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[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 今治市 (旧・朝倉村) |
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村の花 | 村の木 | 村の花木 | 村の鳥 |
ツツジ | クスノキ |
大字 | 字 |
朝倉上 (あさくらかみ)
→今治市朝倉上 |
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朝倉北 (あさくらきた)
→今治市朝倉北 |
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朝倉下 (あさくらしも)
→今治市朝倉下 |
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朝倉南甲 (あさくらみなみこう)
→今治市朝倉南甲 |
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朝倉南乙 (あさくらみなみおつ)
→今治市朝倉南乙 |
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古谷 (こや)
→今治市古谷 |
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山口 (やまぐち)
→今治市山口 |
斎藤別当実盛供養塔【朝倉村下万丁 満願寺】
朝倉矢矧神社の獅子舞とにわか
・県指定無形民俗文化財(平成12年4月18日指定)
・5月3日の春季祭礼時に奉納される。
・にわか狂言は、掛合による寸劇のようなものである。獅子舞は油単(ゆたん)に10人ほど入るムカデ系獅子で、拝み出し、式三番叟(しきさんばそう)、寝獅子、もちまきなどが行われる。
今治及び越智地方の獅子舞
・県指定無形民俗文化財(平成12年4月18日指定)
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肩切地蔵【朝倉村朝倉下】
2002/3/3
・下朝小学校の校庭の片隅にある。
・平安時代末期、源氏方の河野通清と平家方の西寂入道とが高縄山を中心に争った。朝倉では辻堂辺りで激しい戦いが繰り広げられたが、河野氏側が西寂入道を滅ぼし、勝利を収めた。そのとき
討ち取った西寂入道方の48人の首を血洗池で洗い、その傍に社を建てて首塚を築いた。その上に辻堂のお蔵さんを持ってきて丁重に弔った。
樹本古墳【朝倉村朝倉下】
笠松城跡【朝倉村朝倉南乙】
笠鉾祭
・300年前から伝わる牛馬の祈願祭。
弓祈祷
・無病息災・五穀豊饒を祈願する。
1年間の無病息災と五穀豊穣(ほう
じょう)を祈る伝統行事の弓祈祷(きとう)が8日、今治市朝倉上の客天神社であり、中学生らの射手が、厳かな儀式の大役を務
めた。
弓祈祷は1662(寛文2)年ごろ、同神社のある
白地地区で始まった。同地区には帰農した武士が多く、武士の精神を忘れないように始めたものが、神事と合体。年頭の吉凶を占
う行事として、市の無形民俗文化財に指定されている。
神楽奉納の後、射手の3人らが羽織はかま姿で登
場。「大前」を務める朝倉中3年の石丸武臣君(15)らが片肌を脱ぎ、裏に「鬼」と書かれた5メートル先の直径約60センチ
の的に向け、次々と矢を放った。(「吉凶占い中学生が大役 今
治・朝倉で弓祈祷」、愛媛新聞、2006/01/08)
![]() ![]() ・朝倉ダムのやや西手にある。 ・武田信勝公は伊予の戦国大名河野氏に属し、永禄5年(1562)竜門山城主となる。天正10年(1582)来島通総来攻により落城し、自刃する。嫡子(第3子)富若丸は無量寺で 成人し、真三郎信吉と改名し、府中城主・福島正則に 召し出され、郷代官(大庄屋役)をつとめた。子孫は代々庄屋職を継ぐ。墓碑は宝暦年間(1750頃)水之上大庄屋らによって黒谷川(鮎帰りの滝) 近くに建てられ、あいがりさん(*1)と呼ばれ祀られた。 ・武田信勝公の墓は、昭和51年(1976)朝倉ダム建設に伴いこの地に移転し、武田同族会により整備 された。 (*1)あいがりさんはきっと、「鮎返りさん」が 訛ったもんじゃろね。 |
鷹取城【朝倉村古谷】
・鷹取山山 上にあり、正岡紀伊守経長が居城した。
・経長は河野氏に反旗を翻したが、河野氏の指示により重見氏・来島氏に攻め
られ、謝罪して軍門に降った。
・天正13年小早川氏との戦いにより落城した。
「古谷村の西方鷹取山上 にあり
正岡紀伊守経長居る
経長会て河野氏に叛す
河野氏重見来島等にこれを討しむ
経長謝罪して軍門に降る
天正十三年小早川氏とひ落城す 此村内清水姓のもの鷹取祭と称し今に至り正岡氏の霊を崇祀せり」(伊豫温故録)
![]() ・正岡氏の慰霊祭として、村内の清水姓の者が営む。 |
笠松山城【朝倉村】
「朝倉南村笠松山の頂に在り 半は朝倉北村に属す
河野四郎為世の隠居城といふ
後ち岡 大和守代々の居城なり 興国元年篠塚伊賀守これに拠る
天正中岡氏の裔岡彦太郎下
城の後福島正則に仕へ 禄二百石を食む 此の城地に為世会て歌を詠せし
古松近時まで在りしが里人これを伐りけるに大に祟りあ
り 因て尚ほ又植継て一の松樹あり」(伊豫 温故録)
★朝倉村役場前より、笠松山野田登山口へと向う途 中、須賀神社の少し手前の墓地の脇を通ったのだが、岡姓の墓碑が夥しいのに気付く。なべちゃんが、「笠松城の支城・出城の城 主の系統だよ」とガイドしてくれる。(2003/11/30)
高島城【朝倉村古谷】
「古谷村に在り 高島紀伊守居る」(伊豫温故録)
大谷砦【朝倉村】
「朝倉南村に在り 橘三河守居る」(伊豫温故録)
米田城【朝倉村】
「朝倉南村に在り 別宮修理太夫居る
正岡経政の旗下なり」(伊豫温故録)
白地城【朝倉村】
「朝倉上村にあり 日浅阿波守居る」(伊豫温故録)
明神山城【朝倉村】
「朝倉上村字城ヶ谷に在り
相
原主馬頭居る」(伊豫温故録)
弓場城【朝倉村】
「朝倉上村山字鬼地に在り
橘
正達居る」(伊豫温故録)
※鬼地という字名は興味深い。「木地」か?それとも「鬼
伝説」が伝わるのか?「鬼血」とも考えられる。
行司原城【朝倉村】
「朝倉上村行司原にあり 岡武蔵守居る」(伊豫温故録)
梅ヶ月城【朝倉村峠/白地】
南越山城【朝倉村】
山口縄文遺跡
・木原池の西、祝谷の瓦山。
![]() ・横穴式円墳。 ![]() ![]() ・県指定重要文化財(史跡)。 ・野々瀬古墳群の中で七間塚は、円墳(横穴式円墳)として県下最大規模 のものであり、高さ6m、直径15mの大きさを誇る。石室は全長9m、入口は南向きで、入口は石室奥壁まで10m、羨道は幅1.5m、高さ1.2〜1.5mあり、花崗岩の巨岩で組み立てられている。 ・巨大な石室を残しているが、副葬品等は散逸してしまっている。 (愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観光協会、平成5年3月) |
笠松山古墳群(かさまつやまこふんぐん)【朝倉村】
・6〜7世紀の横穴式円墳群
樹ノ本古墳(きのもとこふん)【朝倉村下岡】
1998/8/22
・村指定史跡
・古墳のまわりには塀をめぐらし、円筒埴輪を埋めてあった。
・明治41年4月の発掘で「長相思、母常忘、楽未央」銘の漢式獣帯鏡(円座乳帯細式)が出土した。
・現在では、古墳の盛り土の上に、天武天皇時代の浄禄寺開祖・「輝月妙鏡津尼」の墓が釈迦三尊の碑と共に建っている。この尼僧は、住民のために水路を作り、今も「尼が井出」という地名が残っている。
・細線式獣帯鏡(さいせんしきじゅうたいきょう)が出土した。現在、東京国立博物館(旧東京帝室博物館)で管理。直系24cm、後漢時代初期(1世紀)に中国で作られたと見られている。((1)参照)
《資料・文献》
(1).「朝倉村出土の青銅鏡 1世紀ぶり初の里帰り
市町村合併前 悲願の展示」、「へえ、そうなんだ えひめのニュース」、愛媛新聞、2004/3/1
(愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観光協会、平成5年3月)
![]() ・目通り幹周:2.3m、樹高:19.0m |
禰宜屋敷古墳群【朝倉村古谷】
・横穴式石室、杯状穴遺構などがある。
多伎ノ宮古墳群(たきのみやこふんぐん)【朝倉村古谷(こや)】
・県指定史跡
・30基余りの古墳群。
(愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観 光協会、平成5年3月)
牛神古墳【朝倉村古谷】
1998/8/22、2002/3/3
![]() ・牛神古墳は、6世紀中頃のもので、横穴式石室の内部は奥行き約4m、 幅2m、高さ2.5mで、原形に近い形で残っており、当時の有力者が4回にわたって追葬されたと見られている。 ・横穴式石室は、高さ4m、広さ4m×4m。無袖の九州型であり、朝鮮半島の影響を受けたと見られる。 ・出土品の中には、県内では出土例の少ない牛馬の尻に付けたとされる「馬鈴」が発見され、その他須恵器約 100点、勾玉、管球、耳環など価値の高い装飾品も出土している。 ・石室内の石材はすべて花崗岩でできており、山より割石にして搬出されたものである。 |
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![]() 昔の田起こしから収穫・出荷までの各工程順にわかりやすく展示している。 |
根上り松(一本松)古墳【朝倉村】
2002/3/3
行者ヶ原古墳群(ぎょうじゃがはらこふん)【朝倉村】
・笠松山の西裾の丘にある。
城ヶ谷古墳(じょうがたにこふん)【朝倉村】
恵下坊古墳(えげのぼうこふん)【朝倉村】
野田古墳群(のだこふんぐん)【朝倉村朝倉北
野田】
・頓田川上流。笠松山西麓の標高50〜70m辺りに点在。
(愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観光協
会、平成5年3月)
夜干石【朝倉村】
・頓田川上流の白地川に架かる新街道橋の袂にある。
この石は大昔(南北朝時代)、太田山の大人(おおひと)[太田山城主 河野権六]が太田山か
ら白地川に投げ、一夜のうちに川を堰き止め、下流の水田を干したと言い伝え
られている白地川水利標石である。
これと同じように言い伝えられている石が、浅地黒谷川裾にある。
江戸時代民家のあと、墓地のあと【朝倉村】
召使屋敷(めっしやしき)【朝倉村】
乳母ヶ原【朝倉村】
鋳物師ヶ谷(いもじがだに)【朝倉村】
白地の白石家【朝倉村】
昔の水門【朝倉村】
寺
岡之庵【朝倉村下村】
・本尊:釈迦如来
・昔は浄光寺と称していた。
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歓喜寺【朝倉村町谷】
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喜積寺【朝倉村下村】
・本尊:阿弥陀如来
・満願寺住職・秀 亮上人が桜井郷より勧請した。
・森山の南麓に建立した草庵であったが、後に森山の北麓に転住した。
・庵跡には石垣・井戸が残る。
光蔵寺【朝倉村水の上(朝倉上甲918)】
・山号:医王山
・宗派:高野山真言宗
・府中四国 20番霊場
・本尊:薬師如来〜厄除け薬師
・せとうちバス「上朝倉」停留所
・推古天皇の御宇・小千益躬(おちますみ)が創建した。
・天正13年、豊臣秀吉四国平定にて縁起什宝を焼失。
・文禄2年に智尊が中興。庫裏・客殿・堂于を再建した。
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高大寺【朝倉村高大寺】
・山号:南嶺山
・院号:金光院
・本尊:薬師如来〜特に眼病に霊験有り。(世田山城主・大館氏明公の臣であった山本某が、世田山城落城後に南朝方の戦死者を慰霊するため
に住職となったが、眼病で一生苦労し、死去に際して「薬師信仰をすれば眼病に霊験があるだろう」と遺言を残したことによる)
・武田家の持庵であり、光蔵寺の末庵である。
地蔵庵【朝倉村平林】
・本尊:地蔵尊〜安産祈願のため安置された。
・光蔵寺の末寺。武田医院の元持庵であったが、今は部落の庵と
なっている。
・いつの頃か定かではないが、部落の人に排除されたのを悲観して、自分の腹に鉄砲を撃って自殺した者があった。その後、部落の人にタタリ
をもたらしたので、これを鎮めるために石仏の観音像を祀った。この観音は現在、飯成神社に神として合祀されている。
正善寺【朝倉村朝倉南甲410】
・本尊:延命地蔵菩薩(行基作と伝えられる。)
・脇仏:薬師如来、弘法大師
・院号:地蔵院
・開基:宥学上人
・昔は七堂伽藍を有する大寺であった。
・河野氏が朝倉郷中村(現本郷)に祈願寺として建立し、法隆山本道寺と称し
た。当所は阿弥陀如来を安置した。
・暦応3年(1340)、行司原の岡武蔵守光信が諸堂再建した時、寺号を正禅寺(禅宗)と改めた。
・貞治年中に焼失。
・室町末期に本道寺を現在地に移した。寺殿玄関前にある石は、本道寺の塔礎石である。
・貞治年中(1362)、真言宗となり、正禅寺を正善寺と改めた。
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善吉寺庵【朝倉村太原赤坂】
・本尊:延命地蔵尊
・重城(じゅうじろ)山善吉寺と
称していたが、戦国時代に焼失した。
・武田氏が当地に来た時、武田一族の菩提のために光蔵寺末寺とし
て中興した。
・天正11年、宇佐八幡窮の仏師・山月が本尊を安置した。貞享4年に火災に
より堂宇・什器等を全焼。これを村長・武田義ヱ門の請により京都の仏師・市兵衛が本尊を修復した。
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竹林寺【朝倉村古谷(こや)(古
谷甲1249)】
・山号:五台山
・本尊:文殊菩薩
・天武天皇の頃、越智大領小千守興(おち
もりおき)が願主となり、僧観堂によって開基した。
※朝倉村誌によれば、当地出身の観量大徳が堂を建立し、
多伎都比売命と昆盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を勧請安置して真如坊と号したとされる。「観堂」は転記ミスかな?
・貞治3年(1364)、世田山合戦で自刃した河野通朝の子息・徳寿丸(河野通堯)をかくまった寺である。
・戦国時代は鷹取山城主・
正岡氏の祈願寺として栄えた。
・江戸時代には、今治藩主・松平侯、小松藩一柳侯の帰依・尊信を受けた。
「古谷村字寺内に在り 白鳳二癸酉年僧観量これを創建し
昆盧遮那仏を安置し真如坊と号す 後ち聖武天皇の御宇行基自ら文殊の
像を刻しこれを安置して竹林寺と改号す 境内に東堂あり
薬師の像を安置す 此像は聖武天皇の御宇吉備大臣漢土五台山於て求め得る所
の仏像なり 元と多伎神社に安置し在しが明治四年此寺に 移す」(伊豫温故録)
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![]() ・正岡紀伊守(鷹取山城主)を祀る五輪塔。 →鷹取山城の項を参照 |
![]() ・長井忠五衛門は提灯測量で治水に一生を捧げた。 |
長円寺【朝倉村】〜廃寺
・本尊:薬師如来
・無量寺に伝わる「由来旧記」によると、長円寺の薬師如来は高さ
一丈もある立派なものであったが、伊予国主・河野守興が北条に持っていき
(これが庄薬師堂の薬師如来像とい う)、その代わりに造立・安置したものが現在の本尊という。
西之坊【朝倉村下村】
・本尊:地蔵菩薩
・満願寺の北方の谷間(西之坊谷)にある。
・本尊は満願寺に移されている。
・石丸家祖先の墓、井門家祖先の墓、南条家祖先の墓、満願寺住職の墓がある。
満願寺【朝倉村朝倉万丁(朝倉下甲145)】
1998/8/22、2003/11/30
・山号:金比羅山(→「金毘羅さん」の愛称で親しまれている。)、霊仙山(りょうせんさん)
・院号:金寿院(こんじゅいん)
・新四国曼荼羅霊場第38番
・本尊:阿弥陀如来
・聖武天皇の天平6年(734)、道慈律師(ど
うじりっし)により開基された。
・高野山金剛峰寺の直末寺。
・戦国時代末期には、河野十八将の一人・中川山城守の居城となり、その武将である南条氏、堀川氏、垣内氏、麻生氏などの信仰
を集めた。
・天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に遭い、戦火で焼失。慶長年中、賢舜上人に
より再建が進められた。
★2003/11/30探訪時の最大の収獲は、満願寺絵
馬堂裏側に冬桜が咲いていたこと。ひょっとしたら普通の桜が狂い咲きしていただけかもしれないが。
![]() ・本尊である薬師如来を安置する。 ・「満願寺本堂(薬師堂) 当山の本道で薬師如来を祀る故に薬師堂とも云われ。脇士として、日光月光菩薩及び十二神将を御祀りしている。本尊薬師如来は平安時代 の作。開基以来幾度かの兵火によって焼失し現在の堂宇は天明5年(恭遍上人代)に再建されたものである。」 ※阿弥陀如来と薬師如来、どちらが本尊なのだろう か?朝倉村誌には薬師如来と記載されている。 |
![]() ・四国三十六不動霊場 |
![]() 「元禄三年(秀亮上人代)の再建。 古来朝暮に萬塵を払い名鐘と伝えられるも、大東亜戦争のため供出。昭和23年いち早く鋳造せられたが破鐘する処となり、現在の大梵鐘 は平成6年再鋳造されたものである。」 |
![]() ・県指定文化財(昭和55年3月指定) ・鎌倉時代のもの。 ・七重宝塔2基、宝塔1基から成る。 「武蔵の国の住人、斎藤家盛の子 宗矩は伊予の豪族河野通直に仕え、黒谷に居を移す。その子孫に実久、実忠、実通、実尚と続く。天 正13年豊臣秀吉の四国征伐にあい、実忠自刃する。実尚は幼少にして黒 谷に閑居する。後満源寺に長井家一統の供養塔を造営する。 宝篋印塔は鎌倉中期の作 多宝塔は鎌倉後期の作 」(朝倉村誌) 「実盛供養塔について 藤原北家の家系の流れをくむ斎藤別当実盛は天永2年(1111)越前国 河合荘(福井県)に生まれた。 父は河合斎藤次郎則盛、幼名は助房、長じて武蔵国長井荘(埼玉県)長井斎藤太実直の養子となり、長 井斎藤実盛と改名、源氏頭領源義朝に仕える。 保元・平治の乱に出陣、武勇を轟かせて保元・平治物語に喧伝される。源氏没落後は平家に転じ、平宗盛に仕えて関東の平家荘園管領別当職となる。 やがて源氏が再興するところとなり、寿永2年(1183)5月、平家は木曽義仲の 軍勢を加賀国篠原の地に迎え討ったが、この時、実盛は白髪を染めて出 陣、ここを死場所と定めて奮戦し、壮烈な討死を遂げた史話(平家物語・源平盛衰記)は余りにも有名である。 平家滅亡後の文治元年(885)、実盛の嫡孫長井斎藤景忠は伊予初代守 護職佐々木三郎盛綱に従って伊予に来国し、府中朝倉郷に居館を構え、の ち当山に崇敬祖実盛公の供養塚を祀祭したものである。この塚は七重石塔二基、宝塔一基からなり、七重石塔の高さは九尺五寸、宝塔の高 さは七尺一寸二分の堂々たるもので、中世の石造美を遺憾なく発揮しており、鎌倉期の作と断定されている。 朝倉村教育委員会はこの石塔三基を愛媛県に保護申請していたが、昭和55年3月愛媛県文化財保護審議会はこれを認可し、愛媛県有形文 化財として指定されたものである。 愛媛県教育委員会、朝倉村教育委員会」 (愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛 県観光協会、平成5年3月) |
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![]() ・本堂北方の山頂に鎮座する。 ・慶長年間に再建が進められたとき、相次ぐ戦禍・悪疫から郷土を護るため(厄除け守護)に勧請された。 ・「当山の鎮守、金毘羅大権現を中心に脇士に不動明王、吉祥天女を祀る。慶長年中賢舜上人によって厄除け守護神として勧請されたもの である。 神殿、釣殿、拝殿の三殿からなる重厚な権現造りであって、今までに三度再建されているが現存の堂宇は弘化元年(恭瑜上人代)に建立さ れたもので生き生きとした彫刻はすばらしい。 「金毘羅」の額字は、宝永4年黄檗山悦山和尚の染筆である。」 |
![]() ・伊予府中二十一ヶ所霊場 第2番札所 ・伊予府中八十八ヶ所霊場 第14番札所 ・伊予府中二十一ヶ所霊場 |
![]() 慶長年間寺山ノ前、鍛冶屋ヶ谷ニ十七日ノ間雷鳴打続キ八日ニ至リテ止ム、行キテ見レバ金幣天降リ給也リ 住僧三拝九拝シテ寺ニ持チ帰リ上間ニ崇祭ス、金毘羅大権現ヲ顕シ給フ日ヲ追フテ山伏姿ノ行者来リ当寺新ニ金毘羅大権現ヲ信シ給フトキ ク、御尊像ヲ作ラセヌカト謂イシヲ幸ニ頼ミケレバ行者曰ク「沙汰シケル迄ハ、他人入ル事、無用ト」云イ捨テ一間ニ入リ十七日ノ間断食 シテ、八日目ノ早朝ニ住職ヲ召シ呼ブ、住僧行キ見レバ御尊体新ニ造ラレ、是一刀三礼ノ作也ト申サレ行方知レズなりヌ、是ヨリ当寺ノ院 号ヲ金寿院ト謂フ、本尊阿弥陀如来、木像一体外ニ薬師如来木像一体、鎮守社、奥之院、弘法大師一体、霊坊、地蔵尊一体、当村氏神、真 宮明神別当職■勧来ル、 |
![]() ・井戸長政は朝倉郷の代官であった。 |
![]() ・南條法橋入道兼保は、伯州(鳥取県)羽衣石(うえし)城主南條氏の嫡子であり、霊仙山城主・中川山城守親武の客将であった。(後に帰農) |
![]() ・金毘羅宮祭礼のときに、武田車竜を中心とする下村連中が今治藩の暴力 団を追放した騒動。(文久3年〜1863年) |
水大師【朝倉村野々瀬】
・本尊:延命地蔵尊
・江戸時代中期の安永元年(1772)、宮ヶ崎村(高市郷)の円久寺(長松山ちょうしょうざん)
の僧・自海(自形)が、笠松山麓に湧出する霊泉を発見して水大師を創建した。
・水大師堂は、藤原一族が奉納したという。
・水大師の御水はいぼ取りに霊験有りという。 御神水を戴きながら修行すると全快するらしい。
「朝倉南村笠松山の麓 山字鶴の巣に在り
其の地に自然の岩石あり 方八寸の窪みあり 酷暑旱魃の時と いへども其の水絶ることなし
土人以て霊異とし呼んで水大師となす 此水よく人の疣を治すといふ 昔其処に西方寺といふ寺院ありしを本郡東村へ遷せしより今尚ほ石の側に一の小堂を存せり」(伊豫温故録)
三六九寺【朝倉村朝倉南130-22】
・三六九士寺(みろくとういつじ)ともいう。
・宗派:弘全宗
無量寺【朝倉村上之村甲62-1】←776-3?
・山号:龍門山
・本尊:阿弥陀如来(聖徳太子作)
・無量寺縁起(由来旧記)によれば、白鳳時代の開創。
・斎明天皇が下向時に朝倉に3ヶ月逗留した。その間に、お供の僧・無量上人が車地(くるまじ)に寺を
建立し、本尊阿弥陀如来を安置し、無量寺と号した。
・河野家の祈願寺、矢矧神社の別当寺であった。
・天正初期に宥量上人が竜門山城主・武田信勝の外護を得て現在地に寺を移転した。
・天正10年に竜門山城が落城し、武田信勝が討死したとき、その子・富
若丸を寺に隠棲させ、10年間養育の後、天領の大荘屋職に就かせた。
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禄端寺(ろくたんじ)【朝倉村野田】
・本尊:阿弥陀如来
・正禅寺の末寺。
・貞治年間に焼失した。
飯成神社(いいなりじんじゃ)【朝倉村朝倉上宮谷甲941】
・旧村社
・祭神:雅皇彦神、大年神、大穴牟遅命、宇迦之魂神、大山祇神
・境内社:厳島神社(祭神:田心比売神、瑞津比売命)、大己貴神社(大己貴神)、広鉾神社(広
鉾神)
・弘仁15年2月の初午の日、国司・伊予守宿祢為澄が嵯峨天皇の詔勅を奉じ
て山城国稲荷山から当国内へ10社勧請したといい、飯成神社はその1社であ
る。
・例祭:4月25日
![]() ・部落の人達に排除された人が鉄砲で腹を撃ち自殺した。その後、部落に祟りをもたらしたので、部落の人々は観音の石仏を祀って祟りを鎮めた。 ・この石仏は飯成神社に神として合祀している。 |
岩戸神社(いわとじんじゃ)【朝倉村朝倉上名之甲589】
・祭神:手力男命
・社号を朝倉天皇石戸宮という。
・例祭:10月9日
木の丸殿
2003/11/30
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客天満宮(客天神社)【朝倉村朝倉上
長谷】
・祭神:菅原道真公、大己貴命、五男神
・例祭:6月14日
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![]() ・目通り幹周:3.6m、樹高:15.0m |
荒神社(こうじんじゃ)【朝倉村山口
山屋敷甲233】
・祭神:大己貴命
・境内社:山神社(祭神:大山積命、越智命)
・上古に大己貴命と少彦名命が国土経営にあたったときの駐蹕の古跡に小祠を建立したという。
・明治4年に村社となった。
・例祭:10月10日
皇子(明)神社(こうじみょうじんしゃ)【朝倉村朝倉上
宮ノ下甲122】
・祭神:天津彦火瓊々杵命
・境内社:熊神社(祭神:木花開耶姫命)、杵築神社(祭神:大穴牟遅命)、荒神社
※現地踏査時は、熊神社と荒神社しか確認できなかったの
だが....。
・貞治年中、世田城落城後に河野通朝がこの地に落ち延びて山谷を開拓し、河野家の祖先を勧請したものという。
・例祭:9月9日
![]() ・目通り幹周:3.7m、樹高:31.0m |
![]() ・目通り幹周:4.0m、樹高:9.0m |
子守神社(こもりじんじゃ)【朝倉村朝倉上
浅地甲540】
・祭神:玉依姫命
・慶長18年の創祀という。
・神号を児子守大明神と称する。
・例祭:10月9日
須賀神社(すがじんじゃ)[義音神社]【朝倉村朝倉上
鈍甲368】
・祭神:建速須佐之男命
・境内社(飛び地):客天神社(祭神:菅原道真、大己貴神、五男神)
・もと滝宮・牛頭天皇という。上古に大神が天班駒に乗って天降りした遺跡で
あるという。
・例祭:6月14日
須賀神社(すがじんじゃ)[天王宮]【朝倉村朝倉南
株木乙58】
・旧村社
・祭神:建速須佐之男命、猿田彦命、山頼命
・斎明天皇の御宇に創立されたという。
・もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。
・延享3年9月14日に、和霊宮を勧請・合祀した。
・須佐之男命が大市姫命とともに巡狩した古蹟に、小千連が神籬を立てて祀ったことに因るという。
・例祭:5月1日
★笠松山登山口有り。(2003/11/30)
★須賀神社へと続く上り道を行く。嘉永七寅年の注連石が立っている。(2003/11/30)
★須賀神社境内地に、以前は国土地理院の標準点があったらしい。(これもなべちゃんの情報)地図上は、4等三角点「須賀」(標高67.3m)が未だ存在するはずなのだが…。
(2003/11/30)
![]() ・配神:五男神 ・合神:大己貴命 |
多伎神社(たきじんじゃ)【朝倉村古谷(こや)】
2001/9/29
・県指定史跡
・延喜式内社
・旧県社
・祭神:須佐之男命、多紀津姫命(多伎津比古命)、多紀津彦命(多伎津比売命)
・境内社:天満神社(祭神:)、一宮神社(祭神:天照大神)、荒神社(祭神:大己貴命)、清水神社(祭神:清水氏祖神)、越智神社(祭
神:越智氏祖神)、鷹取神社(祭神:大仲社)
・境内社(飛び地):奥ノ宮盤座神社(祭神:高おかみ神)
・社叢内に38の古墳が存在する。(→多 伎ノ宮古墳群)
・例祭:5月10日
「古谷村字大谷に在り 須佐男命三女神を祭る 或は大己貴命の女多岐比売なり
因て瀧宮とも書すといふ 三代実録曰、貞観二年壬子閏十月十七日癸亥、授伊豫国従五位上瀧神
従四位下、同八年九年十二年にも授位あり 延喜式神名帳載する所の古社なり 明治十三年七月七日縣社格に列せらる
古歌に
清くすむ神のこころを移すとはかけてしらるる瀧のしら糸
祈雨の歌 町野政胤
名にしおはば四方の田面のうるふまて水せきくだせ瀧の三社 」(伊豫温故録)
![]() ・旧社格:式内大社、県社 ・祭神:多伎津比売命、多伎津比古命、須佐之男命 ・『当神社は文献に「瀧之神」とあり、往古奥の院 の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命(にぎはやしのみこと)六 代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮となられたと記されています。 清和天皇の貞観2年(860)神階を賜り、大三島さん、伊曽乃さんと相並んで数度に渉り昇格し、貞観12年正 四位上に昇りました。(三代実録) 醍醐天皇の延喜年間(905)式内大社(伊予国に七柱)に列格の光栄に預り、皇室より久しく特別の待遇に浴し 国司、守護職、領主をはじめ庶民の信仰を集めました。 江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願のたびごとに藩主の参拝あり、七日間の木願は中日迄を本殿で、後半を 奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ、必ず霊験をいただいたのであります。 広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の群集古墳からは古い歴史と由緒が伺われ、多伎川の清流と照葉樹を中心 とした自然林は全国でも有数、まさに神様のお座します所であります』 |
![]() 「杯状穴遺構は、古くは弥生時代から近現代まで続けられている文化遺産といわれています。一説によると、遺構の目的は、戦場や各地に おもむいた男性の帰宅を求めた精神的な祈願行為で生じた”たたき穴”で、前者の祈願穴に結び祈願を続けたと言われています。 朝倉村教育委員会」 |
![]() 「当1号墳は多伎川の左岸に造られた古墳である。現在6基が確認されて いる。当1号墳は無袖の横穴石室で、副葬品には須恵器・土師器・直刀・轡・鉄鍛や身につける装身具が出土している。石室は全長7m、 幅2mあり、天井高2mが考えられる。墳丘は直径13m前後の墳丘高3〜4mが想定される。主軸方向は北30度東を採っている。遺物 は美術古墳館に展示。 朝倉村教育委員会」 |
![]() ・県指定有形文化財(昭和34年12月25日) ・社殿裏及び境内一帯に30数基の古墳群がある。約1,300年前(6〜7世紀)作られたものである。外形円墳にて内部玄室とこれに 通ずる索道を備えた完全な横穴式石室をもったものが多い。特に社殿の真裏の比較的小石を積み上げて作った大きいものは高麗式墳と言わ れている。大方は盗掘されているが、昔の姿をとどめている。開扉された結果不正確ではあるが、この地方を支配していた有力者の一族の 墓であろうと推定される。 「当古墳群は三十数基による群集墳であるが、これらの円墳の内に一基は盛土のかわりに石を積み上げた積石塚(円墳)がありま
す。古墳の内部は他の古墳と同様に横穴式石室と推測されています。 朝倉村教育委員会」
|
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![]() ・多伎神社獅子舞保存会 ・県指定無形民俗文化財 |
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![]() ・多伎神社の奥宮。 ・三重の石灰岩の巨石から成る。 ・この巨石を燻すと、石の下の洞窟から大蛇が出現し、降雨をもたらすといわれ、「ふす べ岩」「雨乞い岩」と呼ばれる。 ・伊予温古録では、「川 上の巌」、愛媛面影では「川上巌」として紹介されている。 「古谷村の西南山字大日谷に在り 多岐神社の奥ノ院にして本社よ り七町ばかり登り是より峻路険坂左右絶壁千仭の深谷なり 此所を馬の背と いふ 幽遂深奥にして樹木陰森人跡至る稀なり 中央に大なる奇石あり 其の高さ一丈五尺横二丈餘 川上の巌なり 旱魃の時此巌を薫ふれば潤雨ありといふ 依て薫岩とも稱せり」 ・「滝神社より十町ばかり奥なる山上に在り。旱する時此 巌を薫れば必雨を得、依て俗に薫岩と云。おのれ一とせ久松長世ぬしと越智郡七社詣しける時の道記あり。中に此巌 の事を誌したれば、後に登らん人のしるべにとていささか書くはへり」(愛媛面影)。 ・奥の伊予路によれば、「神秘の前に流れるのは、大日谷(おおひだに)を下って きた多伎川。谷を分け入ると奥の院。縦横それぞれ4mほどの岩が、山の 中腹にすわっている。フスベ岩さんと呼ばれ、雨乞い儀式場だった」とある。 |
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天満神社【朝倉村朝倉北】
★笠松山清掃登山野田登山口へ向う途中に鎮座する。須賀神社の境
内末社(飛び地)の天満神社とは、この神社を指すのであろう。(2003/11/30)
白山大神社(はくさんだいじんじゃ)【朝
倉村朝倉下 白崎乙88】
・祭神:伊耶那岐命、伊耶那美命
・建久年間に、庄内村黒谷(現・東予市黒谷)に鎮座していたが、洪水により社殿が流失したため現在地に奉遷した。
・古来より長井家の氏神として各地の長井家の崇敬が篤い。
・例祭:10月12日
八幡大神社(はちまんだいじんじゃ)/
真宮明神【朝倉村朝倉下 森山甲74】
・旧村社
・祭神:誉田別命、息長足姫命、高おかみ神、足仲津彦神、雷神
・境内社:鎮守神社(祭神:天照皇大神)、進雄神社(祭神:建速須佐之男命)、木
丸神社(祭神:大山祇命)
・往古は朝倉社(日安坂の神)と祢之神森(真宮)に鎮座していた。
・和銅5年8月に大之島宮を勧請・合斎し、真宮明神と称した。
・貞観元年8月、宇佐より八幡宮を勧請して一社を建立したが、文禄11年に両社合併して現在地に奉遷した。
・例祭:10月11日
・回廊あり。
![]() 拝殿の改築と同時に神殿裏の谷に於て県の防第八号治山工事が施工されることになり裏谷の杉桧を伐採しなければならなくなる。この材を 買却(*1)するか、 この材を用いて回廊を改築するかを協議の結果改築と決定した。 このため石丸孝光氏のユンボ貮台に依る材の搬出寄進をはじめ左に掲げる41氏延141人役の特別寄進を仰ぐことになった。 (.....以下略)」 (*1) 「買却」は「売却」の書き誤り。 |
![]() 木之丸殿ハ昔朝倉下村字平木ノ窪ニ在リシガ頓田川堤防破壊ノ時流レテ百間土手ニ移シタルモ又災害ニテ流失シ満願寺仁王門ノ前ニ遷シタ 夫レヨリ朝倉 下字経由ノ道路傍ニ移シタルモ大正年間ニ八幡神社境内ニ合祀セリ(天智天皇ヲ祀ル) 「朝倉上村字行司原に在り 日本紀斎明天皇巻曰、七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就于海路、甲辰御船到于大伯海、太田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女、....(中 略).... 四月天皇遷居于朝倉宮、同天皇巻曰く、五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮、是 時斬除朝 倉社木....」(伊豫温故録) ※木丸神社は天智天皇の木丸殿と関係有り? |
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伏原八幡大神社(ふしはらはちまんだいじん
じゃ)【朝倉村朝倉上 伏原甲470】
・祭神:誉田別命、息長足姫命、足仲津彦神
・境内社:近江神社(祭神:信勝神霊)、進雄神社(祭神:建速須佐之男命)
・建久3年、守護職・河野通俊が男山より勧請。天智天皇の木丸殿の旧蹟であるという。
・延元年中、竜門山城主・田窪将監の崇敬が篤く、後に社職となった。
・武田近江守信勝も入城後、崇敬を篤くした。
・例祭:4月24日
八幡大神社
・「朝倉村字白崎にあり 社記に云ふ 古 斎明天皇行幸の時
行宮を此地に営み 此の社に於て天下泰平の御祈ありて 神怒和ぐ 後其の跡を神祭したるが
後應神天皇を合祭して八幡社と称す 又村内に神ノ木木之本等の地名あり
其所は行宮の用材を伐りたる故に此名ありといひ伝へたり」(伊
豫温故録)
矢矧神社(やはぎじんじゃ)【朝倉村朝倉北
大谷甲42】
・旧郷社
・祭神:天狭貫主、誉田別命、武内宿祢
・配神:日本武尊、仲哀天皇、神功皇后
・境内社:日吉神社(祭神:大山咋命)、杵築神社(祭神:大穴牟遅命)、山神
社(祭神:大山積命)、平林山神社(祭神:大山積命)、荒気神社(祭神:橘参河守)
・古来、朝倉宗廟本社と号した。(孝霊天皇の第三皇子・彦狭島王より三代の
嫡皇である二名州の主)天狭貫王の廟。八幡ヶ窪に鎮座し、河野家の祈願所で
あった。
・天正年間の戦乱により社殿が頽廃したのを、慶長18年に現在地に奉遷して矢矧神社と
称するようになった。
・例祭:5月3日
・「矢矧八幡宮 朝倉中村に在り。越智氏の祖 天狭貫の霊を祭る。因て朝倉郷の宗廟と称せり。伊豫不動大系図云、朝倉宗廟ハ人皇七代孝霊天皇第三皇子彦狭島王三代小千天狭貫ノ廟也。按
此社も大濱八幡宮の類なるべし。」(愛媛面影)
![]() |
山越神社(やまごえじんじゃ)【朝倉村朝倉上山之神甲2730】
・祭神:大山祇神、大己貴神
・慶長年間にこの地を開墾して山越新開村を設置したときに勧請したものという。
・例祭:9月10日
荒木大明神【朝倉郷中村】
「中村大谷山外屋ヶ森城主
橘
源蔵久吉公ノ霊ヲ祭ル
外屋ヶ森城主 橘源蔵久吉後
に三河守ト号ス、越智玉男ノ嫡子正達ヨリ十二世ノ孫、橘公久玄孫ニシテ若年ヨリ文武ノ志深ク殊ニ弓、馬術ニ上達セリ、河野氏ノ臣下ナリ、
武功多シ、天正年間落城ト共ニ討死ス」(朝倉村誌)
春日大明神【朝倉郷野々瀬】
「春日大明神ハ文亀年間マデ正善寺ト水之上無量寺ト相持チ別当ナリ
然ルニ文亀年間焼失シソノ跡ヲ春日ト謂フ 今ハ天王宮ニ合祀ス 野々瀬、今若、白崎、是崎ヲ謂フ」(朝
倉村誌)
釈迦堂【朝倉村北大谷】
・本尊:釈迦如来
・法隆山正善寺の境外仏堂として建立された。
・本尊の釈迦如来は、無魔繁栄を祈願して祀られた。
![]() ・新四国 第22番 |
薬師堂(高大寺庵)【朝倉村高大寺】
・山号:南嶺山
・院号:金光院
・寺号:高大寺
・本尊:薬師如来
・元は武田家の持庵で、光蔵寺の末庵であった。
阿弥陀堂【朝倉村峠】
観音堂【朝倉村山口】
・本尊:観世音菩薩
・実相山法蓮寺にあった観世音菩薩を祀る。
・実相山法蓮寺、善正寺(野間郡佐方)、萩原山宝生院(風早郡)の3寺は山伏の資格を授与する寺であった。
清水寺庵【朝倉村古谷】
・本尊:観音菩薩、薬師如来
・安永7年、清水寺が焼失し、村方八兵衛・又右衛門が再建した。
井出のほこらと墓【朝倉村】
肩切り地蔵【朝倉村朝倉北
下朝小学校校庭】
2002/3/3、2003/11/30
・「平安末期、寿永年間(1180年代)この地方(辻堂)で、源氏に味方した伊予の豪族河
野通信の軍と尾道の僧、西寂入道ら平家軍との合戦があ
り、源氏方が勝利した。平家の軍兵48人の首をこの地に埋葬し、石佛を祀った。胴体は北東100mの地に埋め、楠の小木を植えた。(現村
民グランドの大楠)」との説明書きが建っている。
天道ヶ峠【朝倉村】
2002/3/3
金山【朝倉村】
2002/3/3
笠松山【朝倉村南野々瀬】
2003/11/30(笠松山清掃登山)
・二等三角点「笠松山」327.73m
・瀬戸内海国立公園特別地区に指定。
・標高 327.7mの山頂には平和観音堂がある。
・自然歩道があり、ハイキングが楽しめる。
・中世伊予の豪族河野氏の居城跡。
・平安時代中期、寛弘年間(1004〜1011)、浮穴太夫河野為世の隠居
城となり、その後、子孫である岡氏の居城となった。
・南北朝時代、南朝方の伊予国守護大館氏明が世田山城に、新田四天王の篠塚伊賀守
重広は笠松城に、岡武蔵守光信は行司山城に
よって、北朝方の細川頼春の大軍の来攻を防戦したが、興国3年
(1342)9月、氏明・光
信は討死し、篠塚伊賀守は敵中を突破して、今張浦から因
島に行ったという。
・南北朝末期の貞治3年(1364)、河野通朝が、そして康暦元年(1379)通朝の嫡子河野通堯が世田山城・笠松山城によって、細川頼春の来攻を防戦し討死している。
・室町時代末期になっても、阿讃の細川氏、周防の大内氏、土佐の長宗我部氏が
来攻し、この山城を占領している。
![]() ●野田登山口より1.2km 沢沿いの登山道を行く。想像したよりも遥かに快適 な道である。道標も立てられており、よく整備が行き届いた格好のハイキングコースである。 野田古墳3号脇を通り過ぎる。この辺りは「野田古 墳群」と呼ばれるだけあって、多くの古墳が存在する。 ほどなく砂防ダムに辿り着く。階段やベンチなどもよ く整備されている。これは国立公園に指定されているためか、それとも朝倉村及び住民の皆さんのご努力の賜物か。 山を覆うのは花崗岩の風化によって出来あがった粗 い砂・土らしく、見た目には脆い感じがする。現実、この野田コースの登山路は一部崩落してしまっており、迂回路が新たに設け られている。 植物としては、シダが矢鱈と目立つ。 登山道の傍らには時折可憐な薄紫色のスミレの花が 姿を現し、気を和ませる。 段々と高度を稼ぐに従って、風景が開けてくる。 (以上、2003/11/30の記録) ●野々瀬登山口より1.2km ●世田山山頂より1.1km |
![]() 「朝倉村の笠松山は国立公園の一つであり、昔名木傘の形の松があったが現在は枯れてない わたくしにふる雨しのぐかさまつの滝の水木のあらんかぎりは 河野為世 年代は明らかでないが河野四郎為世の隠居城があったといわれ南北朝の忠臣篠塚伊賀守の居城があった。笠松山観音堂は伊賀守八城を落ち のびる際兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を笠松山頂に安置して去ったものを戦の後、村人がこの地に小祠を建てて祀り、その 後度々改築されて現在に至った。」(薬師堂下広場に 建てられた説明書き) |
![]() 笠松山城主・篠塚伊賀守が落城・下山するときに、兜の中に収めていた1寸8分の金の千手観音像を祀ったものだという。 この堂は何度か立てかえられたようだが、傍にある碑には「大正10年笠松山本堂再建 四月吉日」と刻まれている。 平和薬師堂の脇(南側)が最高点ピーク。どうやら国土地理院の地図上では340m超えであり、公称の標高328mよりも高い ようである。 薬師堂が鎮座するピークは、全方向とも見通し
抜群。
|
![]() 薬師堂の脇の道標には、「世田山まで1.1km、笠 松山登山口 1.2km」と記されている。この道標、一見「四国のみち」のものに見えるが、「歴史のこみち」と書かれている。 (2003/11/30 笠松山清掃登山) |
![]() |
世田山【朝倉村/東予市/今治市】
2003/11/30(笠松山清掃登山)
・世田山339m(界第4号の標柱)
・「西条営林署 国有林」の看板が垂れ下がっている。
・トイレ有り。
・永納山を見下ろすと、山肌にブルーシートが多数掛けら
れているのが目につく。発掘調査中なのだろうか?(2003/11/30)
・山裾の河原津、東予市街〜西条〜新居浜など燧灘沿いの
町並みが眺望できる。(2003/11/30)
鷹取山【朝倉村】
霊仙山
・標高 156.6m。
![]() |
竜門山【朝倉村】
・標高438.9m
大谷山
・多伎神社の南側(背後)。
万灯山
・多伎神社の北側。
鹿ノ子池【朝倉村】
![]() →鷹取山城の項を参照 |
笠松川[頓田川支流]
★天満宮(朝倉南)の前に架かる「笠松橋」をわた
り、川沿いに歩いていく。川はジュスダマ(イネ科)で覆い尽くされている。(2003/11/30)
山越川[頓田川支流]
満願寺川[頓田川水系]
黒谷川
白地川
鮎返りの滝【朝倉村】
・頓田川上流にある。
雷雷の滝【朝倉村 白地川】
・白地川上流にある。
木がくれの滝【朝倉村】
・龍門保育園敷地に隣接している。
・その昔、河野源六の住居であったことから源六殿屋敷と呼ばれているが、江戸時代には天領の大庄屋武田家の屋敷であった。その当時、度々今治藩主が訪れ、滝を賞でたと古文書に
残っている。又、文人墨客の来訪も多く、幕末の碩学頼山陽はこの滝を「里中(りちゅう)の山滝」と褒めたたえた。
朝倉ダム【朝倉村】
2001/9/29
・頓田川支流黒谷川上
流にある。
・貯水量140万トン。
・朝倉・今治の農地約1000haの農業用水を供給する。
![]() ![]() ![]() |
胴塚の楠(村民グラウンドの大楠)【朝倉村一丁寺】
2002/3/3
・八ヶ所さんとも呼ばれる大楠。
・寿永3年(1184)2月、伊予の源氏・河野通信が平家方の尾道の僧・額の西寂(ぬかのせいじゃく)入道
軍を掃討しつつ、朝倉郷辻堂付近まで追いつめた。河野方は西寂方の武士48
人を討ち取り、血洗池で死体を洗い、首を現下朝小学校の首塚に埋め、その上に辻堂の肩きり地
蔵を、胴体は血洗池のすぐそばに埋めて、その上に楠の木
を植えたという。
・河野軍は更に西寂軍を追撃したが、途中矢玉が無くなったので、頓田川の小石を拾ってそれを打ち投げて戦った。西寂軍は桜井郷長沢の方に
逃散した。そのため、朝倉と長沢の境にある峠は石打峠と名付けられたとい
う。
肩切り地蔵のエノキ【朝倉村朝倉北
下朝小学校校庭】
箒桜【朝倉村古谷】
・竹箒を立てた形に似ているので箒桜と称されていた。
・安政6年の大旱魃の際、今治藩主・松平壱岐守定剛公が多伎神社での雨乞い祈祷をしたときに、神官・串部相模正重則が路傍の桜の枝を手折って御座所を掃き清めた。そして、その枝を地面
に挿したところ、それが根付いて大樹となり、樹形も竹箒そっくりになったとの伝説が伝わる。
・昭和31年に県指定天然記念物となったが、病虫害・落雷により枯損。しかし接木により復活。
・現在の桜は、3代目という。(奥の伊予路)
・場所は、多伎神社と奥之院(燻岩)の中間、郷ヶ谷入り
口付近。
★多伎神社奥
之院のふすべ岩探しへと繰り出した。残念ながら曇り空の夕暮れ間近だったので、車を降りての歩きは断念したが、箒桜の立て看板を
チェックできたので、目的は半分達成できたと見てよかろう。(桜の木が見当たらなかったのは残念)(2003/11/30)
四季桜(竹林寺桜)【朝倉村 竹林寺】
・秋冬春の三度にわたって花が咲く。
・今治藩に仕えた古谷村(現 朝倉村古谷)の藩士・堀半七が参勤交代のときに江戸から持ち帰って寄進したもの。
横戸の桜【朝倉村】
しだれ桜【朝倉村 無量寺】
根上り松【朝倉村】
2002/3/3
・昭和31年、白石敏男氏により建立された碑が建つ。昔この場所に根の部分が競りあがった巨松があったという。今はその姿を想像すらでき
ない。
![]() 「県の天然記念物に指定された松の巨木があり、根の形から根上り松と呼んだ。昭和55年虫害のため枯れ、台風で倒れてしまった。根元 から銅鏡が出土した。松は古墳の上に植えられた一里塚であろうか。」との説明書きが建っている。 |
朝倉の巨木
番号 | 名称 | 場所 | 目通り
幹周 |
樹高 | 樹齢 |
1 | 村民グランドの大楠(胴塚の楠) | 村民グランド | 9.0m | 23.0m | |
2 | エノキ | 下朝小学校 | 2.7m | 17.0m | |
3 | ムクノキ | 高大寺川(?) | 3.6m | 11.0m | |
4 | ネズミサン(ヒムロ) | 樹ノ本古墳 | 2.3m | 19.0m | |
5 | ヒノキ | 多伎神社 | 2.8m | 32m | |
6 | スギ | 多伎神社 | 2.9m | 33m | |
7 | |||||
8 | |||||
9 | |||||
10 | モミノキ | 満願寺 | |||
11 | シグレザクラ | 満願寺 | |||
25 | 一位樫(イシイガシ) | 客天満宮 | 3.6m | 15.0m | |
26 | 双子杉 | 皇子神社 | 3.7m | 31.0m | |
27 | 一位樫(イチイガシ) | 皇子神社 | 4.0m | 9.0m |
林道古谷小鴨部線【朝倉村/玉川町】
2003/11/30
幅員3.0m、延長2.2km
★林道古谷小鴨部線を上りきったところからの今治平野の
風景が眺めが思いのほかよかった。晴れていれば尚更よかったのだが。(2003/11/30)
さやの峠【朝倉村/玉川町】
2002/3/3
石打峠【朝倉村/今治市桜井】
・平安時代末期、辻堂において源氏方・河野勢と平家方・西寂入道の激戦が繰り広げられたが、
・・・。
富安風生句碑【朝倉村朝倉】
「野牡丹の散華とはかく美しき」
・平成元年(1989)建立
災害復旧記念碑【朝倉村朝倉北
朝倉村役場前】
2003/11/30
昭和47年、昭和51年にこの地方を襲った集中豪雨による河川氾濫・土砂流出による災害からの復旧を記念したもの。昭和55年3月建立。
「朝倉之里」碑【朝倉村朝倉北
朝倉村役場前】
2003/11/30
朝倉村民憲章」【朝倉村朝倉北
朝倉村役場前】
2003/11/30
武田権一顕彰碑【朝倉村朝倉北
朝倉村役場前】
・元朝倉村長(1967〜1986)。朝倉村名誉村民(1988)。
・顕彰碑は、平成16年(2004)9月23日に除幕した。
緑のふるさと公園【朝倉村朝倉下】
・自治省の「まちづくり特別対策事業」の指定を受けて建設、整備された総面積448ヘクタールの公園。
・「手づくり郷土(ふるさと)賞」〜いこいとふれあいの道30選〜(平成元年7月、建設省)
(愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観
光協会、平成5年3月)
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ・海抜100mに位置する。 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 全国緑の少年団第1号として昭和48年5月に誕生した。 碑は昭和61年12月に建立された。 |
金比羅親水公園【朝倉村万丁】
2003/11/30
・平成3年(1991)、頓田川河川敷を利用して整備された。
![]() ![]() ![]() (愛媛の風土と観光、愛媛県商工労働部/愛媛県観光協 会、平成5年3月) |
ふれあい市(毎月第1/第3日曜日)
・臼坂ふるさと交流館で開催される。
盆踊り大会(8月13日)
頓田川水辺まつり(8月13日)
マス・うなぎの掴み取り大会などが行われる。
ふれあいフェスタ(11月第1日曜日)
ブルーグラスフェスティバル、ちびっこ天国が開催される。
朝倉村B&G海洋センター【朝倉村朝倉下乙
104-2】
・体育館(アリーナ、格技室)、温水プールがある。
・料金は多少割高ではあるが、村外者でも利用できる。
タオル美術館ASAKURA【朝倉村上甲2930】
・開館時間:9:00〜17:00
・タオル製造工程見学コース、成瀬政博の表紙絵(週間新潮)、ATSUKO
MATANOのタオル作品、北原照久が収集したブリキのおもちゃなどが閲覧できる。
・http://www.ichihiro.co.jp/art
ふるさと美術・古墳館【朝倉村朝倉下乙104-2】
・開館時間:9:00〜17:00(但し16:30までに入館要)
・入館料:無量
・休館日:月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日)
・木造二階建て。
・竪穴住居復元地形模型・古墳遺跡・出土品などを展示している。
・1階の考古室では、朝倉村の遺跡と古墳から出土した資料の収蔵・展示を行っている。主に銅鏡、銅剣、木簡、土器、装飾品などを展示して
いる。また地形模型、古墳模型、竪穴住居模型なども設置している。
・2階には企画展示室や学習室がある。
《資料・文献》
「朝倉村出土の青銅鏡 1世紀ぶり初の里帰り 市町村合併前
悲願の展示」、「へえ、そうなんだ えひめのニュース」、愛媛新聞、2004/3/1
臼坂ふるさと交流館【朝倉村朝倉下乙104-2】
・特産品センター、和風レストラン朝倉から成る施設。
・毎月第1、第3日曜日にはふれあい市が開 催される。
・朝倉村出身の臼井巌氏の寄付により建設された。
・緑のふるさと公園入り口付近にある。
・前方後円墳をイメージした木造家屋。
まつたけ石(松茸石)【朝倉村 多岐神社】
・今から200年程前、今治の殿様がこの石を大層気に入って、江戸の屋敷に運びこんだ。ところがそれ以来、奥方が毎夜の如く腹痛を起こし
ていた。ある夜、殿様の枕許で「わたしはまったけ石です。どうか一日も早く多岐の宮に帰してください」という泣き声がした。殿様が早
速石を多岐神社に帰すとたちどころに奥方の病気は平癒し たという。
・多伎神社の陰陽石の一つである。
今治藩主の命により、江戸藩主邸に運んだが、藩主婦人が発病したので夢占いによると、もとの多伎宮へ帰りたいという石の願いがあったの
で、また江戸からここへ帰すと、婦人の病はすぐ直ったという伝説がある。
世田山合戦と朝倉村の歴史
・建武元年(1336)6月、九州から東上した足利尊氏の軍政が京都に侵入したので、後醍醐天皇は京都の花山院を脱出し、大和国吉野に潜
幸して吉野朝廷をひらいた。そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝
(後醍醐天皇)の両皇統が並び立ち諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な合戦が各地で展開された。伊予でも、南北両朝廷の運命をかけ
た世田山合戦が行われた。
府中朝倉郷の東方に聳える世田山は標高339mの中世の 山城である。山頂に達すると展望はひらけ、北に広大な府中平野を望み、南に四国連峰、東に波穏やかな瀬戸内海をみおろす、まさに風光絶佳
の地である。また、世田山は天然の要害であるだけではな く、古来、国府防衛上の要衝ともなっていたので、幾度となく合戦が繰り返された。
・興国3年(1342)5月、後村上天皇は南朝の勢力と西国で盛り返すべく、新田義貞、
弟脇屋義助を南軍の総師として伊予にくだした。しかし義助は不運にも、その直後病に倒れ、国分寺に急死した。この報せをうけた北朝の武将細川頼春は義助の死を
好機と見て、阿波・讃岐の兵7,000を率いて伊予に来攻、土肥義昌がたて
篭もる川之江城を攻め落とした。
・ついで千町ヶ原の合戦に完勝した細川勢は、椎ノ木峠を越えて府中朝倉郷に攻め入り、行司原城を護る岡武蔵守を攻め滅ぼした。そ
して南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
・熾烈な攻防40有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら17士は山中で壮烈な自刃を遂げた。この戦いで、特に野々
瀬口は激戦となり、敵味方の屍が谷を埋めたという。
・また笠松城主篠塚伊 賀守は豪腕をふるって唯一人敵中を突破し、遥か内海の魚島に遁れた。
朝倉のかくし雨
ふすべ岩とほうき桜
雨乞い淵
大人の足跡
満願寺の雨乞い灯篭
与六井戸
内ヶ畑の涙岩
笠松のしかけ岩
お世田の狸
ばくろうさんをだました狸
八ヶ所さん狸
庄屋と狸
お燈ろうさん狸
本道寺の狸
小僧の一升めし
庄屋のお伊勢まいり
すずめとり
峠の熊神さん
白地部落できゅうりを作らぬわけ
浅地の浪人塚
山口の一本松
あいがりのふすべ岩
五葉の里【朝倉村】