。尚、上方に墓地、住友トク氏建立の本殿がある。」
との説明書きが建てられている。
なるほど、この説明の通り、境内敷地内には圓通寺の堂も残っている。宗派は高野派古義真言宗、雲谷山圓通寺三業院と称するらしい。本尊は大日如来である。(*1)
「鎌倉期、近藤季俊が土佐の国大北川に開創。慶長年間(1597頃)、本村大野山■経の久保に移転す。延宝6年(1678)保土野(現学校)に勧請し、宝永2年(1705)再建され、明治34年(1901)現在地に移る。尚、小足谷に本寺出張所があったが、銅山の移転と共に廃せらる」との説明書きがなされている。
(*1)圓通寺には次の諸佛が納められている。
・大日如来坐像 ・十一面観世音菩薩坐像 ・不動明王立像
・毘沙門天像 ・地蔵菩薩像 ・阿弥陀如来立像 ・弘法大師像
また、快盛が蛇淵の大蛇を退治したときの、その蛇の尾を祀ると伝えられている「白尾神社」などもあり、なかなか興味深い寺である。
その他、以下のようなものもある。(2000/7/30)
![]() ・境内にあり、大僧正良■和尚が衆生済度の為にこの山を開き、村人達の一日の清楽を得させんものと自らの手によって建立された。 |
![]() |
![]() 「もろもろの人のねぎことききまして仏か志こくほほえみ給ふ」 |
![]() |
![]() ・円通寺本堂入口の下段にある。 |
![]() ・昭和53年春全面改築。 |
![]() ・銅鉱石で刻った地蔵菩薩は、本郡唯一のもので、作者不明ながら200年余り別子銅山の坑口に鎮座され、日々入坑の坑夫により香煙絶えず、そのため御像はまっ黒になっている。(えひめのふるさとこみち 東予編) |
円通寺【別子山村日浦】
1998/5/1
・高野山 真言宗
・山号:雲谷山
・院号:南光院本坊
大山祇神社・新田神社【別子山村弟地】
2000/7/30
村役場よりやや東の道端に鳥居が建っているのが目に留まる。鳥居の社号額のところに「大山祇神社・新田神社」と記してある。道端より参道が川の方へと続いている。路側に車を停め、杉に覆われた参道を下って行く。
下りてみると、広場にぽつんと拝殿が建つだけで、あとはこれといってめぼしいものはない。河原には公衆便所もちゃんと用意されており、キャンプには好適である。しかし、今日はと言えば、川は激しい泥流となっており、キャンプ客の姿などあるはずもなく、まったくもって物悲しい状態である。
白尾神社【別子山村】
![]() ・高山植物の宝庫 ・東赤石山頂付近には100人収容の山小屋「赤石山荘」がある。 |
![]() ![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() ![]() ・標高:1707m ・西日本では石鎚山、剣山に次ぐ雄峰 ・高山植物、鉱物、動物等学術資源の宝庫として知られる。 ・頂上付近には見事な赤石五葉松が枝を張り、その優美な姿は盆栽としても有名。 ・春から夏にかけては、石楠花の群生落やアケボノツツジが見事で、また秋には紅葉、冬には樹氷と四季折々の美しさで登山者を迎える。 ・イヨノミツバイワガサ、キバナノコツクバネウツギ、キバナノコマノツメ、ユキワリソウ、タカネバラ[2003/6/21] |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() ![]() ・東赤石山の西に位置する岩峰。 ・山頂には八巻蔵王大権現の祠が建てられている。 |
![]() |
![]() |
![]() ![]() ・別子ダムよりやや川沿いに下ったところに登山口(日浦ルート)有り。 |
銅山峰【別子山村/西条市】
1999/9/12
西山【別子山村/西条市】
綱繰山【別子山村/西条市】
・5月には、西山から綱繰山にかけての尾根にアケボノツツジが一斉に咲く。圧巻である。
冠山【別子山村/高知県】
2003/5/3
平家平【別子山村/高知県】
2003/5/3
三ツ森山【別子山村/高知県】
・ここもアケボノツツジの名所。
東光森山【別子山村/高知県】
2002/8/4
・標高 1486m。
・筏津山荘より南へ続く主要地方道「高知伊予三島線」を登りきったところが大田尾越。ここから東方へ登山道が続いている。
![]() ・銅山川支流保土野谷にある。 |
![]() ・平家の落人がかくれ住み、姫君が化粧した化粧水の岩屋、突出して長門の地形に似た、長門と呼ばれるところなどがある。 |
![]() ・銅山川支流瀬場谷にある。 |
![]() ・渕の上部には甌穴群がある。 ・紅葉が美しい。 |
![]() ・様々な形の岩が作り出す歐穴は自然が作った芸術である。 |
黒滝【別子山村保土野】
・銅山川支流保土野谷にある。
八間滝【別子山村瀬場】
・銅山川支流瀬場谷にある。
中七番(アヤメ)
・奥別子自然公園
保土野の大ケヤキ【別子山村保土野(ほどの)】
・約200年前に元円通寺本堂があったことを示す大ケヤキが、県道上に残されている。
小学校資料室には、当時の民具100点が保存され、昭和53年6月に復元された平家の赤旗、先陣旗、本陣旗
が展示されている。(えひめのふるさとこみち 東予編)
![]() |
![]() |
保土野渓谷公園【別子山村保土野】
![]() |
![]() |
秋の大運動会 9月
・別子小中学校の在校生が少ないため、学校の運動会に合わせて村民が参加して村民運動会としていた。
(新居浜市合併以降は不明)
盆踊り大会 8月
・近郊の村出身者が集まり、一時的に村の人口が大幅に上昇する。
![]() ・直径約50m、高さ約15m。 |
![]() ・1999年8月より仮オープンしている宿泊施設。 ・ペンション風二階建て。 |
![]() |
![]() →See.「わが町色いろ-33 ゆらぎの森」、愛媛新聞、1999年10月24日 |
別子山邨資料館「ふるさと館」【別子山村保土野】
1998/5/1
・民俗資料館
・平成2年8月落成
・別子山村の歴史・文化・自然を学べる。 銅山の歴史や当時の工具、別子山村の動植物などが紹介されている。
★「1998年7月25日まで改修中」ということで残念と思うとったんじゃが、外側だけのはなしで、観覧には全然支障なかった。[1998/5]
★観覧料無料。やっぱ、これでないといけんわいねl。
村営観光センター「筏津山荘(いかだつさんそう)」
1998/5/1
愛媛県 別子山村 筏津山荘0897-64-2018 筏津キャビン0897-64-2011
![]() |
![]() |
![]() ・ヒメノウオは北欧・ロシア産の淡水魚。 ・学名はコリゴヌス・マレーナ。 →See.「ワイド ヒメノウオ 今年もふ化成功 別子山村・筏津山荘」、愛媛新聞、(日付未詳) |