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[KOMIL:KOtaro's Miscellaneous
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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (生石地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
水仙 |
街の木:
桃 |
大字 | 字 |
久保田町(くぼたまち) | |
富久町(とみひさまち) | |
高岡町(たかおかまち) | |
北吉田町(きたよしだまち) | |
南吉田町(みなみよしだまち) |
垣生山城【高岡町】
「垣生城
高岡村に在り 一に高山城といふ 垣生氏代々の居城なり 垣生
余戸 富久 高岡 久保田 斎院 南吉田 北吉田 別府 以上九ヶ村を垣生郷と称して垣生氏の所領なりをいふ 河野家分限録に左の如し
垣生加賀守盛岡盛周手勢十騎温泉郡高岡村高山城主」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
高山城【高岡町】
忽那山城【北吉田町】
「忽和山城
北吉田村海岸に在り 一に轡山といふ 忽那島泰山城主忽那式部少輔の旧城なりと云 永禄中忽那伯者守通景居る」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
掩体壕(えんたいごう)【南吉田町】
・松山市南吉田町の田圃の中に、アーチ型を描く巨大なコンクリートドームが点在している。この旧建築物は掩体壕と呼ばれ、第二次世界大戦中に造られた戦闘機用の格納庫である。
・当時この松山に世界を震撼させた海軍航空隊「第三四三航空隊」(通称「剣」)の基地があった。歴戦の最精鋭パイロットを結集し、速度・大きさ・攻撃能力で零戦を遥かに凌ぐ名戦闘機「紫電改」を駆った。
松山海軍航空隊跡碑【北吉田町】
・金刀比羅神社前及び帝人鰹シ山事業所(北地区)正門前の道路緑地帯に碑がある。
・帝人松山事業所北地区正門前の松山海軍航空隊跡碑は昭和53年6月建立。
安楽寺(あんらくじ)【久保田町】
2003/1/13、2007/1/1
・履脱天満神社境内の中にある。
・行基が開山したと伝えられる。
・長保元年(999)創建と言われている。
・江戸時代には、松山藩主の崇敬が篤かった。
![]() ・平安朝初期作の1木造り立像。 榧(かや)材の一木彫りで、像高 164cm。 ・県指定有形文化財[彫刻](昭和40年4月2日指定)。 ・県下最古の木造菩薩。 ※新たに建てられた立て看板によれば、"松山市最古"と記されている。(2003/1/13) ・菅原道真の守り本尊であるといわれる。 |
![]() ・「安楽寺檀家一同 平成八年六月吉日」 |
![]() ・松山藩士のみが通行可能であった。 |
円満寺【北吉田町】
「円満寺、…真言宗新義派同郡別府別浄明寺の末なり、…、創建年暦詳かならず、宿照中興す」(温泉郡地誌「南吉田村」)
※現在の北吉田墓地にあったものか?
極楽寺(ごくらくじ)【南吉田町】
「極楽寺、…禅宗曹洞派和気郡山城村竜泰寺末なり、本村の中央にあり、宗祖27世法孫水翁寛文十一年開山」(温泉郡地誌「南吉田村」)
※上の「山城村」は「山越村」の誤植であろう。
太蔵寺(たいぞうじ)【高岡町】
2003/4/12
・宗派:真言宗豊山派
・山号:天照山
・本尊:虚空蔵菩薩
「大蔵寺、…真言宗新義派同郡別府村浄明院末寺なり、本村の東弐町にあり、創建年暦不詳、宝永五年尊秀大阿闍梨中興」(温泉郡地誌「高岡村」)
「大蔵寺
高岡村に在り延喜元辛酉年此里に引立大蔵なる者あり此寺を創栄すといふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
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富久観音院(とみひさかんのんいん)【富久町】
・富久町と南斎院町との境に、佐古川が流れ、その中央部の川辺に「富久観音院」がある。字名は「葮薮(だんやぶ)」と言って、今から約千年前の長徳元年に恵心が開基したと古文書に記されている。
・この観音院には観音講があり、大般若経本と観音軸は、この地域の旧村(余戸村、斎院村など)に貸し出されていた。そして講中祭や御祈祷などで村人たちがお祈りをし、近隣の中軸をなしていたと言われ、今でも組中で毎月御大師講が続いている。
・江戸時代末期には寺子屋が開かれ、寺子は50人を数えていた。また、明治の学校制度創設の時には、小学校建設の予定地になったという記録もある。
・建物は再三改築され、現在のものは昭和61年に町と信徒によって落慶法要されたものである。
「観音院、…真言宗新義派京都府管轄山城国醍醐三宝院末なり、本村の東北にあり、長徳元年恵心僧都開山創建せり」(温泉郡地誌「冨久村」)
石鎚大権現神社跡(いしづちだいごんげんじんじゃあと)【富久町】
・余戸との町境の田園地帯、さくら小学校の北側の洗地川畔にひときわ高くそびえる樟の大木がある
。
・ここには昔石鎚大権現神社があったという。いまでは玉垣のみが残るだけである。
・ここには延宝4年(1676)頃、加多寺という寺があった。この寺は当時石鉄山の大元締だった西条の前神寺に先達寺として指定され、多くの信仰を集めていた。後に廃仏棄釈で廃寺となった。
・石を供えて日参すると、弱い子供も元気で力持ちの子供に育つと言い伝えられている。
・石鉄山大権現の宿る神体は富久の集会所のお堂に祭られている。
・ある夏の日、子供達がお堂から神体を引きづり出して前の川に沈めたりしていたずらをしていた。
近くの大人が見つけ「罰が当たるぞ」と戒め子供達から神体を取り上げお堂に戻したところ、その人はその晩高熱を出し数日しても治らなかった。そこで近所の寺に祈祷してもらったところ、権現様が現れ、「楽しく子供達と一緒に遊んでいたのに!」と怒ったという。
・このように子供と関係する言い伝えが残っており、子供の好きな神であると信じられている。
・現在神体は生石八幡神社に祭られている。
「石槌神社、生石八幡神末社、…本村の南四丁にあり、盤筒男命を祭る、勧請年暦不詳、例祭6月28日」(温泉郡地誌「冨久村」)
「富久の南、余戸との村境にあり石鎚神を祭る。旧名は石鉄蔵王権現と称していたが、明治二年の神仏分離令による「混淆取分」の際に、石鎚神社の古名に復している。
今はクスの大木と、そのもとに、富久・余戸の信徒有志の名がある玉垣があるのみ。以前この神社は、一面竹と雑草と木におおわれ、狸の巣があると恐れられていた。
また、隣りには、生石・味生・余土三ヵ村共同の隔離病舎が設けられていた。(松山年代記大正十四年二月の頃)これは当時としては大変進んだしかも大きな事業であった。
…(以下略)」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.160)
クスノキ
![]() 「加茂神社 高岡村に在り 加茂斎宮の臣一色氏勝なる者遷し祭るといふ 往古は大社にてありたるが今に旧社地一町の間を乳の町と云 又其の北二町はかりに流鏑場の古跡あり 三町程へたてて斎院村あり 中古より破壊して小社となり居しか實永年中此社に雨を祈り験しありしを以て再興せり 今は生石八幡の境内に移せり 此神社最初は北斎院村の内に在り 其の跡を加茂引地と呼へり」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52) |
履脱天満神社(くつぬぎてんまんじんじゃ)【久保田町】
2003/1/13、2007/1/1
・景観樹林保護地区 指定番号4号
※ここの参道は東から西に長く伸びておるんじゃが、参道の両脇の松並木はなかなか見応えがあるわい。
・昔、菅原道真が福岡県太宰府へ流される途中、遭難して越智郡桜井の海岸に漂着し、陸路を直下してこの地に草履を脱いで休んだけん「履脱天神(くつぬぎてんじん)」と言うらしいわい。
・又、蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として下向し、道真に九州へ向かうよう伝えたという言い伝えがあってなぁ、川に掛かる橋を勅使橋と言うようになったらしいわい。
→c.f.頭三位中将紀久朝祠
・明治36年には、菅原道真が亡くなって 1000年の記念事業として、九州の太宰府になぞらえて松並木や池が作られた。
「履脱天満宮、 高岡村生石八幡神社末社、…本村の南三町にあり菅公を祭る、又火雷神、大物主命、素盞鳴命を配祀す、相伝ふ…」(温泉郡地誌「久保田村」)
「窪田天神社 窪田村に在り。…」(愛媛面影)
「履脱天満神社
久保田村に在り菅原道眞筑紫に赴く途中風浪の為め船を破り越智郡桜井濱に上陸し中山を経て此地に来り滞留し給ふ 延喜帝頭中将紀久朝に勅使半途に滞留せることを責問せしめらる時に道眞左の沓を脱き捨て遽に此地を立退き給ふ 因て其の舘跡に神社を創栄し履脱天満宮と称す 既にして其の地の西濱に出て船に乗り漕き出んとする時塵の人々へ今出ると宣ひ別れを告け給ひけるに因て其の濱を今出と名つく 此社の別当寺を長松山安楽寺と號す 古文書あり左の如し
窪田安楽寺領井天神宮領等之事
右当寺者云神云佛威名甚以厳重也幸任先祖代々下知之旨無相違全寺務且可抽国家安泰之祈薦精誠者也伽状如件
永正元年甲子八月廿五日伊豫守通篤
(此庭文字不見)院住持慶正輝師
其外に永仁三文中三正和四鷹永十二天授二弘安五同七同八嘉慶元同三明慮五享徳二永正元等の文書あり 又相公所持の鵜の硯とて頭の三位の墓より掘出す 賓永七年二月十八日火災にて寳物残らす焼失Lたり木村勝政元菅公は延喜三年二月廿五日配所にて莞す安楽寺に葬る天暦元丁未年祠を右近馬場に建つ一條院正暦四年勅使を太宰府安楽寺に遣し正一位太政大臣を贈り給ふ此時より郡国神億を仰き其経過する所祠を建て水早疾疫以てこれを祈る 此沓脱天神も亦此時に於て経営する所なりと云 此宮より三町西垣生村の境に勅使橋の旧跡あり頭三位勅使として来り 菅公に謁し勅使を宣へ給ひしかは忽に悶絶して橋下に落ち逝去し給ふと云ひ伝ふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
![]() 松山藩士のみが通行可能であった。 |
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![]() ・松山七不思議 |
![]() 「 梅が香の 満ちわたり化里 天か下 」 亀石 ・俳句の里 城西コース10番 |
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![]() 「勅使橋 ここに展示されております石は勅使橋と言います。 現在地より西に約1粁の洗地川の上に架けられていました勅使橋の原石です。 1987年(昭和62年)河川改修工事により、原形のまま保存するため菅原道真公ゆかりの地履脱天満宮境内に移して永久保存することとしたものです。 [勅使橋の由来] 平安朝廷(醍醐天皇)は延喜元年(901)大政大臣正一位菅原道真公を右大臣から太宰府に左遷したが、その赴任が遅れていたので勅使として、蔵人頭頭中将紀久朝を派遣した。 住民はこの橋に勅使を迎え「菅公は港を今出ず」と報告した。(現在の今出はこの故をいう)以来この橋を勅使橋という。当時は狭い小川でありこの石橋で十分役目を果たしていた。 久保田町」(立て看板) |
高良玉垂社(こうらたまたりしゃ)【南吉田町】
「高良玉垂社、高岡村生石八幡大神末社、…本村の中央にあり、誉田別命、武内宿祢を祭る、又素鵞社三島社弟社地神社御光社三恵社和霊社を合す、勧請年暦詳かならず、例祭7月21日」(温泉郡地誌「南吉田村」)
金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)【北吉田町】
1998/4/30、2007/2/11
・祭神は大物主神(大国主神)。
・天正3年(1575)忽那山城主が創った。
・その後、加藤嘉明公が寄金、御殿を造営した。
・松山城主が松平家となってからも代々その尊崇は厚かった。
・正月28日は藩主直参、若殿代参の日と定められ、郡代官所を通じ5俵3斗9升........
「金刀比羅神社由緒沿革
祭神は大物主命。日本書紀によれば大国主命の父の名である。
天正三年(1575)の創祀で、次のような縁起がある。
正月上旬、烈風石を飛ばし大雨土をうがち、雷鳴雲を焼く嵐あり。日月影なく昼夜の別なし。日を経て嵐やみ八ツ又の古木に妙なる音響き雲中に神影輝く。忽那城主、乙女に命じ神楽を舞わせ神慮をうかがうに、神影「吾は讃州象頭山の金刀比羅神なり。今ここに分心せり」と答えぬ。忽那氏これを敬い祀る。
やがて加藤嘉明候が松山藩主になって御殿を造営。松平氏に替わってのちも代々の藩主の尊崇厚く、正月二十八日に代拝があったほか郡代官所から毎年、五俵三斗九升五合の献米が続いた。神社は参勤交代の安全や新造船の祈祷を行った。許された葵の紋瓦が今も屋根に残る。往時この地は白砂青松で藩の馬場などもあったと伝えられる。
現在の社殿は嘉永七年(1854)の再建。入母屋造りの本殿の華麗な組物、彫刻は当時の建築の典型例である。石段の寄付石は各地の商人、船主の名が刻まれている。」(境内入り口の貼り紙、2007/2)
「金刀比羅社、高岡村生(石)八幡大神末、…本村の東北垣生山の麓にあり、大物主命を祭る、又三島社素鵞社山口三穂船越社石槌社を合す、天正三年領主忽那某創建す、慶長六年加藤義明社殿を造営す、旧領主久松氏も世々之れを崇敬せり、例祭10月9日10日」(温泉郡地誌「北吉田村」)
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![]() ・木製の白馬を奉っている。 |
![]() ・大正七年八月吉日。 |
![]() ・「大谷山」の額がかかっている。 ・拝殿入り口には天井絵あり。 |
![]() ・拝殿に向かって左側にある。 ・三島神社、素鵞神社、山口八幡神社、三穂神社、船越神社、石槌神社の六社を祀る。 |
![]() ・慶応三年十二月吉祥日 |
![]() ・享和元年 |
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塞神社(さいじんじゃ)【南吉田町】
・俗名挿桃神社という。桃山幼稚園内の小高い山の上に鎮座する。
・さいのかみ、さいがみさん(幸神、境神)とも言われる。
・昭和35年桃山幼稚園開設にあたり、(桃山幼稚園敷地東にあった)鳥居は小山の上に移設された。鳥居の左側柱には「献国威宣場」、右側柱には「奉敬神崇祖」の文字が刻んである。
・たごりの神(風邪や咳を治す、子供の神)を祀る。願が叶うと赤飯を持参してお参りする風習がある。
・挿桃神社は古い遺跡である。昔、吉田には桃の木がたくさん有った。
・挿桃という名称は、伊予節、伊予万才が唄われ出した頃に生まれたようである。
・塞神社は元々、村の居住部落に外敵や邪霊悪鬼が入らないように、災いの侵入を防ぎ、悪霊退散の願いから祭られたと言う。時代と共に豊作祈願、夫婦円満、子宝の神に変わってきた。
・石柱には「大祭ハ陰暦三月吉日ニシテ、旧幕ノ時代ニ在リテ相撲ノ競技甚ダ盛ナリキ」と刻まれており、現在でも桃山幼稚園の児童らによる奉納相撲の行事が引き継いでなされている。
・祠には「挿桃大神守護」と札に書かれている。
★「お〜やまのぉ〜か〜みぃーさーまぁ〜みぃーていぃまぁすぅ〜...」と桃山幼稚園の園歌は、まさにこの神様を指していたんじゃね。
![]() ・砂丘の上には女の神の淡島神社がある。 ・淡島大明神は、住吉明神の妃であったが、帯下の病気のため淡島に流されたという。その後の熱心な信仰により無験があり、病気も治り元の美しい姿になった。 ・江戸中期(1730頃)淡島願人と呼ばれる宗教家達が、淡島明神を祀った小さな社を背負い、鈴を振り、淡島様の山来を述べ、全国に信仰を深めた。 ・3/3の雛祭りの際、女性の衣類(下着)や毛髪などを持って参拝し、願い事を唱え、川や海に流すか、けがれのみそぎを行うと、絶対に帯下の病気にかからないという。また、男根が弱ったとき、木製か石で型どったものを造り奉納すると、授けられるという。 |
![]() ・祭神:大己貴命、少彦名命、息長足媛命 ・神徳:婦人病、性病、子授け、安産 ・全国淡島神社の総本山:加太(かた)神社[和歌山市加太] ★加太神社は紀伊国名草(なくさ)郡の式内社で、元々は紀伊半島と淡路島との間の友ケ島の粟島に鎮座していた。 |
![]() ・昭和12年6月 松山 近藤元晋撰。 ・碑文には「吉田挿桃之名載在歌謡而里人少知其由者質之古老往昔伊豫温泉郡生石村南吉田高須賀之地沙丘中窪然而低音可数十畝桃樹贈叢生恭久成林年久風雨侵食沙漬没樹根宛如挿沙中者里人呼称挿桃花時殊極奇観因謂挿桃之盛距今當百年今就遺跡植桃樹建碑標之可以傳百年後 方今分科罩及電機一動則千里交馭国風俚歌彼此傳唱殆普於天下噫吉田之名勝天下無不知如之何而使里人能志之也」と記されている。 ・昔、この地の広大な砂丘の中に桃の木が広く生い茂っていた。これが年々わずかづつ砂丘に侵され埋没していった。この様を村人達は「まるで砂の中に桃の木を挿したようだ」といい誉め讃えた。花の盛時には、ことに奇観を極めた。 ・挿桃(さしもも)という名称は、伊予節、伊予万才が唄われはじめた頃に生まれたようである。 |
生石八幡神社(しょうせきはちまんじんじゃ)【高岡町】
・電話:089-972-1374
・主祭神:足仲彦尊、息長足姫尊、誉田別尊、市杵島姫命、湍津姫命
・神功皇后が滞留した地といわれる。
・「埴生山一帯を昔は高岡と呼んでおり、その岡に鎮座するので、『伊佐爾波の岡の宮』と称していた」とする話もある。
「生石八幡神社
高岡村に在り社伝に云貞観中奈良大安寺佳持行教上人豊前宇佐より帰途当地に留錫し高岡山上に光彩あるを見て斎場を設け一七日祭祀を脩し八幡宮の神託なりとて里民にいへらく神功皇后征韓の日我胎内に在り将に降誕せんと母の云此地は異域なり帰国の後産すへしとて産霊神に祈て石を拾ひ箱入して産戸を塞く征韓の事畢り帰京の時豊前宇佐にて降誕す時に箱入の石我より先きに産戸を出てたれは則我兄なり此石を祭れは保祐かきりなしといひけれは里民是を信し神社を創栄し生石八幡宮と称す河野家代々崇敬し村上義清今岡通成連判の寄進状又河野通宣の添状あり針田村の内井串といふ在所は往古此社の神領なる故に生
石領といひしを後世非串と書誤たりといふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.52)
「神社の由緒沿革には、神功皇后御駐鐸の遺跡の岡に鎮座し、伊佐爾波の岡の宮と称えたという。貞観元年奈良大安寺の行教和尚が八幡宮を勧請し、岡の宮と合わせて生石八幡宮と称えた。と愛媛神社誌にある。
この神社には他にみられない特殊神事、並びに行事がある。それについて神社の説明書は、次のように述べている。
行期名
事日称
一、由来伝説
年頭無鼓の行事
毎年一月一日より一月六日迄
右期間中は総て祭事に太鼓を用いず。又此期間中日没より日の出迄は一般に参拝せざる慣例なり、之に附随して毎年十二月三十]日太鼓打留の神事を行い一月七日には打初めの神事を執行す。
本行事の由来は之を詳にせざるも延長年間(十世紀初頭)の頃より行われ来れるものなりと伝う。尚此の行事に関しては種々なる伝説を有せり。
たっぱ
神社には「大魔が出る」伝説がある。「伊予における人身御供と人柱伝説」と題して富永老漁氏が伊予史談四五号に、最近では、「娘の身代りになった犬」と題して「松山のむかし話」にのっている。その怪物と戦ったという犬の像が境内にある。」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.59)
◆境内社
@住吉神社
A
B
C
D
「生石八幡大神、村社、…思姫命、足仲彦命、湍津姫命、気長足姫命、誉田別命を祭る、又大山積命、猿田彦命、天御中主命、菅公、思姫命を合祀す、境内末社加茂神社あり、勧請年暦不詳、例祭7月16日」(温泉郡地誌「高岡村」)
鉾神社【高岡町】
三島神社【北吉田町】
「三島神社
北吉田村に在り 旧跡俗談に云古は大社にて在りしと云 今に古きかとまろこまいぬ鉾昔張の大鼓等あり 以前は社殿西向にて正面を馬上にて通行し又は海上を通船する者に崇りありとて東向に建替たりと云ふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
弓敷天満宮(ゆみしきてんまんじんじゃ)【高岡町】
2003/4/12
・菅原道真が筑紫左遷の折、弓を置いて休まれたことから「弓敷天満宮」と呼ばれる。
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若宮神社【高岡町】
2003/4/12
・昭和37年建立。
・垣生山の麓、高岡側一帯の沼地を埋め立てる際の人身御供の話に纏わる神社である。
※桜が綺麗。
![]() 昔ここは大きな沼地となっており底無し沼であった。この沼は、埴生山城の外堀の役目を果たしていた。 江戸中期に庄屋が私有田を増やすために埋立工事を思いついた。しかし思うように工事が進まず人柱を立てることを考えた。 庄屋は自分の家に奉公する娘を騙し、「沼で仕事をするから弁当を持ってきてくれ」といい、弁当を持ってきた娘を沼に突き落とした。その後立派な田となり豊作が続いたが、子宝に恵まれず病死に至った。これを村人は祟りと恐れ、若宮神社を建立した。 |
頭三位中将紀久朝祠【久保田町】
「頭三位中将紀久朝祠
久保田村にあり 旧跡俗談に云 此祠は百姓政之助が屋敷内に在り 古蹟志に云 勅使縄手の北数歩に中将宮あり 紀久朝を葬る処なり」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
古塚【北吉田町】
「古塚
北吉田村にあり四問四方二重の石垣廻り濠幅六尺あり垣生前守先祖の墓なりと云ふ」(富久とその地域の歩み−田園地帯から副都心へ−、富久歴史保存会、平成九年三月発行、pp.53)
馬頭観音【高岡町】
・鯛崎交差点の忠魂碑の下にある顔におしろいを塗った小さな地蔵。
・馬頭観音は、俗に馬の病気を治してくれるなど馬の保護神と云われている。
・江戸時代、この辺りは松山藩主のお鷹場で、殿様は時々鴨狩に訪れていた。
・この辺にかなり大きな池があり、鴨がたくさん泳がしてあったらしい。
・ある日殿様の一行が鴨狩りに出かけ、この鯛崎の岩角にさしかかったところ一人の狼藉者が殿様に飛びかかり切りつけた。殿様は馬から転落したが、馬に刃があたり、命をとりとめた。
・馬は命を落としてしまい、殿様は自分の命を救ってくれた馬の霊を慰めるために馬頭観音の地蔵をつくったということである。
・この観音は、長らく土中に埋もれ忘れられていたが、戦後しばらくして地元の人が見つけ、現在のような形に立て直した。
・今では町内会で裏盆のお祭りをするなど大切にされている。
埴生山【高岡町】
・埴生山一帯を昔は高岡と呼んでいた。その岡に立つこの神社をを伊佐爾波の岡の宮と呼ぶときもあった。
◎埴生山山頂
・海抜118m
・東経132゜43' 03", 北緯33゜49' 59"
「垣生山、…」(温泉郡地誌「北吉田村」)
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弁天山【】
忽那山【北吉田町】
「忽那山、…」(温泉郡地誌「北吉田村」)
天神山【】
「天神山、…」(温泉郡地誌「高岡村」)
立淵川【】
「立淵川、…針田村より来り…」(温泉郡地誌「高岡村」)
「南溝 一名立淵川 百間樋溝派流富久村より来り…」(温泉郡地誌「久保田村」)
北ノ川【】
「北ノ川、…斎院樋川の派流…」(温泉郡地誌「高岡村」)
中ノ川【】
「中ノ川、…斎院樋川の派流…」(温泉郡地誌「高岡村」)
南ノ川【】
「南ノ川 一名佐古川 、…南斎院村より来り中ノ川派流と合して…」(温泉郡地誌「高岡村」)
佐古川【】
「佐古川、…佐古樋川の派流、…」(温泉郡地誌「南吉田村」)
「佐古川、…佐古川派流南斎院村より…」(温泉郡地誌「冨久村」)
洗地川【】
「千地川、…立淵川の派流、久米郡和泉村より分れ、…」(温泉郡地誌「南吉田村」)
勅使橋
金刀比羅神社のホルトノキ【北吉田町】
・松山市保存樹木協定番号第7号 (昭和52年12月指定)
・樹高約 15m、幹廻り約 2.1m、樹齢 200年(推定)
・参道入り口に育ち、神社のシンボルとして親しまれている。
・ホルトノキは、別名モガシともいわれ、ホルトノキ科の常緑高木である。
弓敷天満宮のクスノキ【高岡町】
・松山市保存樹木協定番号第8号(昭和52年12月20日指定)
・推定樹齢 400年
石鎚大権現神社跡のクスノキ【富久町】
宮前川放水トンネル界隈
【北吉田町】
1995/05/02
![]() ・昭和12年8月建立 ・昔はこの地に樹齢300年の松があったが、枯死してしまった。 ・中西大人は本名を盛信といい、慶應元年伊豫國生石村に生まれた。 ・幼き頃より古典にいそしみ、和歌を好んだ。 ・愛媛県神職会会長・理事に就任し、30年余りに亘って重責を果たした。この間、大山祗神社の宮司も勤めた。 ・晩年には済美高校で習字・漢文を講義した。 |
![]() ・昭和54年6月末の豪雨は宮前側流域に未曾有の大災害をもたらした。 ・これを契機に総延長 2390mの放水路を、激甚災害対策特別事業として設けた。 |
天狗の面【高岡町】
・旧吉田街道(旧空港通り、市道新玉403号線)沿いの清水正茂氏宅の長屋門に大きな天狗の面がかけられている。
・昔、石鎚山から高岡の垣生山(辯天山)へ、神の使いとして天狗が度々飛んできていた。ある晩、天狗が神通力をなくし、長者の庭先におちてきた。足をくじき、「このままでは石鎚山に帰れない」とおまじないを唱えると、天狗は旅人の姿になった。そして長者に怪我が治るまで滞在を頼むと、快く客間に案内され手厚い看病で間もなく良くなった。
・天狗は、長者が質素な生活をしていても他人に親切なのに大変感動し、「これからはこの家の守り神になる」と言って飛び去った。
・その後何年か経ってこの地方に疫病が大流行した。村人たちは村境に縄を張り疫病の退散祈願をした。そのときに長者は天狗面を作って縄につるしたところ、高岡村だけは一人も病人が出なかった。
・このためこの天狗面を門に掲げるようになったという。
占い池の昼の星
・松山七不思議
・履脱天満宮の境内の奥にある。
・菅原道真が池に映る星影を見て、自らの運勢を占ったと言われている池。
・この池の周りには木が茂り、昼間でも暗く、光線の具合で昼間でも星が見えたらしい。
高志大了生誕地【高岡町】
鯛崎【南吉田町】
1995/5/2
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![]() ・陸軍大将鈴木荘六の書。 ・昭和8年、日清・日露戦争戦没者の慰霊のため在郷軍人会生石村分会の人達の手により建てられた。 |