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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (和気地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
ツツジ |
街の木:
松 |
大字 | 字 |
勝岡町(かつおかちょう) | |
和気町(わけまち)一丁目〜二丁目 | |
太山寺町(たいさんじちょう) | |
馬木町(うまきちょう) |
太山寺算額(1面)【太山寺町
太山寺】
・市指定文化財[有形民俗文化財](平成16年11月11日指定)
大渕遺跡(おおぶちいせき)【太山寺町】
・1987年7月〜11月にかけて、松山市立北中学校開校に先立ち発掘調査された。
・縄文時代晩期の遺物が大量に出土し、この時期に松山平野に初期稲作が導入されたことを示す材料になっている。
円明寺(えんみょうじ)【和気町1丁目182】
2005/1/3
・四国八十八ヶ所霊場第53番札所
・電話番号:089-978-1129
・山号:須賀山(元々は海岸山だったが、元和元年(1615)、須賀専斎重久が塔ノ口から移転・再建時に山号を改めた。)
・院号:正智院
・宗派:真言宗智山派
・本尊:阿弥陀如来木像、脇侍立像二体(県指定文化財)
・開基:行基菩薩
・天平勝宝元年(749)、聖武天皇勅願により行基が勝岡町の辺り(和気西山の海岸)に開創した。
・文永年間、国師凝然大徳が掛錫して大宗綱要を著述したところである。
・鎌倉時代(に兵火に遭って堂宇焼けてしまったが、豪族須賀重久が江戸時代初期(1615)に現在地に復興した。
・寛永10年(1633)須賀又右衛門重久が再興、寛永13年(1636)に仁和寺の直末に加えられ、須賀山正智院円明寺となった。
・明治8年(1875)、円明寺の客殿を借りて鶴聞(かくぶん)学校が開設された。
[?]須賀重久が円明寺を再建したのは、1615年と1633年のどちらが正解か?円明寺前にある松山市が立てた看板によれば、「元和年間以前」と非常に含みをもった表現になっている。円明寺の本堂前の立て看板には1633年とある。
![]() ・県指定有形文化財[建造物](昭和31年11月3日指定) ・本尊阿弥陀如来を安置する厨子は、桁行1.07m、梁間83.3cm、屋根は板葺、唐様出組、柱は円柱礎盤付となっており、正面は桟唐戸両開き極彩色である。屋根に雲華の飾りがある宮殿造り。 ・製作年代は不明確であるが、八脚門とともに、室町時代の遺構を多分に持つ。 |
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![]() ・県指定有形文化財[建造物](昭和31年11月3日指定) ・三間一戸建て、屋根入母屋造り本瓦葺の単層の建造物で、表正面の柱間は4.9m、側面3.0mで創建当時のものとは若干の変容が推定される。 |
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![]() ・県指定有形文化財[彫刻] ・行基菩薩作で、鎌倉時代の建長2年(1281)7月のものといわれる。 |
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![]() ・市指定文化財 ・米国シカゴ大学教授のスタール博士が発見したことで有名。 ・四国で一番古い銅板の納め札であり、慶安3年(1650)江戸時代初期に作製された。 |
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![]() ・江戸時代初期、左甚五郎が彫ったものである。 |
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![]() ![]() ・本堂前。仏足石の隣。 ![]() ・本堂の濡れ縁に置かれている。全身真っ赤。 |
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![]() ![]() ・平成14年10月建立。
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![]() ・「松山新四国霊場第11番 須賀山 圓明寺」 ・平成11年9月 |
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![]() ・観音堂に安置してある十一面観音像は、慶長5年に河野家再興を計った遺臣達が、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれる。 |
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![]() 「鶴飛久(ひく)や 丹頂雲を やぶりつつ」 |
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![]() 「鈴の音に 笠共々に 霞みけり」 |
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![]() 「いかにして 剪りたる 泰山木能花」 井寒 |
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![]() ・八脚門をくぐると西の塀際に、マリア像を刻んだキリシタン灯篭がひっそりと立っている。 ・この灯篭は寛永年間(江戸時代初期)に造られたといわれており、御影石で高さ約50cmで十字架を型どっている。 ・正面に彫られたマリア像は観音像に似せられている。また十字架を型どった灯篭も十字架の左右を極端に短くし、火袋を乗せるとまったく判らないように造られている。これは弾圧を受けた隠れキリシタンたちが、遍路の姿を借りて、密かに拝むために工夫したものである。 ・円明寺が格式の高い寺であり、取締の目が届かないことからこの寺に造られたのではないかと推測される。 |
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![]() ・大正10年3月 ・八脚門の右側にある。 |
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![]() ・円明寺西側に建っている。 |
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![]() ・円明寺西の御堂前に建っている。 |
円明寺奥之院
2005/1/3
・御詠歌
「われ住めば四海静謐(せいひつ)波静か
種々の願いをかなへ得させむ」
・松山新四国霊場第13番 海岸山 円明寺
・天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)、聖武天皇の勅願により、行基が開創した。開創地は、現在の奥之院より少し登ったところにある。この山を寺山と呼ぶ。本殿跡には、地蔵が祀られている。
・文永5年(1258)、戦火により焼失。元和元年(1615)、須賀専斎重久(すがせんさいしげひさ)が現在の円明寺に再建した。
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善福寺
2005/1/3
・宗派:真言宗智山派
・山号:堂聖山
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![]() ・平成13年1月 |
![]() ・松山新四国霊場16番札所 |
![]() ・平成10年11月 |
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![]() ・大正3年1月 ・誰を頌徳したものかは詳らかではない。碑文をざっと見たところでは、歴代住職関係と思われる。 |
![]() ・平成14年3月 |
![]() ・「處々遺跡不闕影向」 |
太山寺(たいさんじ)【太山寺町1730
】
2004/2/22
・四国八十八ヶ所霊場第52番札所
・伊予十三仏霊場 第3番札所:文殊菩薩
・電話番号:089-978-0329
・山号:龍雲山
・院号:護持院
・宗派:新義真言宗智山派
・本尊:十一面観世音菩薩 (行基作)
・開基:真野長者
・交通:伊予鉄バス太山寺前下車すぐ
・天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基といわれ、帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められたという伝えがあり、経ヶ森と呼ばれている。
・豊後の真野長者が山頂の光に導かれて開基したという伝説もある。
・経ヶ森山頂(標高171.8m)には観音像がある。山頂からの伊予灘の眺めは格別である。
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![]() ・釈迦の御足を象ったもの。
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![]() ・国指定有形文化財[国宝](昭和31年6月28日指定) ・代表的鎌倉建築で落ちついた風格を持っている。 ・嘉元3年(1305)に建立された。 ・桁行七間・梁九間、柱・梁などの木組みは大きく、入母屋作本瓦葺の豪放雄大な県下最大の建物である。 ・力強い正面の八本の柱、美しい屋根の勾配、当時の名工の作と言われる ・かえる股の優美な曲線など、見るべきところが多い。 ・和様を基本としながら、天竺・唐様を取り入れた折衷様の優れた表現力と、辺りの閑静な雰囲気が古へと誘う。
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![]() ・重要文化財 ・仁王門 |
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![]() ・楼門 |
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![]() ・国指定重要文化財[建造物](明治37年8月29日指定) |
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![]() ・国指定重要文化財[彫刻] |
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![]() (本堂安置、1躯) ・国指定重要文化財[彫刻] ・本堂須弥壇(しゅみだん)に安置されている。聖武天皇以降歴代天皇勅納といわれる。 |
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![]() ・「入試合格祈願」の白い幟が多数立ち並んでいる。 |
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![]() ・県指定文化財 ・永徳3年(1383)作。 |
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![]() ・県指定有形文化財[工芸品] |
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![]() ・県指定有形文化財[絵画] |
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![]() 『蒟蒻に つつじの名あれ 太山寺』 |
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![]() 『八九間 空へ雨ふる 柳かな』 |
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![]() 『十月の 中の二日や 柳つか』 |
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![]() 『春雨や 王朝の詩タ 今昔』 |
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![]() 『月の虫 月の照らざる 側も虫』 |
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![]() 『法燈未絶太山寺.....』 「法燈いまだ絶えず太山寺....」 |
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![]() 『道ゆづる 人を迎えて 秋遍路』 |
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![]() ・ダイサンチク 25本が一束になってねじれ合っている。 ・高さ 8m。 ●弘法大師の霊験談 「昔、筑紫より男女二人がこの地にやってきた。この宿に泊まった折、一人の遍路僧が泊まり合わせた。二人はあわてて庭の角に置いた杖を取りに行ったが、不思議にも途中から持ってきた青竹の杖はねじれあった。二人は面目無いことではあるが、主人の目を盗み不義いたづら者であることを話した。「それではこれからは分かれて行け」と言われ、二人は別々に巡拝することを誓った。僧はこの杖を後世の戒めのため庭に挿して、「大師のお許しがあれば根つき枝葉が生じて栄えん」と言われた。それ故、四国遍路は青竹の金剛杖は用いない。」 「」(ふるさと和気) |
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![]() ・三の門の階段上り口右側にある地蔵。 「」(ふるさと和気) 「」(ふるさとのおはなし、松山市連合婦人会) |
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![]() ・昭和55年完成。 |
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![]() ・どのくらい遠くまで運べるかを競った大・中・小の石で120kgの中石。 |
恵比須神社
2005/1/3
・祭神:事代主命
・祭日:10月9日
・昔、恵比須像が和気の海岸に漂着し、それを祀ったのが始まりという。
![]() ・昭和18年1月 |
![]() ・昭和18年1月 |
![]() ・大正8年5月 |
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勝岡八幡神社(かつおかはちまんじんじゃ)【勝岡町2592】
・電話番号:089-978-1123
・愛媛県免許センター近く
・交通:伊予鉄バス勝岡神社前下車徒歩5分
・ご利益:学問・家内安全
・5のつく日には学業成就祈願祭を行う。
・孝霊天皇の孫にあたる小千命が国造として在任中、白人城(うらどじょう)において賊を平定した。
・この勝ち戦にあやかり、勝岡と呼ぶようになった。
・命は宇佐八幡とともに勝岡神社に祭られたが、町名が神社名と同じでは恐れ多いということで、この地方を「片岡(かとか)」、坂浪と呼んでいたが、昭和15年に松山市に合併し、17年からは町名変更によって再び勝岡町に戻った。
![]() ・市指定無形民俗文化財 ・10月7日 秋祭にて行われる行事。 ・昔、和気浜沖に停泊する朝廷の御用船に産物を納めるため、神輿で遠浅の浜に渡った古事にならって始めたと言われる。 ・日の出の頃に宮出しが行われ、ジャンジャンという鈴の音・「セイヤッ、セイヤッ」のかけ声と共に、褌姿の男性達が神輿を担ぎ、約100mの参道を駆け抜ける姿は勇壮である。 ・宮入りする前に、和霊橋(安城寺町)の上で褌(ふんどし)姿で神輿をかき、桶で水をかける「川狩り」もある。 →らいふろんぐ、No.56、平成17年11月10日、(財)松山市生涯学習振興財団 |
![]() ![]() 「」(ふるさと和気) |
![]() 『俳諧に 天地自在に 桜哉』 |
坂浪金毘羅神社
2005/1/3
「」(ふるさと和気)
![]() ・「坂浪金毘羅神社に大きなホルトノキが聳えている」というので訪れてみたものの、それほど大きいとは思えない。樹齢約300年ということだが、どう見ても50〜60年ほどのものである。昔の写真と照らし合わせてみても、格段に小さい。おそらく、山茶花が植わっている所の傍にある切り株が、ホルトノキの巨木の名残なのだろう。「現在は枯死している」と判断して間違いなさそうだ。今度は現地で話を聞いてみることにしよう。 ・昭和53年4月27日に松山市保存樹木に指定されている。 |
![]() ・享和元年(1801)建造。 |
佐古岡神社(さこおかじんじゃ)【馬木町141】
2005/1/3
・景観樹林保護地区 (指定年月日:昭和54年3月30日、指定番号:第28号、位置又は区域:松山市馬木町(1,238u))
・祭神:大己貴命(大国主命)、少彦名命、猿田彦神、河野通治、河野通遠(通治の子)
・元弘3年5月7日、足利軍との戦いにおいて、敵方武将・大高重成(おおたかしげなり)との一騎討ちに敗れて討死した河野七郎通運(みちかず)(通遠)を祀ったので「七郎明神」とも呼ばれる。
![]() ・柳泉学校は明治15年(1882)に開設された。 |
![]() ・柳泉(りゅうせん)学校跡(現在は野間氏邸)の前にある。 ・常夜燈は、文化十二年乙亥年に造られたもの。(文化12年は1815年) |
![]() ・「村社 佐古岡神社」 |
![]() ・右:威稜扶宇宙 ・左:恩重福生霊 ・大正9年(1920)9月建立。(「大正九年庚申歳九月建之」) ・田所成恭書。田所成恭は陸軍大佐か。 |
![]() ・明治30年4月 |
![]() ・建造年月は刻文が摩滅していて判読できず。 |
![]() ・日清戦争(明治27年(1894)7月〜明治28年(1895)4月)、日露戦争(明治37年(1904)2月〜明治38年(1905)9月)、日独戦争(大正3年(1914)8月23日〜大正7年(1918)11月11日) の戦勝を記念したもの。 ・大正8年(1919)12月、陸軍中将正三位仙波太郎謹書とある。 ・陸軍大学校第1期卒業。(明治18年) ・陸軍中将。愛媛県生。幸雄の長男。陸軍大学卒。日露戦争では陸軍少将として出征し、のち中将となる。当時、桂太郎・宇都宮太郎とともに陸軍の三太郎と称せられた。衆議院議員。昭和4年(1929)歿、75才。 |
![]() ・社殿は明治36年(1903)に建造された。 |
![]() ・拝殿に向かって左側 |
![]() ・拝殿に向かって左側 |
![]() ・拝殿に向かって左側 |
![]() ・末社群の一番右端に瓦製の御室も祀ってある。 |
![]() ・拝殿に向かって右側 |
![]() ・慶應三(丁)卯年十月、平田村中(慶應3年は1867年) |
素鵞神社【太山寺町】
2005/1/3
「」(ふるさと和気)
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中野山若宮神社【太山寺町
小山】
2005/1/3
・この小山は中野山と呼ばれ、小千命が白人宮(うらんどのみや)という社を築いたところである。
・例祭は8月7日。
・現在は若宮神社と称する。
「」(ふるさと和気)
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丹生神社(にゅうじんじゃ)
2005/1/3
・祭神:水波能売神(みずはのめのかみ)
・祭日:10月9日
![]() ・大正9年8月 |
![]() ・明治29年8月 |
![]() ・大正4年11月 |
首切れ地蔵【太山寺町】
「むかしの道の太山寺よりのところに、首の切れたお地蔵さまが五体あります。また自然石でできたへんろ墓も二体あり、大きいものに『天保十年五月■■■■遠至信上 遠江国城東郡横須賀六右衛門』と刻まれています。行きだおれになったおへんろさんを、太山寺の人たちが手あつくとむらったしるしでしょう。不思議なことに、ここにお地蔵さまをいくつ置いても、いつのまにか首が切れるそうです。」(ふるさと和気)
七人のへんろの墓
2005/1/3
・昔、嵐に遭って漂着した七人の旅人を、村人は海賊と誤って皆殺しにしてしまった。それ以来、雨が降る度に鈴の音が聞こえたり、足腰を病む人が増えたりした。これは七人の旅人のタタリに違いないと考え、地蔵を祀って供養した。
ミニ西国三十三霊場【高浜町〜太山寺町】
( 1).青岸渡寺 | ( 2).紀三井寺 | ( 3).粉河寺 | ( 4).槙尾寺 | ( 5).葛井寺 | ( 6).壺阪寺 |
( 7).岡寺 | ( 8).長谷寺 | ( 9).南円堂 | (10).三室戸寺 | (11).上醍醐寺 | (12).岩間寺 |
(13).石山寺 | (14).三井寺 | (15).観音寺 | (16).清水寺 | (17).六波羅密寺 | (18).六角堂 |
(19).革堂 | (20).善峰寺 | (21).穴太寺 | (22).総持寺 | (23).勝尾寺 | (24).中山寺 |
(25).清水寺 | (26).一乗寺 | (27).円教寺 | (28).成相寺 | (29).松尾寺 | (30). |
(31). | (32).観音正寺 | (33). |
経ヶ森
護摩ヶ森
岩ヶ森
太山寺川【太山寺町】
・太山寺の一の門の脇を流れる。
「」(ふるさと和気)
経田池【太山寺町】
・素鵞神社の東側。
「」(ふるさと和気)
地蔵坂【太山寺町】
「」(ふるさと和気)
正岡子規句碑【太山寺町
太山寺】
『蒟蒻に つつじの名あれ 太山寺』
・俳句の里城北コース11番
・太山寺参道左側
・「寒山落木」明治25年春、植物の部に「伊豫太山寺」と前書きしてこの句がある。かつて蒟蒻は太山寺の名物であって、それを太山寺蒟蒻といって松山辺りの人々は特に賞玩していた。
・そのまた太山寺には躑躅の花が見事であったので、子規は戯れてこう詠んだのであろう。(松山名所12カ月の句)
・昭和48年に建立。
松尾芭蕉句碑【太山寺町
太山寺】
『八九間 空へ雨ふる 柳かな』
・俳句の里城北コース12番
蕉門老人竹翁句碑【太山寺町
太山寺】
『十月の 中の二日や 柳つか』
松根東洋城句碑【太山寺町
太山寺】
『春雨や 王朝の詩タ 今昔』
・俳句の里城北コース10番→12番
松根東洋城句碑【和気町
円明寺】
『鶴飛久(ひく)や 丹頂雲を やぶりつつ』
・俳句の里城北コース 13番
・句は大正9年頃の作。昭和初期、母校の松山中学より明教館に展示するため依頼されて作った句。
・東洋城は松山中学で夏目漱石に英語と俳句を学んだ。
・明治11年(1878)に東京で生まれ、昭和35年(1960)に東京に没した。
・父は宇和島藩の城代家老であった。
徳永山冬子句碑【太山寺町
太山寺】
『月の虫 月の照らざる 側も虫』
・平成元年4月「渋柿」誌900号を記念し、松山渋柿会が建立した。
小原方外詩碑【太山寺町
太山寺】
『法燈未絶太山寺.....』
「法燈いまだ絶えず太山寺....」
・太山寺仁王門から約100m入った参道沿いに建てられている。
・本体の隣には、漢詩を読み下した副碑が設けられている。
・1995年4月建立。
・小原方外が昭和30年頃に詠んだ漢詩。
村上杏史句碑【太山寺町
太山寺】
『道ゆづる 人を迎えて 秋遍路』
句碑【和気町
円明寺】
『鈴の音に 笠共々に 霞みけり』
井寒句碑【和気町
円明寺】
『いかにして 剪りたる 泰山木能花』
・昭和46年10月27日建立。
句碑【和気町
円明寺】
『島遍路 干潟歩きて 近道す』
・平成10年1月、愛媛運河俳句会
三允句碑【和気町
円明寺】
『麗かや めくらの眼にも 弥陀の像』
・昭和46年10月27日建立。
松本北嶺句碑【勝岡町
勝岡八幡神社】
『俳諧に 天地自在に 桜哉』
・松本北嶺:明治40年和気町生まれの俳人。
→らいふろんぐ、No.56、平成17年11月10日、(財)松山市生涯学習振興財団
佐々木義潔翁・芳野市蔵翁頌徳碑【和気町 JR和気駅】
真野長者(一夜建立伝説)【太山寺町】
豊後の国の真野長者は広大な土地と沢山の金を持ち何不自由なく暮らしていたが、ある年、京の都へ行く途中に、一人娘の般若姫が周防の海で嵐にあい船が沈没して死んでしまった。
周防にて娘の弔いも終わり、都へ再出発し、船が備後の鞆の津(とものつ)に差し掛かったところで嵐に見舞われた。帆柱は折れ、舵も流され荒波に吸い込まれそうになったが、長者は一心不乱に観音に拝み続けた。すると不思議なことに、遥か彼方の瀧雲山(りゅううんさん=太山寺山)の頂上辺りが五色の美しい雲となって光輝き、船を導き、長者は高浜に漂着した。それから豊後に帰った長者は、命を助けてもらった御礼にと寺の建立を思い立った。船いっぱいに木材を積み出発し、高浜に着き、明日は寺の建立場所を探そうとその晩ぐっすりと眠った。目覚めてみると船に積んだ木材が一本も無くなっており、あちこちを探し回った後、瀧雲山の頂上まで行って見ると驚く事に大きな寺が出来上がっており、長者が持ってきた木材が使われていた。
★京に上る長者が娘を無くし、途中に寺、神社を創るという話は
・谷上山(伊予市)
などにも見られる。
JR和気駅
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和気浜漁港
・昔は、ここから宮島(広島県)行きの船が出ていた。(→See.円明寺前へんろ道道標)
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片廻公民館前
2005/1/3
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白形邸【馬木町】
2005/1/3(外観鑑賞のみ)
田所邸【馬木町】
2005/1/3(外観鑑賞のみ)
城北食品工業所【馬木町】
2005/1/3(外観鑑賞のみ)