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![]() ![]() こたろう博物学研究所 市町村別情報庫 松山市 (余土地区) |
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市の花 | 市の木 | 市の花木 | 市の鳥 |
街の花:
タマスダレ |
街の木:
モクセイ |
大字 | 字 |
余戸中(ようごなか)一丁目〜六丁目 | |
余戸南(ようごみなみ)一丁目〜六丁目 | |
余戸東(ようごひがし)一丁目〜五丁目 | |
余戸西(ようごにし)一丁目〜六丁目 | |
保免上(ほうめんかみ)一丁目〜二丁目 | |
保免中(ほうめんなか)一丁目〜三丁目 | |
保免西(ほうめんにし)一丁目〜四丁目 | |
市坪北(いちつぼきた)一丁目〜二丁目 | |
市坪南(いちつぼみなみ)一丁目〜三丁目 | |
市坪西町(いちつぼにしまち) |
手引の松【余戸東5丁目】
・三島大明神社にあった。
・市指定天然記念物昭和55年1月17日指定解除
日招八幡神社(ひまねきはちまんじんじゃ)【保免西1丁目502-1(保免中1-1-18?)】
1994/05/21
・景観樹林保護地区 指定番号 5号 (昭和52年12月20日指定)
・祭神:市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]、品陀和気命[ほむだわけのみこと=応神天皇]、息長帯姫命[おきながたらしひめのみこと=神功皇后]、田心姫命[たごりひめのみこと]、端津姫命(宗像大神)[たきつひめのみこと]
・電話番号:089-972-1905
・交通:伊予鉄バス保免下車すぐ
・ご利益:家内安全、安産
・社伝によると、崇峻天皇2年(589)、国司小千宿祢益躬(越智益躬)が筑紫の国の胸肩(宗像)から勧請し、門島比■大神(かどしまひめおおかみ)または門乃神社と称した。(■は"口羊"
)
・平城天皇大同の御代(806-809)に、大納言雄友郷(かつともきょう)が疱瘡を患って当社に祈願したところ、櫛髪刺(簪)を奉れば免れるとの霊夢に従ったので、直ちに平癒した。以来、この地に邸を構え、子孫を当社に奉仕させ、櫛部の連を賜ったという。
・文徳天皇仁寿元年(851)神位を授受。
・陽成天皇元慶2年(876)5月神勅により、巡遣使 玉井大連正信甘田信濃守紀泰朝八幡宮を合祭し、門島座石清水八幡宮と称し、封土、神田を寄進した。
・鎌倉時代、後鳥羽天皇元暦元年(1184)に佐々木三郎(四郎?)盛綱が守護として入国し、砥部荏原の2城主との戦いの際に、日没に勝利祈願したところ本社の神助を蒙ったので、日招八幡宮と改称した。
・明治5年8月郷社に定格。
・門を有する神社というのは結構珍しい。(と1994年執筆時には思っていたのだが、実際探訪で方々へ足を運ぶと結構門を有する神社は実在することがわかった。) 門の両脇には寄木造りの左大臣、右大臣がある。
・参道の松並木は、国道56線により寸断されている。
★「保免=ほうめん」という名前に関する考察
この名前は、「疱瘡を免れる」から来たのだろう。
![]() ・佐々木高綱は夜戦が苦手であり、八幡宮に祈願を込めて扇で日を招くと、西に傾きかけた日が昇って高綱は大勝したという。 |
![]() ・松山城築城(慶長7年 (1602))の際の献上石。 ・大正2年8月の耕地整理の際に発見され、境内に移された。 ・松山城築城のとき、松前の港には大名から送られた紋入りの石垣用の石が山のようにあった。この石を毎日たくさんの松前の魚売女(おたた)が頭に乗せて松山まで運んでいた。その中の一人「お豊」は、長い勤めに疲労困憊していたが、その日も勤めに出た。1つ丸に二の字の入った石は大きく、誰も顔を見合わせて運ぼうとしなかったが、お豊は率先して「私がやりましょう」と言った。皆は止めたが、「このくらいのことができなくては御主人様に申し訳ない」と言って運び始めた。出合を過ぎる辺りからだんだんと遅れ始め、よろめいていた足も日招神社のところまで来て倒れてしまった。それで、けなげなお豊を哀れんで、その石を「お豊石」といい、この神社に残すことにした。(説明書き:「松山のむかしばなし」より) |
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三島神社(みしまじんじゃ)【余戸東5丁目11】
1995/5/3
・景観樹林保護地区 指定番号19号
・祭神:大山積、雷神
・春祭:5月3日 巫女の舞の奉納、餅まき
・電話番号:089-972-1905
★サイクリングの途中で立ち寄ると、丁度春祭の最中で、巫女の舞の奉納を行っていた。(1995/5/3)
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![]() 「行く秋や 手を引きあいし 松二木」 |
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石手川
重信川
傍示川
クスノキ【余戸東5丁目11 三島神社】
・松山市保存樹木 協定番号第9号
・樹齢600年
手引の松(てびきのまつ)【余戸東5丁目11 三島神社】
・松山市指定天然記念物(昭和37年11月5日指定)
・目通り 2.5mほどの 2本の松が、地上 5〜6mのところで一方の松の枝が
他方の松の幹にH状に癒着しており、内部組織も連絡・一体化していると思われる。
・手を引き合った姿に見えることから、いつしか手引きの松と呼ばれるように
なり、余戸の象徴として広く人々に親しまれるようになった。しかし、 昭和54年松喰虫の被害により枯死した。
・仲の良いツルの巣があった枝が、隣の枝と握り合うようにして結ばれたとの伝承がある。
正岡子規句碑【余戸東5丁目11
三島神社】
「行く秋や 手を引きあいし 松二木」
・俳句の里 城西コース 3番
正岡子規句碑【市坪西町
松山中央公園】
「草茂み ベースボールの道白し」
2005/12/17
・明治29年作句。
・碑文「ここ松山の地に野球を伝えたのは正岡子規であると言われる。
明治20年代のはじめ、子規はアメリカから伝わったベースボールに熱中し、故郷松山の有人知己にこれを教え自らも左利きのキャッチャーとして活躍した。また、新聞紙上にベースボールを紹介・開設する連載記事を執筆し、俳句・短歌・小説などの題材にもとり入れ、その面白さを広く世に推奨した。子規には、幼名の升(のぼる)にちなんだ「野球(のぼーる)」という雅号もある。
「坊っちゃんスタジアム」は、学制時代からの親友夏目漱石の名作に由来する名称で、子規が野球に注いだ情熱はこの球場に永く生き続けることであろう。」
玉笹清市記念碑【余戸東5丁目11 三島神社】
・建立:白石春樹県知事(昭和50年)
・玉笹清市は四国素人相撲界大関であった。
・雄郡神社に奉納されている素人相撲番付にも玉笹の名が見え隠れしている。
古田敦也選手2000本安打記念碑【市坪西町
松山中央公園】
2005/12/17
・ヤクルトスワローズの古田敦也選手は、2005年4月24日、坊っちゃんスタジアムでの対広島カープ戦で、プロ野球史上32人目となる通算2000本安打を達成した。
正岡子規野球殿堂入り記念碑【市坪西町
松山中央公園】
2005/12/17
「正岡子規(1867〜1902)は学生時代幼名升(のぼる)にちなみ「野球(のぼーる)のペンネームを用い誰よりも野球を愛し熱中しました。「打者」「走者」「直球」「四球」「死球」などの用語を多く訳出し新聞記者時代には記事を通して、全国に野球を紹介しました。松山に野球を伝え、野球の俳句や短歌を詠み小説のモチーフとして野球をとりあげるなど日本初といわれる業績を数多く残しました。
その功績が(財)野球体育博物館に認められ「新世紀特別表彰」として、2002年1月「野球殿堂」入りを果たしました。
贈:松山南ライオンズクラブ25周年記念
2002.10.20」
「公園建設前の市坪西町概略図<耕地整理図写し>」碑【市坪西町
松山中央公園】
2005/12/17
・ここに記されている地名・ほのぎ等を以下に記す。
学校橋、安長堤、神楽田、長塚、生田、常松、傍示川、水由里、杓子田、尼ヶ渕、外新田、横田、いずみ川、木屋元、石手川、重信川、大間渡し
・裏面碑文
「事業概要
事業名 松山広域都市計画公園事業6・6・1松山中央公園
都市計画決定 昭和43年12月28日、計画決定面積 約53.4ha
都市計画事業認可 平成8年1月29日、事業認可面積 約41.19ha
事業種別 地域総合整備事業(ふるさとづくり事業、自治省)
事業主体 松山市
場所 愛媛県松山市市坪西町地内
用地 買収民有地 362.03u、関係権利者181名
事業協力 地権者並びに市坪中央公園建設対策委員会
松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)完成記念
平成12年5月 松山市」
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![]() ・松山市 平成12年3月 |
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![]() ・斜張橋 |
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![]() 「草茂み ベースボールの道白し」 |
![]() ・スタジアム事務所ロビーには、松山市の名産品、楽山焼、姫だるま・姫てまり、竹工芸、水月焼、一刀彫が展示されている。 |
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愛媛県武道館【市坪西町
松山中央公園】
の・ボールミュージアム(野球歴史資料館)【市坪西町
松山中央公園】
マドンナスタジアム【市坪西町
松山中央公園】
坊っちゃんスタジアム【市坪西町
松山中央公園】