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宇和島市
(旧・宇和島市)

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伊豫の隅々インデックス

カテゴリ別インデックス

市町村概要


キャッチフレーズ
(1).「歴史と文化と真珠の町」
(2).「自然と調和し、潤いと活力のある豊かな宇和島」
(3).「人情と自然が薫る城下町」

市の花 市の木 市の花木 市の鳥
アンズ ウバメガシ


特産物

沿革

地名
市名の由来:文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石の領主となり、板島丸串城を築き、板島と称した。その後、伊達家が入部し、宇和島の呼び名が現れた。明治22年に宇和島町となり、大正10年に宇和島市となった。
大字
遊子  津の浦(北宇和郡宇和海村津之浦)


文化財

宇和島城【宇和島市丸の内1-12-3】

・国指定史跡
・JR宇和島駅から登り口まで徒歩10分
・市の中央、海抜約80mの山頂に聳える。
・旧くは板島丸串城と称した。
・天文15年(1546)には家藤監物が居城した。
・文禄4年(1595)に藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、天守閣は慶長元年(1596)〜慶長6年(1601)に高虎によって築造された。
・これに始まり、「独眼竜政宗」の異名で名高い仙台・伊達政宗の長子・秀宗が慶長13年(1608)に入国して以来、伊達氏9代の居城として栄えた。現在の天守閣は、寛文4年(1664)に宇和島藩第2代藩主伊達宗利が大改修(寛文年間)をしたときのもので、当時の姿のままで現存する全国12城の内の1つである。
・三重三層の美しい姿から、別名「鶴島城」とも呼ばれる。
・明治維新のときに、天守閣周囲の矢倉は取り除かれた。
・昭和20年の戦災にて、追手門(国宝)が焼失した。
《宇和島城の沿革》
 宇和島城は、築城以来約370年の歴史を有し、市街の中央海抜約80米の城山に三重三層の天守閣をもつ、全国屈指の名城である。規模は比較的小さいが、全体的に美しい均衡を保ち、荘重で江戸時代天守閣の典型的なものとして、昭和9年天守閣は国宝に指定されたが、同25年5月文化財保護法の制定により、重要文化財に指定されている。こけむした石垣に昔をしのぶ城跡全体も、国の史跡に指定されている。
 ここに初めて築城された年代は明らかでないが、天慶4年(941)橘遠保宇和地方の豪族となり、嘉禎2年(1236)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代天文15年(1546)家藤監物の居城となって、板島丸串城ととなえられていた。天正3年(1575〉には、西園寺宣久が居城とし、天正13年(1585)小早川隆景の所領となり、天正15年(1587)には戸田勝隆の領するところとなった。この頃までは番城の程度にすぎなかったものと思われる。
 現在の地に初めて天守の築城せられたのは慶長6年(1601)藤堂高虎が築城したのである。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられるに及んで始めて本城となり、慶長元年(1596)築城工事を起し慶長6年(1601)ころまでかかって、城堀をほり石垣を築き、天守閣以下大小の矢倉を建て、厳然たる城郭を造った。慶長13年(1608〉高虎が今治に転封となり同年富田信濃守信高が入城したが、まもなく改易となり、約1年間幕府の直轄地となった。
 慶長19年(1614)には奥州仙台の藩主、伊達政宗の長子秀宗が、宇和郡10万石を賜り元和元年(1615)に入城し、それ以後伊達氏歴代の居城となった。
 二代宗利の時、寛文4年(1664)から天守閣以下城郭全部の大修理を行ない、同11年(1671)に至って完成した。
 その後たびたび小修理が行なわれているが、現在の天守閣は寛文の時代に完成した姿をそのままに残しているものである。
 廃藩後、周囲の矢倉は大部分取りのけられ、昭和20年の戦災で追手門(国宝)を焼失したので今はわずかに山頂の天守閣を残すのみである,、
 昭和24年1月、城山の大部分と天守閣は伊達家より宇和島市に寄附され、市の管理に属した。同35年10月天守閣は国の文化財保護委貝会の許可を得、国庫補助金100分の70を主要財源として、同委員会の指導監督の下に、解体修理を行い、同37年10月をもって、新装のすがたを復元したのである。
 宇和島城山は市街の中央に位し、面積およそ1024アール、周囲1249メートルの独立した山である。築城以来斧を入れない自然は、南国濶葉樹を主として、繁茂し、ひとたび足を城山に入れると、深山にわけ入った景感を味わう。
 自然林として360年の歴史を秘める城山は、マキの巨木、ウバメガシ等の老木の間に蔓性植物が盛んに成長して生存競争のすがたを現出し、山膚には、ノシラン、ヤブミヨウガ、ハナミョウガ、オニブソテツなどの群生が見られる。自然に生育し、自然のまま保護された城山の植物は総計229種、177類、78科という多数にのぼり、さながら植物のの見本園の観を呈している。更に蘇苔類を細かく研究すれば、極めて多数にのぼるであろう。
(「宇和島城」パンフレット)
 
宇和島城天守閣(1棟)
・国指定重要文化財[建造物]
→See.「ふるさと20世紀-131- 天守閣の大改修 昭和35〜37年 宇和島市」、愛媛新聞、平成12年(2000)4月8日)
宇和島城上り立ち門
・市指定有形文化財
大和田建樹住居跡
・鉄道唱歌作詞者の大和田建樹の住居跡。
・宇和島城天守閣上り立ち門の前。
城山郷土館
・宇和島城天守閣横。江戸時代の生活用具等を展示している。
内港黒門矢倉
・明治32年取り壊し

豊臣秀吉画像【宇和島市御殿町 伊達博物館】
・国指定重要文化財
・縦132cm、横104cm。現存するものでは国内最大のものであるという。
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

宇和島市立歴史資料館(旧宇和島警察署)【宇和島市住吉町2】
・国登録有形文化財
・明治17年(1884)の建造物。
・平成4年(1992)に現在地に移築・復元。
・木造二階立て。423u。
・藩政時代から昭和にかけての歴史・民俗資料を展示する。

伊予神楽【宇和島市藤江 多賀神社】
・国指定重要無形民俗文化財

天赦園【宇和島市 天赦公園】

・国指定名勝
・電話番号:0895-23-4771
・JR宇和島駅から車で10分
・駐車場:有料
・この地は、第2代藩主・伊達宗利が、寛文11年(1671)に海を埋め立てて、浜御殿(浜屋敷)の敷地として造成した土地の一部を、。

・天赦園は、伊達宇和島藩の第2代藩主、伊達宗利が造成した浜御殿の一部で、宇和島藩第7代藩主・伊達宗紀(春山)が隠居所として大改修・造成し、慶応2年(1866)に完成した池泉回遊式の大名庭園である。時の勘定与力五郎左衛門に命じて、3年の歳月をかけて完成させた。
・天赦園という名前は、伊達政宗が作った漢詩の一部「残躯(ざんく)は(ゆる)す所楽しまずして是を如何せん」に由来する。
※「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
・園内には、伊達家の先祖が藤原姓であったことから由緒深い藤の名木が、また家紋が「竹と雀」であったことから数種類(14種類)の珍しい竹が植えられている。
・5月の連休頃には、白ノボリフジが咲き乱れる。
・公園北側は「御清水(おしみず)」と呼ばれる名水が自噴する。
 
【花】白ノボリフジ(4〜5月)
池の上に組んだ棚を這い、上に向かって真っ白い花を咲かせることから、この名が付いた。
→See.「甘〜い香りいっぱいに 咲き誇る白ノボリフジ 宇和島・天赦園」、愛媛新聞、(日付不詳)
【花】菖蒲(5月上旬〜)

→See.「ふるさと今昔-63- 天赦公園」、愛媛新聞

春雨亭
月見亭
潜渕館跡

伊吹八幡神社のイブキ【宇和島市伊吹町 八幡神社】
・国指定天然記念物

伊達氏歴代藩主の墓【宇和島市野川 等覚寺/宇和津町 大隆寺】
・県指定史跡
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)
 
伊達秀宗の墓

伊達宗城並びに夫人猶子の墓【宇和島市野川 等覚寺】
・県指定史跡

木造薬師如来立像(1躯)【宇和島市薬師谷】
・県指定有形文化財[彫刻]
・薬師谷にあった東光寺(明治6年廃寺)の本尊で、薬師谷集会所前の堂に安置されている。
・平安時代の作。像高150cm。欅の一木造り。
・宇和島市内に現存する最古の仏像。
・「薬師谷という地名の由来は、この仏像の名前にもとづくものと考えられ、また谷の上にそびえている権現山の祭神、山高権現の本地仏は、この薬師如来であった。」(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

木造舞楽面(1面)【宇和島市伊吹町 八幡神社】
・市指定文化財(昭和36年(1961)11月3日指定)→県指定有形文化財[彫刻](昭和40年(1965)3月29日指定)
・鎌倉時代の嘉元3年(1305)乙巳九月の銘がある。
・平安時代から鎌倉時代にかけて神社や寺で行われた舞楽(ぶがく)に用いられた面。

(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

富田知信の画像(1幅)【宇和島市宇和津町1丁目 大隆寺】
・県指定有形文化財[絵画]

(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

富田信高の画像(1幅)【宇和島市宇和津町1丁目 大隆寺】
・県指定有形文化財[絵画]

(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

絹本著色豊臣秀吉像(1幅)【宇和島市御殿町】
・国指定有形文化財[絵画]

三浦天満神社祭礼の練り【宇和島市三浦東 三浦天満神社】
・県指定無形民俗文化財(平成12年4月18日指定)
・10月19日の秋季祭礼に伴う練り。
・天宝15年(1844)以前の起源とされる。
・各9地区が、「お鉄砲」、「相撲練り」、「桃太郎」などの練りを演ずる。
・保護団体:三浦天満神社総代会

いさ踊り【宇和島市遊子 津の浦】
・県指定無形民俗文化財
・寛延4年(1751)から伝わる。

はまゆう【宇和島市日振島 沖の島】
・県指定天然記念物(昭和31年指定)

西江寺庭園【宇和島市丸穂 西江寺】
・県指定名勝

宇和島城上り立ち門【宇和島城丸之内2丁目】
・市指定有形文化財(昭和38年2月11日指定)
・建築年代は、寛文年間(1661〜)、城郭全体の大修築を行ったときのものであると推定される。
・建築様式は、薬医門(役居門)形式である。方形(36.4cm×24.3cm)の本柱2本と、方形(4.3cm×24.3cm の控柱2本、正面の桁は2方形、裏面の桁は円形、梁3本あり、束は中央から正面側1/3の所にある。
・屋根は切妻造本瓦葺で丸瓦の先端には、九曜の伊達家の紋章が付いている。
・間口2間奥行1間の小規模の門。

藤堂高虎奉納の絵馬【宇和島市伊吹町 八幡神社】
・市指定有形文化財
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

伊達秀宗奉納国徳作太刀と薙刀【宇和島市伊吹町 八幡神社】
・市指定有形文化財

舞楽面【宇和島市伊吹町 八幡神社】

初代国正奉納の太刀と宝剣【宇和島市伊吹町 八幡神社/丸之内 和霊神社/宇和津町 宇和津彦神社】
2004/6/19
・市指定有形文化財
「市指定有形文化財
初代国正愛宕神社奉納の宝剣
伊予を代表する名工と言われる宇和島藩の刀工、初代国正が、寛文四年(1664)愛宕山上に祀られていた愛宕神社に奉納した宝剣である。
愛宕神社はその後、宇和津彦神社に合祀されたので、現在は同神社に所蔵されている。宝剣は長さ53センチメートルの両刃の剣で、鞘書(さやがき)には「愛宕山大権現奉寄進御宝剣」とあり銘文には「伊達遠江守内西本市右衛尉予州宇和島住藤原国正生年三十六歳」裏に梵字四字あり「奉寄進宝剣寛文四天甲辰六月廿四日」とある。
昭和52年  3日指定
宇和島市教育委員会」

藩老桑折氏武家長屋門【宇和島市丸之内】
2004/6/19
・市指定有形文化財
「市指定有形文化財
藩老桑折(こおり)氏武家長屋門
この門は、現在の中央町一丁目(現桑折医院)にあった宇和島藩の家老桑折氏の長屋門を、昭和27年にここに移したものである。その際、向って左方の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。門の向って右の部屋は、もとの厩(うまや)で左の長屋には、門番と家付きの使用人をはじめ、中間(ちゅうげん)、小者(こもの)が居住していたものである。建築年代は確かなことはわからないが、江戸中期と推定される。
昭和38年2月11日指定
宇和島市教育委員会」
桑折長屋門修復 25周年記念事業 昭和58年5月吉日 宇和島ライオンズクラブ
観光案内マップ「歴史のまちゆっくりと歩いて見てやんさいや!」

茶糸威五枚胴具足【宇和島市御殿町】
・市指定有形文化財

藍白地黄返小桜染革威鎧【宇和島市御殿町】
・市指定有形文化財

金小札野蚕威具足【宇和島市御殿町】
・市指定有形文化財

紙本金地着色高士交歓図(伝狩野松栄筆六曲屏風)【宇和島市御殿町】
・市指定有形文化財

紙本金地着色花鳥図(伝狩野松栄筆二曲屏風)【宇和島市御殿町】
・市指定有形文化財

晦巌日記【宇和島市宇和津町 大隆寺】
・市指定有形文化財

五つ鹿古面【宇和島市御殿町 伊達博物館】
・市指定有形文化財

西園寺宣久の墓【宇和島市宮下 来応寺】
2005/6/4

大村益次郎住居跡【宇和島市神田川原】

穂積陳重・八束生家【宇和島市中町】

末広鉄腸の墓【宇和島市大超寺奥 大超寺】

中野逍遥の墓【宇和島市妙典寺前 光国寺】

桑折宗臣の墓【宇和島市野川 等覚寺】

山家公頼の墓【宇和島市野川 大隆寺】

児島惟謙の生誕地【宇和島市堀端通り】

高野長英の居住地【宇和島市横新町】

樺崎砲台跡【宇和島市住吉町】

萬年橋の碑【宇和島市滑床】

相撲練り(三浦天満神社祭礼の練り)【宇和島市三浦東 天満神社】
・市指定無形民俗文化財→県指定無形民俗文化財(2000年4月)

「相撲練りは、同市立三浦小六年、川崎剛史君(12)ら二人が行司役で、力士は三浦西保育所園児、清水隆浩君(5)ら七人。白いまわしを締めた"豆力士"たちは特設土俵で取組。この後、化粧まわしを付け、行司の口上や相撲甚句に合わせ、手足を上げたりしながら『ドスコイ、ドスコイ』と土俵を回り、大勢の見物客を魅了した。練りは、南予一帯に十番そろって伝わっているが、最近は主役の子供が減り、八番しか奉納されない。」(「豆力士たちが相撲練り奉納 宇和島・天満神社」、愛媛新聞、(日付不詳))

「同神社の練りは、南予地方の祭礼練りがほぼ完全な形で継承され、今年4月に県指定無形民族文化財に指定された。『お鉄砲』や『お弓』『荒獅子』など各地区が趣向を凝らした古式ゆかしい練りを子供たちが中心となって奉納する。」(「古式にのっとり今年も練り披露」、愛媛新聞、2000年10月20日)

「県の無形指定民俗文化財に指定されている宇和島市三浦の天満神社秋祭りが19日あり、地区の子どもたちが『相撲練り』や『よいやさ』などさまざまな練りを披露した。同秋祭りは、南予の祭礼で行われる古来の様式の練りが殆ど完全な形で残っていることで知られている。華やかな衣装に身を包んだ子どもたちが自治会別に登場し、『お鉄砲』から『牛鬼』まで十の練りを奉納する。」(「古式にのっとり今年も練り披露」、愛媛新聞、2002年10月22日)

お伊勢踊り【宇和島市下波 神明神社】
・市指定無形民俗文化財
・9月16日に行われる。
・豊漁を祈り、江戸時代の初めに始まった奉納行事。
・地元の男子小学生が、色鮮やかな菅笠をかぶり、着物を着て女装し、扇や御幣を手に、歌と太鼓に合わせてゆっくりと踊る。

トントコ踊り【宇和島市蒋淵】
・市指定無形民俗文化財
・8月13日の夜に行われる精霊供養行事。現在は8/13、8/15の2日奉納されているようだ。8/13は夜に六ヵ所の浦(落ノ鼻、大島、矢ヶ浜、高助、本浦←あと1浦は?)をめぐって集落の神に、8/15は昼間に海上で海の神に踊りを奉納する。
・昔、追手を逃れて来た48人の平家の落武者が蒋淵落鼻(落ノ鼻)のところで遭難した。それ以降、日照・不漁・悪病流行といった凶事が続いた。これは落武者の祟りに違いないということで、武者の供養のため、江戸時代中期より踊りを奉納するようになった。
※「平家落人の遭難者を供養する」のに、「江戸中期に始まった」というのはどうしたものか。村人は数百年もの間、タタリに苦しみ続けたのだろうか。
・「シルシ」と呼ぶ飾りをつけた「もやい船」の上で、9人の踊り手が歌や太鼓・鉦に合わせて踊る。遭難者の数に合わせ、48種類の踊りを奉納する。
・「トントコ」とは踊りのときに打ち鳴らす太鼓の音からきているのだろう。
→See.「特集 今も残る愛媛の伝統的盆踊り」、愛媛新聞社広告局
→See.「フォトえひめ トントコ踊り(宇和島)」、愛媛新聞、2004年8月25日
「踊りの舞台は、二隻の漁船を合わせ造ったもやい船。落鼻、大島など四ヶ所の浦を回漕し、『トントコ、トントコ』という太鼓や鉦の音に合わせ、少年から大人まで踊り手の男性たちが新盆を迎える人の数だけ踊りを捧げる。大漁旗で彩られたもやい船は夕暮れ時に出発。港に着くと、大勢の住民が心待ちに出迎え。八人の男衆が竹筒に白紙の房が付いたシデを振りながら、太鼓や口説きに合わせて軽妙に舞った。踊りは夜遅くまで繰り広げられ、静かな海辺に太鼓や鉦の音が鳴り響いた。」(「初盆迎える精霊供養 『トントコ踊り』の音響く 宇和島」、愛媛新聞、2003年8月15日

せんす踊り【宇和島市本九島】
・市指定無形民俗文化財
・宇和島湾に浮かぶ九島に古くから伝わる伝統行事。
・17,18歳の娘が太鼓と七七五調の口説文句に合わせ扇子を操りながら踊る先祖供養の行事。

八ツ鹿踊り【宇和島市野川 宇和津彦神社】
・市指定無形民俗文化財
・初代宇和島藩主・伊達秀宗が仙台地方に伝わる「しし踊り」を元にして作ったのが始まりとされる。
「素朴で優雅に『トントコトントコ』 『八つ鹿踊り』奉納 宇和津彦神社秋祭り 宇和島」、愛媛新聞、200?年10月30日

ウバメガシ樹叢【宇和島市石応 堂崎】
・市指定天然記念物

和霊神社社叢【宇和島市丸之内 和霊神社】
・市指定天然記念物

大師堂のクロガネモチ【宇和島市三浦西 大内】
・市指定天然記念物

三度桜【宇和島市丸穂 千本松】

黒柿【宇和島市丸穂】
・市指定天然記念物

夏蜜柑の古木【宇和島市藤江】
・市指定天然記念物

竜華山庭園【宇和島市野川 等覚寺】
・市指定名勝

金剛山庭園【宇和島市宇和津町 大隆寺】
・市指定名勝

明源寺庭園【宇和島市裡町 明源寺】

田中家【宇和島市三浦】
・旧庄屋
・宝暦3年(1753)に三浦地区の庄屋となり、豪農・網元として名を馳せ、近代も戸長・村長を務めたが、明治中期に衰退した。

田中家文書【宇和島市三浦】

牛鬼
・虎退治で有名な加藤清正が、敵を威圧するために作ったものといわれる。
・全身を棕櫚の毛や赤布で覆い、尻尾は剣を象っている。
・竹ボラを吹く音とともに、町内を練り歩く。

闘牛

→See.「闘牛パンフレット」
・宇和島の闘牛:起源・歴史・現在
・取組表
・闘牛のルールと基本技
・闘牛あれこれ:大会出場と給金、飼育と訓練、鼻綱、角の矯正など、牛の年齢、勢子、飼育者と牛の名前、各地の闘牛の由来

「角突き習俗の起源は、鎌倉時代、牛の角を突き合わせ力比べをしていたという農民の娯楽とする説と、約300年前、南宇和郡沖で難破したオランダ船を救助した際、お礼に贈られた二頭の牛が気性が荒く、角を突き合わせて格闘を始めたという二説がある。」(「重要無形民俗文化財 指定の道開ける」、愛媛新聞、(日付不詳))

「現地では『ツキアイ』などと呼ばれ、氏神の祭礼や年間のさまざまな行事に行われている。」(「重要無形民俗文化財 指定の道開ける」、愛媛新聞、(日付不詳))

宇和島さんさ
・五代藩主・村候の頃、仙台藩(本家)と宇和島藩(分家)の争いが起こり、そのとき仙台地方の「さんさ時雨」に対抗して作られたのが始まり。
・以降、宇和島藩士の間で、士気を鼓舞するために歌い継がれてきた。
○竹に雀の 仙台様も ションガイナ 今じゃ此方(こなた)と エエー諸共にヨ
○しかと誓いし 宇和島武士は ションガイナ 死ぬも生きるも エエー諸共にヨ
○君は小鼓 身どもがうたい ションガイナ 締めつ緩めつ エエー諸共にヨ
○宇和島出る時ゃ 一人で出たが ションガイナ 今じゃお前と エエー諸共にヨ
○殿は御屋形 すっぴん様よ ションガイナ 国のためなら エエー諸共にヨ
○差すぞ盃 見込んだ上は ションガイナ 酔うて寝るなら エエー諸共にヨ
○笠を忘れた 旅路の時雨 ションガイナ 雨に濡れたは エエー諸共にヨ
○花が咲いたと しきりの便り こちら咲いたと エエー諸共にヨ
→See. うわじま〜あったかい南風に誘われて"歩いてみさいや"歴史と文化の散歩道(パンフレット)



城址

宇和島城(板島丸串城)【宇和島市】

亀ヶ渕城【宇和島市宮ノ下 古城山】
板島丸串城の属城であった。
・「戦国末期西園寺麾下の薬師神伝右衛門が居城した。三島神社の裏山にあった山城である。」(史伝の人とその周辺〜伊予の巻、高橋紅六、くれない書房、昭和42年12月20日)

剣が城【宇和島市】
・来応寺上部。

麻小笥(おこげ)城【宇和島市】
・番城小学校東側の山上。

福の森城【宇和島市】
・番城小学校東側の山上。

赤烏帽子(あかえぼし)城【宇和島市保田(やすだ)】
・紀伊守友岡慶則が居城した。
→c.f.友岡様。

長松城【宇和島市】

安信城【宇和島市】

龍尾城【宇和島市】

亀城【宇和島市祝森】

秀松城【宇和島市祝森】

かいの森城(甲斐ノ森城)【宇和島市祝森】

祝ノ森城【宇和島市祝森】
・「津島の領主越智氏の臣、三好某が居城したというが詳しいことは不明」(史伝の人とその周辺〜伊予の巻、高橋紅六、くれない書房、昭和42年12月20日)

鎌屋城(奥の城)【宇和島市和霊町】
・和霊神社の裏山にあった、

板島城【宇和島市】
・城北中学校の北側の山上。
板島志摩守の居城。

草野城【宇和島市】
・八幡神社上部。現在の石鎚神社鎮座地。

高麗(こうらい)城【宇和島市柿原】

鎧城【宇和島市伊吹町】

夏くら城【宇和島市】
赤松肥前守が居城した。

夏秋城(道免城)【宇和島市根無川】
家藤監物の本城。

糠森(ぬかもり)城【宇和島市根無川】
・夏秋城の出城。

柳田城【宇和島市徳の森】
柳田弾上の居城。

程岡城【宇和島市徳の森】
程岡五郎丸の居城。

森岡城【宇和島市徳の森】
森岡数馬の居城。

中次城【宇和島市申生田(さろうだ)】
薬師寺伊賀守居城。

烏が泊(からすがとまり)城【宇和島市光満 別田山】
別田太郎左衛門の居城。



遺跡

柿の木西法寺遺跡【宇和島市祝森】
→「中世の建物跡発見 西法寺遺跡 縄文期のやじりも」、愛媛新聞、平成16年(2004)12月8日



跡地

一条兼定の墓【宇和島市戸島本浦 竜集寺】
・市指定史跡。
・キリシタン大名・一条兼定の墓が戸島にある。五摂家(ごせつけ)の一つといわれた一条家は、一条教房が土佐幡多荘を支配するために下向し、近在のこの戸島に移り住んで戦国大名となった。5代・兼定は長宗我部の侵攻に遭い、九州の大友氏を頼って逃れ、そしてキリスト教に帰依した。
・天正3年(1575)の渡川の戦いに敗れた後は、戸島に隠棲したという。
・島の人々から「一条様」「宮様」と称して崇敬されている。
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

宇和島城追手門(大手門)跡の碑【宇和島市本町追手2丁目】
・昭和9年に天守閣と共に国宝に指定され、「おたもん」の名で市民に親しまれていた。
・昭和20年の空襲で焼失した。

大和田建樹の生家跡【宇和島市丸之内】
・市指定史跡
・宇和島城麓の城門の前に位置する。
・大和田建樹は「鉄道唱歌」、「故郷の空」などの作詞者として知られる。

大村益次郎居住跡【宇和島市神田川原三区】
・市指定史跡

樺崎砲台跡【宇和島市住吉町】
・市指定史跡

桑折宗臣の墓【宇和島市野川 等覚寺】
・市指定史跡

児島惟謙誕生の地【宇和島市堀端町】
・市指定史跡

西園寺宣久の墓【宇和島市宮下 来応寺】
・市指定史跡。
・高さ160cmの宝篋印塔。
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

・「市指定史跡 西園寺宣久の墓
 南北朝の頃から、京都の西園寺氏の荘園、宇和荘(だいたい今の東・北宇和郡と宇和島市)に、その一族が下向土着して、この地方を治めていた。宣久(のぶひさ)は来村(くのむら)の地に土着した西園寺氏であって、来村殿と称せられていたが、天正三年(1575)に板島丸串城(今の宇和島城)の城主となったので、板島殿と称せられ、現在の宇和島市とほぼ同じ地域(祝森の一部と三浦・宇和海地区を除く)を支配していた。宣久は文芸の素養が深く、紀行文「伊勢参宮海陸の記」を残している。天正八年(1580)年5月18日病没し、ここ来応寺に葬られた。この宝篋印塔がその墓碑であり、今も人々から手厚く祀られている。
昭和36年11月3日指定 宇和島市教育委員会」(説明書き)
・「南北朝の頃から、来村の地に西園寺氏のその一族が下向土着して、この地方を治めていた。宣久は来村の地に土着した西園寺氏であって、来村殿と称せられていたが、天正3(1575)年に板島丸串城(今の宇和島城)の城主となったので、板島殿と称せられ、現在の宇和島市とほぼ同じ地域(祝森の一部と三浦・宇和海地区を除く)を支配。宣久は文芸の素養が深く、伊勢参宮の旅行をおこない、その時に和歌・俳諧をとりまぜた紀行文を残している。天正8年(1580)年5月18日病没し、ここ来応寺に葬られ、宝篋印塔(墓碑)は、今も人々から手厚く祀られている。」(パンフレット「大自然が息づく 宇和海」)
 
燈篭
・「奉献 慶應四艮三月吉日」
地蔵
・台座には「奉納 西国 秩父 坂東 四国二十五遍」「文化十一戌三月二十一日建之 享和三亥二月二十七日」と刻まれている。

桜田千本の歌碑【宇和島市三浦東 無月】
・市指定史跡

山家公頼の邸宅跡【宇和島市丸之内】
・市指定史跡

末広鉄腸の墓【宇和島市大超寺奥 大超寺】
・市指定史跡

高野長英の居住地【宇和島市新町】
・市指定史跡

中野逍遥の墓【宇和島市妙典寺前 光国寺】
・市指定史跡

穂積陳重・八束誕生の地【宇和島市京町】
・市指定史跡

前原巧山の墓【宇和島市丸穂 西江寺】
・市指定史跡



古墳

海円寺【宇和島市日振島1786】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

海禅寺【宇和島市蒋淵1679】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

願成寺(鯨大師)【宇和島市】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
「わが町の旧跡(その4) 岡本 
公広と願成寺
法華津峠の巌上にたたずみ遙に宇和島港外を眺めますと奥南半島ごしに九島の影は一際そびえ、山は黒く尖がりその麓が海鱠渓(くじらだに)。千二百年の昔弘法大師の建立された遍照山願成寺がこの谷間にあり、今は鯨大師と称せられ、仏堂行者の聖地浄境として閑寂ながら善男善女の参拝絶えず、指呼の間に赤松遊園地、海水浴場が鮮やかな影を海面に映し、宇和島港に出入りする数多くの船舶は昼夜絶え間なく往復し、寺房に座せば終日海上の風光に心気惚然たるを覚えます。
さて、公広一行の舟は立間尻を出た翌朝の二十一日静かにこの寺に落ち着く。あたかもこの日大師の命日で仏道に帰依した公広は、殊の外これを喜び修行に励んだのでした。
公広日々海辺の岸角にたたずみ法華津峠や黒瀬城の雲を眺めては過ぎにし日を思い浮かべているのでした。ある日のこと、ふと波間に異様なものを見つけ近従をして調べてみると、いかに彼が最愛の重臣入道京山の屍であった。身には三筋の太刀疵を受け、これが致命傷と思われた。傍らにいた河野釆女の父である。釆女は変わり果てた父の遺骸を抱き、さめざめと泣いた。これを見た公広は堰きくる涙も止めあえず「日頃主君思いの京山よ!よくも屍となってまでも主を慕って来てくれた!人里離れたこの島浦でかような主従の対面とは何たる因果な奇縁よな!」と悔やんだ。折から大師堂は読経の声と鐘の音、松吹く風も波間をつとうて奥深く宇和島は丸串城へと流れたことでありましょう。釆女は悲しみの涙を打ち払い、がばっとばかりに身を起こし「中将様、父討ちし敵は丸串城下の戸田信種が警固の者どもと覚えたり、父の無念を晴らしたくしばらくのお暇を願いまする!」と十七歳の若者ながら独りで丸串城に渡り、父の仇九助ら三人を討ち取り六人を切り伏せ、西光寺梅岸和尚に救い出され、無事河野の本家に立ち帰り再び公広に仕侍して忠勤に励んだ。という哀れな物語を秘めた九島大師堂は、今は和気坂純道師一家五人で境内も浄化され、参詣の人を待っています。」(広報宇和、第35号、昭和32年3月5日)
※入道京山、河野釆女についても調べておくこと。
※西光寺とは西江寺のことか?

観音寺【宇和島市石応1351】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

錦江寺【宇和島市蒋淵1231】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

教海寺【宇和島市長堀2丁目】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

顕本寺【宇和島市丸穂町3丁目2-1】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

光国寺【宇和島市妙典寺前乙567-1(笹町)】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
※地図上では大超寺奥に属する。
中野逍遥の墓碑
油屋熊八の墓碑
油屋熊八は1863年、宇和島市に生まれ、大阪にて大富豪になったが事業に失敗して単身渡米。帰国後、別府市の亀の井旅館の主人となり、日本初のバスガイドを導入して別府観光の礎を築いた。
山村豊次郎の墓
山村豊次郎については、和霊神社の頌功碑を参照。

光照寺【宇和島市蒋淵1140】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

光明寺【宇和島市三浦西2910-1】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

西江寺(西江禅寺)【宇和島市丸穂甲1140】
※地図上では野川に属するのだが....。
西江寺庭園
・県指定名勝
前原巧山の墓
えんま祭り
・3月2日〜4日に行われる。
・地獄の釜が開かれるという旧暦1月16日のやぶ入りに合わせて約350年前から行われている。
・この祭りの間だけは「大閻魔像」が開帳される。
・この「大閻魔像」は村上天心の作品。
→「今年も地獄の釜開く 宇和島西江寺 えんま祭始まる」、愛媛新聞、1999年3月3日

西海寺【宇和島市遊子2233(水ヶ浦)】
2004/6/19
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
上水道敷設沿革誌
・昭和10年10月吉祥日
「抑々祖先居ヲ此地ニトシテ....」

照護寺【宇和島市伊吹町甲304】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

浄念寺【宇和島市藤江1535】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

浄満寺【宇和島市中央町2丁目1-8】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

浄楽寺【宇和島市百之浦(九島)】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

真教寺【宇和島市本町追手1丁目1-18】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

神宮寺【宇和島市笹町1丁目3-10】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

真光寺【宇和島市遊子4739】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

選仏寺(せんぶつじ)【宇和島市野川甲1143】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
上甲振洋の墓
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)
黒柿
・選仏寺下の辰野川河岸にある。

泰平寺【宇和島市神田川原8(神田川原三区)】
※地図上では元結掛に属する。
・新四国曼陀羅霊場 第54番札所
・山号:神田山
・院号:
・宗派:曹洞宗
・本尊:釈迦如来
平和の鐘
・昭和26年3月、世界平和を祈願して、中川千代治氏が世界21ヶ国の貨幣を集めて鋳造・寄進した。

大超寺【宇和島市大超寺奥乙40】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
末広鉄腸墓地

大隆寺【宇和島市宇和津町1丁目3-1】
2004/6/19
・宇和島新24景
・山号:金剛山
・院号:
・宗派:
・本尊:
伊達氏歴代藩主の墓
・県指定史跡
・市指定史跡「宇和島藩主伊達家墓所」
 
「県・市指定史跡
宇和島藩主伊達家墓所(金剛山大隆寺)
宇和島藩、初代藩主・伊達秀宗は天正19年(1591)戦国の雄、仙台藩主・伊達政宗の長子として生まれました。四歳のとき豊臣秀吉の人質となり、秀吉の死後、関ヶ原の合戦で政権が徳川氏に移るとその人質になるなと苦労を重ねましたが、慶長19年(1614)大坂冬の陣に徳川方として父政宗とともに従軍し、その功績により宇和島10万石を拝領しました。以来、当地は維新に至るまて、およそ260年の問、九代にわたって伊達藩政か続きました。この寺には初代藩主夫人 、五代藩主・村候、七代藩主・宗紀、九代藩主・宗徳公等の墓があり、初代、二代、三代、四代、六代、八代藩主等の墓は竜華山等覚寺(市内野川・徒歩約10分)にあります。」
「県指並びに市指定史跡
宇和島藩主伊達家墓所 金剛山大隆寺
この寺は禅宗の臨済宗で、慶長十三年(1608)のころ宇和郡十万石の領主富田信高が父の知信を弔うために創建し金剛山正眼院(しょうげんいん)といっていたが、伊達氏入城後はその菩提寺となり五代藩主村候(むらとき)が再興しその法名により大隆寺と改めた。
この墓所は初代藩主秀宗の夫人の墓があり、竜華山等覚寺にある秀宗の墓とともに県指定史跡(昭和40年12月24日)にな
っている、村候の他七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)らの墓があり、市指定史跡(昭和26年11月3日)になっている。いずれもその規模は壮大で、昔を偲ぶに充分である。
宇和島市教育委員会」
富田知信・信高の画像
・県指定有形文化財
 
「県指定有形文化財
富田知信(とみたとものぶ)画像 一幅
富田信高(とみたのぶたか)画像 一幅
富田知信は豊臣秀吉の近臣で、伊勢安濃津(いせあのつ)五万石に封ぜられた人。
富田信高知信の子で、慶長十三年(1608)伊予板島(今の宇和島)十万石に封ぜられ、入部すると、亡父供養のために、正眼院(しょうげんいん)(今の金剛山大隆寺)を創建した人である。
知信の画像はその晩年の法体の姿を描き、画家は不明であるが慶長四年十一月九日付で春屋宗園(しゅんおくそうえん)和尚の賛がある。
信高の画像はその壮年の衣冠姿を描き、寛永十四年八月上旬付で雪窓宗崔(せっそうそうさい)和尚の賛があり、信高の旧臣が画工に描かせたものである。
両者ともに絹本、彩色画で掛軸仕立てである。
昭和二十九年十一月二十四日指定
愛媛県教育委員会」
金剛山庭園
市指定名勝金剛山庭園
この寺の本堂裏の庭園は、寛政年代(1790年代)の築造と思われる。ただしぞの下部は江戸末期に改造したとの寺伝ががある。上都に石で枯滝(かれたき)を組み、枯流(かれながれ)を導き、下部には池泉を用いてあり、背後に毛山を借景にとり入れている。経蔵をはじめ、茶室、書院などの建物も庭と調和し、禅寺の風趣をよく表現した庭園である。
晦厳日記
「市指定有形文化財晦眼日記(まいがんにっき)

晦厳は、当寺第十五代の住職で、学徳、識見ともに高い名僧であった。藩主伊達宗紀(むねただ)、宗城(むねなり)の信任も厚く、しばしば藩命をおびて各地に奔走した。この間天保三年(1832)から明治五年(1872)に至る四十年間の日記三十五冊を書いている。それは身辺日常の見聞、人事応接の記事が主であるが、当時の宇和島藩の一面がうかがえる重要な記録である。
昭和38年2月11日指定
宇和島市教育委員会」

東洋城句碑
「黛(まゆずみ)を 濃うせよ草は 芳(かぐは)しき」
(句意)黛は、眉のこと。若草がいっせいに萌えだして芳しい春の天地の中、あなたの眉墨をも濃くおひきなさい。若草さながら芳しく。
松根東洋城の墓
「松月院殿東洋城雲居士」
「松根豊次郎 享年87歳」
松根首塚
山本彦兵衛墓
山本彦兵衛墓(彦八)は幕末近代経済の黎明期銀行のない時代藩の指導のもとに作られた非営利的金融機関融通會所(後日解散の節現南予文化会館旧融通座の不動産二箇所と現金弐万圓を宇和島町に寄付す)の代表者として維新の難局に処し地方経済に盡くした功績は大である。
彦兵衛は両替商も営み藩札の取扱いに苦慮し融通會所の代表■たる為行動を束縛され大きな被害を受け旧家としての産を失った彦兵衛は深く時の住職晦眼禅師に帰依し愛願を受けたという)
平成元年11月 宇和島史談会長 松本麟一」
おたまやさま(山家公頼の墓)
市指定史跡
 
「山家公頼(やんべきんより)の墓
山家清兵衛公頼は、仙台藩主伊達政宗の家臣であったが、政宗の長子秀宗が、慶長19年(1614)宇和郡十万石に封ぜられた際に、総奉行に抜擢せられて、秀宗に仕えることになった。公頼は藩主を助けて藩政に手腕をふるい、大いに治績をあげて、名声はなはだ高がったが、その反面に、公頼を中傷し、排斥する者も出て、元和六年(1620)六月三十日夜、反対派のためについに無念の最期をとげた。公頼の遺骸は、かねて好意を寄せていた人達によって、のちひそかにここ全剛山西の谷に葬られた。現在も「おたまや様」(和霊廟)として、七月二十九日の祭日には、多くの参詣人でにぎわっている。
昭和38年2月11日指定
宇和島市教育委員会」
侠商伊方屋仁兵衛之墓
・和霊神社宮司元正書
晦厳禅師碑
・大正十年辛酉春建設

竺法寺【宇和島市高串3-231】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

潮音寺【宇和島市野川】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

長正寺【宇和島市保田甲1454】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

等覚寺【宇和島市野川甲1157(野川2区)】
・山号:龍華山
・院号:
・宗派:
・本尊:
伊達氏歴代藩主の墓
・県指定史跡
・市指定史跡
桑折宗臣の墓
・市指定史跡

東禅寺【宇和島市伊吹町甲1041】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

堂崎観音【宇和島市】

徳正寺【宇和島市川内甲1342-2】
2005/6/4
・山号:金栄山
・院号:
・宗派:浄土真宗本願寺派
・本尊:
徳正寺開基500年記念碑
・「徳正寺開基五百年記念碑
初代住職釋祐円 室町時代延徳元年酉年(西暦1489年)
十四世住職釋教正退職 十五世住職釋正仁継職 法要記念
当山は人皇第82代後鳥羽院の御宇にして伊豆国曽我祐信(曽我兄弟の義父)の末孫関東武士曽我祐正、建武の乱に敗れ武蔵国、木売河戸郷に一宇を創立す 爾来三代にわたり真言宗西光院の修験者として観念修行す 特に祐円法師は全国を行脚す 延徳元酉年当地に移り 同年一宇を創立し宝徳庵と号す 其後親鸞教義を聞信し改宗帰依して金榮山徳正寺と寺号を改め姓を徳平と称す
寺宝
五劫思惟御尊像 行基菩薩作(奈良時代)1303年前
六字名号 存如上人御真筆(本願寺第七代門主)525年前
当山歴代住職
…(以下略)」

念称寺【宇和島市本九島1525】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
→c.f.せんす踊り

仏海寺【宇和島市妙典寺前乙560】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

普門寺【宇和島市祝森甲1816】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

法円寺【宇和島市神田川原4】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

北蓮寺【宇和島市柿原甲1929-30】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

保福寺【宇和島市下波3339】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

本光寺【宇和島市本九島1503】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

馬目木大師(まめぎだいし)【宇和島市元結掛】
・弘法大師がお札をかけるためにと馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておかれた。するとその枝が根付いたので、大師は馬目木大師と呼ばれるようになった。

妙典寺(みょうでんじ)【宇和島市妙典寺前乙506】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

明海寺【宇和島市伊吹町1269】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

明源寺【宇和島市本町追手1丁目1-12】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:

来応寺【宇和島市宮下甲1102】
2005/6/4
・宗派:臨済宗妙心寺派(禅宗)
・山号:真正山
・本尊:薬師如来
 
山門
庫裏
「絶学無為閑道人」の碑
・禅宗四部録読了記念、平成14年9月吉日
松尾芭蕉句碑
「閑さや 岩にしみ入 蝉の声 芭蕉翁」
・おくの細道読了記念、平成12年5月吉日 来応寺譲山文庫 古典を読む会
西園寺宣久の墓
・市指定史跡

立正寺【宇和島市大宮町1丁目3-11】

龍光院【宇和島市天神町1-1】
※地図上では、丸穂町3丁目に属するのだが....?
・寺号:福樹寺龍光院
・山号:臨海山
・電話番号:0895-22-0527
・本尊:十一面観世音菩薩
・四国別格二十霊場 第6番札所
・四国開創発願の寺
大観音像前広場
小泉英句碑

竜集寺(龍集寺)【宇和島市戸島2115(戸島本浦)】
・山号:
・院号:
・宗派:
・本尊:
一条兼定の墓
・市指定史跡


神社

伊勢神社【宇和島市坂下津(さかしづ)】

伊吹八幡神社【宇和島市伊吹町甲1068】
・「板島郷の総鎮守として大化年間に大分の宇佐八幡宮より四神を迎え入れ、大浦御所ヶ崎に祭ってあったものを、和銅元年(708)に今の所へ移した」(南予史→八幡神社の歴史とイブキ、佐々木・大内、宇和島地方の自然、愛媛県立博物館、昭和59年3月20日)
・和銅元年(708)8月15日に祭事が行われた。
・慶長12年(1607)、藤堂高虎が正殿を造営し、絵馬3枚(「義経千人切」「橋弁慶」「鷹」)を寄進した。(八幡神社の歴史とイブキ、佐々木・大内、宇和島地方の自然、愛媛県立博物館、昭和59年3月20日)
・初代藩主・伊達秀宗が入国時に、八幡神社を祈願所として定めた。
・寛政5年(1793)に起こった吉田紙騒動の際、藩の政治に不満を持つ農民が終結したのが八幡河原。家老職の安藤氏が責任を負って自殺した。この事件を記した石碑がある。(八幡神社の歴史とイブキ、佐々木・大内、宇和島地方の自然、愛媛県立博物館、昭和59年3月20日)
 
舞楽面
・県指定有形文化財
藤堂高虎奉納の絵馬
・市指定有形文化財
伊達秀宗奉納国徳作太刀と薙刀
・市指定有形文化財
初代国正奉納の太刀と宝剣
・市指定有形文化財
イブキ
・国指定天然記念物(昭和18年4月10日指定)
・宇和島三名木。
・境内にある雌雄のイブキ。伊予守となった義経が家臣の鈴木三郎重氏に命じて植樹させたものという。

宇和津彦神社【宇和島市野川新13番地】
2004/6/19
・「一宮様」と呼ばれる。
八幡神社
イブキの木
初代国正奉納の太刀と宝剣
(初代国正愛宕神社奉納の宝剣)
・市指定有形文化財
秋祭り
・10月28、29日
・八ツ鹿踊り、猿田彦行列、獅子舞などの練りが行われる。
八ツ鹿踊り
・市指定無形民俗文化財
・初代宇和島藩主伊達秀宗が故郷の仙台を偲んで持ち込んだのがルーツとされる。
・鹿の面を付け、赤い前垂れに白足袋、草鞋を履いて、胸に掛けた小太鼓を叩きながら小気味良く踊る。
「市指定無形民俗文化財 八ツ鹿踊り
八ツ鹿踊りは、郷土芸能として、古くから宇和津彦神社の秋祭り(現在は10月29日)に、旧裏町一丁目が伝承してきた。その由来は不詳であるが、踊りの歌詞・リズムなどから、旧仙台藩領の「鹿(しし)踊り」が伝来して、生まれたものとみられる。声変わり前の少年が、一頭の雌鹿と七頭の雄鹿に扮し、胸にあてた太鼓を伴奏に、歌いながら踊る。歌詞は雄鹿たちが雌鹿をたずね、ついに発見して喜ぶというものである。
日本旋法の旋律にのった歌と、ゆったりとした所作は、哀愁をおびた優雅なもので、鹿踊りが多く伝承されている南予でも、特異な存在である。
昭和49年2月12日
宇和島市教育委員会」
「奉納 神霊文庫 法学博士男爵穂積陳重君」
「人實護神
南豫総鎮守 旧縣社一ノ宮宇和津彦神社は南豫有数の古社であります
歴代の領主も鎮守の神として恒例・臨時の祈願の記録があり 又南豫の人々から一宮さまと親しまれ参拝の絶えない社であります
平成の時を迎え 御社殿の老朽化激しく御社頭の尊厳護持も危うい状況となり 氏子 崇敬者有志並びに総代相議り 大方の賛同を得 御社殿改築奉賛会を平成六年に結成し 改築の大事業に着手致しました
深刻な経済不況の中 非常に困難な時期にあったにもかかわらず大神さまのご加護のもと 各位の格別のご理解と関係k社のご協力を戴き 初期の目標を達成することができました
御本殿の修理 弊拝殿の改築に合わせ境内神社の移転 境内整備等 事業を完遂し 平成九年十月二十六日祖先の業績を讃え ご神恩に感謝し竣工奉告祭を斎行致しました
広大な大神威に恐懼し この奉祝の心を永遠に伝えるため ここに記念碑を建立し御社頭の隆昌を祈念申し上げます
平成十年十月吉日
宇和津彦神社御社殿改築奉賛会 会長 土居秀雄
竹陰筆塚
竹陰(ちくいん)は、伊達家の侍医で本名を三好周伯といい書の造詣深く多くの弟子を育て書道の隆昌に尽力されました。明治21年(1888)当時明倫館教授左氏撞(すなお)橋本武彬(たけあきら)ら有志が筆塚の建立を計画し、竹陰も高齢を押して自ら碑文を揮毫しましたが果せず翌年病没、享年75才でした。
明治41年夏土居通夫ら30数名が協力し竹陰自筆の碑文を刻み縁りの筆数万本を埋め碑を建て、その遺徳を讃えたのであります。

■うわじま筆まつり
竹陰を讃えると共に、日本古来の伝統文化である書道の高揚と後進の向上心の発揚を図る意味から「うわじま筆まつり」を宇和津彦神社春祭(4月29日)に実施しております。
日頃使い古した筆や鉛筆をこの献納箱に入れ感謝し上達を祈る行事として筆まつりの灯を今後とも末永く護り続けられることを願うものであります。
平成3年9月14日 うわじま筆まつり実施委員会 」

(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

「幕末から明治時代に活躍した宇和島の書家・三好竹陰(1814〜1989)をたたえ、筆に感謝する『うわじま筆まつり』がこのほど、宇和島市野川の宇和津彦神社であった。竹陰は本名・三好周伯、号を順風といい、伊達家の侍医で、子どものころから書に才能を発揮、書道の隆盛に尽力した。1908年、宇和島出身で大阪商業会議所の初代会頭などを務めた土居通夫氏らが同神社境内に『竹陰の筆塚』を建立した。筆まつりは日本の伝統文化である書道を守り継承しうようと同まつり実施委員会(清家元徳会長)が開催、13回目。会員ら約20人が出席した。神事のあと、小雨降る筆塚の前で古筆焼納を実施。出席者が使い古した筆を次々火炉に入れて焼き、感謝をささげ、竹陰をしのんだ。(「書家・三好竹陰の業績しのぶ 宇和島 宇和津彦神社で古筆焼納」、愛媛新聞、平成16年11月23日)
 

榊森宮の額
縣社宇和津彦神社由緒
御祭神 宇和津彦命、味■高彦根命、大己貴命
■=[金且]
當神社ハ創祀ノ年代未ダ詳ナラザレドモ古来一宮ノ神ト稱ヘラレシ南豫総鎮守ノ舊社ナリ
宇和津彦命ハ 景行天皇ノ御子國乳分皇子ノ御事ニシテ宇和別ノ任ヲ此ノ避遠ノ地ニ受ケ給ヒ備ニ辛酸ヲ嘗メ地ヲ拓キ民ヲ牧シテ能ク地方経綸ノ大業ヲ全ウシ給ヒキ
味■高彦根命ハ 大己貴命ノ御子ニシテ父命ト共ニ国土経営ニ御力ヲ畫シ給ヒシ御方ナリ
大己貴命ハ又大國主命トモ稱セラレ其ノ功績ノ偉大ニシテ威徳ノ崇高ニ坐ス事ハ普ク人ノ知ル所ナリ
斯ク深キ由緒ヲ有セラルルガ故ニ夙ニ皇室ノ御崇敬浸カラザリシト見エ 光孝天皇ノ御代遠ク神階ヲ授ケ給ヒ又歴代領主の崇敬厚ク伊達氏ノ代ニ至リ屡社参祈願ノ儀行ハレ幣帛寶物等ノ寄進絶エズ
明治四年社格制定ノ當時既ニ縣社ニ列セラレ例祭ハ十月二十八日ヲ以テ執行シ翌二十九日ニハ神輿ノ渡御アリ
昭和十六年七月 縣社宇和津彦神社社務所
芭蕉句碑

大小浜(おおこはま)拝高神社【宇和島市小浜2661-2】
主祭神:高皇産霊尊、神皇産霊尊
配神:天照大神、豊受姫神
(愛媛県神社誌)

護国神社【宇和島市丸之内】
・城山の南麓。
南予護国神社とも言う。
・旧鶴島神社
大和田建樹詩碑

神明神社【宇和島市蒋淵】
・主祭神:天照大神、配神:大山積命、大雷神、高おかみ神、菅原道真公、阿斯受岐高彦根命、醍醐天皇御子隼高公
※明治42年1月29日、■[票鳥]鷹神社を合併。
(愛媛県神社誌)

神明神社【宇和島市下波】
お伊勢踊り

神明神社【宇和島市川内】
2005/6/4
・徳正寺近く。
鳥居
常夜灯
・鳥居脇
・「奉燈 明治四年辛未五月中 邑中」
狛犬
・鳥居脇
狛犬
・境内入口
拝殿
本殿

住吉神社【】
「玉葉集に住吉大明神の御詠歌とて、
伊予国宇和の郡の魚まても 我こそはなせ世を救ふとて
網おろす宇和の郡の魚まても 神の誓ひにひかれてやよる
右読人不知、同書に住吉明神御歌と云ふ」(予陽郡郷俚諺集)

多賀神社【宇和島市藤江1340】
1999/3/1、2004/6/19
・別名を凸凹寺と呼ばれ、性風俗のコレクションでは日本一。拝殿の縁側にも、立派な木造の男性器の彫り物が置かれている。
・館内には世界各国の性風俗資料4,000点余りが展示されている。
・「祭神はわが国土山川草木、もろもろの神を生み成された伊弉諾尊を主神に11柱を祀る。神功皇后 摂政十八年(269)の鎮座にして地方最古の社なり。千五百守社と称え、死神が毎日千人とり殺すというと、大神はすれなら自分は千五百人の子供を生もうと詔り給うた古事によるもので、古来より延命・栄寿・治病・子授け・健康の霊験あらたかな神社である。」との由緒書きが建てられている。
・境内社の淡島社は人形供養と神として信仰が厚いように見える。小さな祠には、雛人形や髪の毛、そして病気平癒を祈願して「腰腰腰腰腰腰腰腰腰腰.....」といった具合に患部を記した紙が張られている。
・境内には、数十の韓国の石造が置かれており、日本の神社とは一風変わった趣を見せる。
 
凸凹神堂
三治狸大明神
・三治狸は大睾玉?
粟島神社
・人形供養
石神社(しゃくじんさま)
・自然石(松茸石)を神体として祀る。
千五百守社神名石
・伊達春山書

天満神社【宇和島市大浦】

日本惣神社【宇和島市蛤(九島)】

白王神社【宇和島市百之浦(九島)】

拝高神社(はいたかじんじゃ)【宇和島市小浜2083】
主祭神:高皇産霊尊、神皇産霊尊
配神:天照大神、豊受姫神
(愛媛県神社誌)

■[票鳥]神社(はいたかじんじゃ)【宇和島市蒋淵】
・主祭神:醍醐天皇御子隼高公
・寛文九己酉年勧請。
(愛媛県神社誌)

八幡神社【宇和島市伊吹町】

弁天神社【宇和島市弁天町3丁目】

松尾神社【宇和島市大浦 赤松】

三浦天満神社【宇和島市三浦東】
 
秋祭り
相撲練り(三浦天満神社祭礼の練り)
・市指定民俗文化財→県指定無形民俗文化財(2000年4月指定)
・白いまわしを締めた豆力士が特設土俵で取り組んだ後、化粧まわしをつけて行司の口上や相撲甚句に合わせて土俵の周りを練り回る。
・天満神社の秋の祭礼(10月19日)に行われる。

三島神社【宇和島市坂下津】

三島神社【宇和島市宮下】
2005/6/4
猿田彦神社
庚申社
末社殿
・一宮神社、厳島神社、地神社、金刀比羅神社、龍王神社、稲生神社、天一神社、伊勢山神社、尾串森神社、川内神社
※神社が鎮座する山の頂上に上ってみるものの三角点などはなし。電柱が1本建っているのみ。(2005/6/4)

三島神社【宇和島市長堀(ながぼり)2丁目5-27】
・「三島様」と呼ばれる。
・大同元年に、大三島より勧請された。
・元々は、現在の堀部公園のところに祀られていた。現在地に移った経緯としては2説ある。
@文永11年(元寇の年) ※河野通有が元寇で手柄をあげたことを考えると興味深い。
A寛永11年 ※来村川付け替えとの関係がありそう。

和霊神社【宇和島市和霊町1451(和霊町西2区)】
2004/6/19、2005/6/4
宇和島新24景 (8)和霊神社
・漁業の神様として漁民の信仰が厚い。
・四国地方では「金比羅宮」と共に人々の崇敬を得、各地より多数の参拝客を集める。
・藩祖・伊達秀宗の家老で、宇和島藩財政の再建、民力休養に努めながら反対派により暗殺され非業の死を遂げた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきんより)が祭神。
須賀川に架かる御幸橋の手前には石造りでは日本一の大鳥居(高さ13m)がある。
山家清兵衛公頼は、宇和島城主伊達十万石初代藩主伊達秀宗の家老職総奉行として、藩財政の立て直しと民力の充実に努め、その職にあること5年間、治績もあがり領民の敬慕も受けた。しかし、反対派の中傷を信じた藩主秀宗は、元和6年(1620)6月29日、侍大将桜田玄蕃一派の武士数十人に清兵衛を襲撃・殺害させた。清兵衛の次男、三男、四男、縁故者までが殺害された。
清兵衛の徳を慕う領民は、この凶変を悲しみ、密かに城北森安(*1)八面荒神境内に小さな祠を建て、山家一族を祀って、児玉明神と称した。遠近からの参拝者が日増しに増え、不思議なことも多く起り(*2)、やがて清兵衛の無実も判明するに至った。秀宗は大いに反省し、京都の吉田家に願い出て、承応2年(1653)6月24日に神社を建立し、山頼和霊神社(やまよりわれいじんじゃ)と崇めた。
(*1) 「城北森安」は、現在の和霊神社鎮座地の字名であろう。御幸橋の東側の橋「森安橋」にその名が残っている。清兵衛の屋敷があった。
(*2) 寛政3年(1791)、家宝の伊達家系図が紛失したときに、藩主村候が和霊神社に祈ったところ、清兵衛が夢枕に現れ、系図の在り処を知らせ、そして無事に見つかったという話。
・明暦2年(1626)6月、社地を向山に移した。
・寛文7年(1667)6月、森安山に移した。
・元禄9年(1696)9月、境内拡張。
・元禄13年(1700)、明神号の宣下を受ける。
・元禄14年(1701)6月24日、初めて祭礼御幸の儀式が執り行われる。
・享保13年(1728)、大明神号を授けられる。
・昭和20年7月、戦災により全焼。
・昭和24年、拝殿が復興。
・昭和26年、本殿が復興。
・昭和29年、参篭所が復興。

「和霊大明神 往昔伊達遠州秀宗家臣山家清兵衛、讒者の為に刑科を蒙り害せらる、其霊静まらす、無実の罪怨憤深く祟りをなす、仍って其霊を鎮んか為に一社に祭り給ふ、祭礼の規式甚厳重也、今に至て近州の者歩ひ祈願をなす、霊験新也と云い、清良記と云書凡廿四日、五巻も有へし、宇和島十八郷の事細かに書載たり(清良記は土居水也の著にして三十巻あり)、」(予陽郡郷俚諺集)
 
御幸橋
須賀川に架かる。
・鉄筋コンクリート製。
・長さ26mの反り橋。
秋祭り
・相撲練り、五ツ鹿踊り、牛鬼、赤獅子など8つの踊りが奉納される。
初代国正奉納の太刀と宝剣
・市指定有形文化財
和霊さま
和霊公園
神馬社
・草鞋や鈴が祠内に多数奉納されていた。
山本神社
和霊神社社叢
宇和島市指定天然記念物
和霊神社の社そう
この社そうは、戦国時代の鎌江城の址で面積6203平方メートルを占め、暖温帯に属するスダシイ・ツブラシイ・アラカシを主体とした常緑広葉樹林である。おもな樹木はクスノキ(目通り4.4メートル、樹高20メートル)の巨木や・モガシ・イヌマキ・ヤブツバキ・カンザブロウノキ・ミミズバイ・クスノキ・ヤマモガシ・ルリミノキなどで、蔓性ではカカツガエなどが見られる。樹下には、多くのシダ類・ノシラン・ハナミョウガ・
センリョウ・イズセンリョウなどを見る。植物の種類が豊富な、貴重な社そうである。
昭和49年2月12日指定
宇和島市教育委員会
坂本竜馬脱藩百四十年記念
坂本家守護神和霊神社分霊社創建二百四十年記念
若宮神社
イチョウ

和霊神社【宇和島市丸之内1丁目4-3】


お堂

大師堂【宇和島市大浦 赤松】

庚申堂【宇和島市祝森 松ヶ鼻】




地蔵

子安地蔵【宇和島市祝ノ森】
・延宝5年(1677)3月23日、深田(北宇和郡広見町)の庄屋河野勘兵衛通行が祝ノ森の松ヶ鼻で昼寝をしていると、夢の中に僧が現れ、「私は地蔵菩薩だ。この山中に深く埋没して久しい。私を掘り出し供養するならば、災難を除き、婦人が信心するならばお産を安泰にしよう」と告げた。そこで山の中腹の大樹の下を8尺(約2.5m)掘ったところ、石造りの地蔵を得た。これを祀ったところ、近郷近在に信者が増え、子安講が各地に作られたという。




鬼ヶ城山【宇和島市】
・標高:1151m
・足摺・宇和海国立公園
・宇和島市内から国道320号線を高知方面へ、途中左折し、黒尊スーパー林道を南へ。津島町との境に鬼ヶ城山はある。
「奈良山等妙寺縁起」
かつて宇和の荘内に鬼王段三郎という強力無双の二人の壮士がいたという。
鎌倉の曽我十郎・五郎兄弟に仕えていたが、兄弟が父の仇討ちをした後、主従は鬼王らの故郷伊予に落ち延び身を隠した。鬼王段三郎が大岩を寄せ集めて城を築き、この山中に住んだという。
※広見、三間、松野の辺りを「鬼北」と呼ぶのは鬼ヶ城山の北側に位置するからだという。

大杉山【宇和島市】
・標高約450m。大超寺奥より、約2.5km南東。

毛山【宇和島市】
・標高 1089m

高月山【宇和島市/広見町】

・標高 1228.8m

東高月山【宇和島市/広見町】
・標高 1196m

郭公岳【宇和島市/広見町/松野町】
・標高 1010.1m

古鬼ガ城【宇和島市/松野町】
・標高 812m

三本杭【宇和島市】

・標高 1225.7m

八面山【宇和島市/津島町/高知県西土佐村】
標高 1166m

大久保山【宇和島市/津島町】
・標高 1155.5m

権現山【宇和島市】
・標高 952.4m

権現山(三浦権現山)【宇和島市三浦西】
・標高 489.4m

天満山【宇和島市丸穂】
・標高 87m
・市街地、宇和島湾を望む。
遊歩道
・延長300m、幅2m。
・1994年6月完成
・サクラの苗木 260本を植樹。

古城山(ふるしろやま)【宇和島市】
・標高約 55m。
・宇和島城南西約1.2kmに位置する。
・室町時代の領主(板島丸串城主)・西園寺宣久の家臣・薬師寺伝左衛門尉親頼がこの山に居城した。(亀ヶ渕城)
※「薬師神伝左衛門尉親頼」と記す場合も見られる。
・化石産出地として知られる。

拝鷹山【宇和島市柿原】
・弥生時代中期の遺跡がある。

遠見山【宇和島市/吉田町】
・標高 322.2m

槙の山【宇和島市申生田/吉田町】
・標高 438.5m
牧野山とも記される。
大師堂を中心に、この山一帯に地四国が配置されていることから、地四国山とも呼ばれる。

熊が峰【宇和島市】
・標高 342.9m

泉が森【宇和島市/三間町】
・標高 755.2m


鉱山

川・渓谷

広見川
須賀川
高串川
金丸川
大池川
辰野川
神田川(じんでんがわ)
谷川
裡田川
長堀川
斉藤別川
本村川
来村川
内平川

滑床渓谷【宇和島市/松野町】
 
 
滑床の氷室

薬師谷渓谷【宇和島市】
・鬼ヶ城連峰から湧く清流。
 
素麺流し
・渓谷の岩清水を使い、地元の老人クラブが作った薬味で味わう素麺流しがある。
・期間:〜8月31日
・休業日:なし
・営業時間:10:00〜18:00
・料金:大人400円、子供300円、幼児100円
大瓢箪(滝)(池)
・甌穴
飯釜淵
・甌穴
千畳敷
小瓢箪(滝)(池)
・甌穴
雪輪滝
・高さ約30m
萬代滝
岩戸滝
銭ヶ淵
篠駄馬の氷室




ダム

穂積橋【宇和島市新町】
・辰野川に架かる。
・宇和島の生んだ法学者・穂積陳重の功績を頌えて建造された。
・長さ9.2m、幅7.4m。

宇和島橋【宇和島市栄町港】

番城橋
2005/6/4
・来村川に架かる。
・昭和45年3月架設。

宮下橋
2005/6/4
→See.「宇和島の自然と文化」:pp.93 「馬場御野始の跡」


風景

水ヶ浦(水荷浦=みずがうら)の段畑【宇和島市遊子(ゆす)】
2004/6/19
・日本農村景観百景
・東洋のピラミッド
四国のみずべ八十八ヶ所
・宇和島新24景 (13)「水荷浦段畑」
・宇和海に面した急斜面の山肌に数多くの棚田が広がる。

日振島【宇和島市】
・足摺宇和海国立公園
・宇和島市沖合い約30kmに浮かぶ。
・高速艇で約40分。
・面積6.28ku 、喜露(きろ)、明海(あこ)、能登(のと)の3つの集落がある。
・今からおよそ 1,000年の昔、時の朝廷に半旗を翻した藤原純友が本拠地とした島。
藤原純友は、NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」の主人公で知られる。
 
城が森【日振島 明海】
・海賊藤原純友の城跡と伝えられる。
藤原純友籠居跡、記念碑【日振島 明海】
蛭ヶ浜【日振島 能登】
みなかわの井戸【日振島 明海】
純友等が使ったという言い伝えがある。
南レク日崎公園
・キャンプ場
・海水浴場(日崎海水浴場)

戸島【宇和島市】
「戸島 (日振、戸島と連呼する有名の島なり、一条内政の墓ありと云ふ、編者野間郡の部に入れて所在分明ならすと記せり、茲に追記す)、(伊予史談会蔵本による。)」(予陽郡郷俚諺集)
一条内政の墓

御五神島【宇和島市】
・日振島南方の沖に浮かぶ周囲5km、面積1,000uの小島。
・女笹が生い茂る無人島。
・神功皇后が三韓征伐の帰途、時化に遭ったが、海上に5つの光を発見し、それを頼りに進むことで無事到着したということから、「5つの灯の神を祀る」ということで御五神島と命名された。

沖の島【宇和島市】
・沖の島は、日振島能登集落の北方に浮かぶ小さな無人島である。
・県指定天然記念物「はまゆう」が群生する。
 
デラ台風日振島遭難者慰霊碑
・昭和37年(1962)に遭難者名録と共に建立された。
・デラ台風は、昭和24年(1949)年6月20日に到来した。瞬間風速34mの強風は、県内でも猛威をふるった。県内犠牲者は232人を数えたが、その半数近くを日振島民が占めた。
→「ふるさと20世紀-211- デラ台風で漁民遭難 昭和24年 宇和島市」、愛媛新聞、平成12年10月28日


洞窟・鍾乳洞

樹木

伊吹八幡神社のイブキ【宇和島市伊吹町 八幡神社】
・国指定天然記念物(昭和18年4月10日指定)
宇和島三名木

はまゆう【宇和島市沖の島】
・県指定天然記念物(昭和31年指定)

根上がり松【宇和島市堀端町】

竜華山の松
宇和島三名木

丸穂の三度桜【宇和島市丸穂 千本松】
宇和島三名木
・「三度桜の契(ちぎり)の色を、見せてやりたや旅の人」(民謡)
・ヤマザクラの変種。
・冬、春、秋の三度花が咲く。

チョウジガマズミ【宇和島市戸島】

ウバメガシ樹叢【宇和島市石応 堂崎】
・市指定天然記念物

和霊神社社叢【宇和島市丸之内 和霊神社】
・市指定天然記念物

大師堂のクロガネモチ【宇和島市三浦西 大内】
・市指定天然記念物
・樹齢約300年。
・樹高約18m、幹周3.5m。
※2003〜2004年にかけて枯死のため伐採。
→See.「私の絶景-31- クロガネモチのある丘」、愛媛新聞、平成15年11月21日

黒柿【宇和島市丸穂】
・市指定天然記念物
・選仏寺下の辰野川川岸にある。

夏蜜柑の古木【宇和島市藤江】
・市指定天然記念物









小泉英句碑【宇和島市天神町龍光院】
「 芭蕉忌や 母は宇和島の 人のよし 」
・俳聖松尾芭蕉を偲んで詠んだ句。
・芭蕉の弟子、服部土芳が書いた「芭蕉翁全伝」に依れば、芭蕉の母は「伊与の国宇和島の産」とある。
・1994年10月12日、芭蕉の命日に、300年忌記念祭に合わせ建立・除幕された。
・高さ1.64m、幅1.24m、厚さ57cm、青石製
・大国住職や俳句愛好家が浄財を慕って300周年記念祭に合わせて建立した。

→See.「芭蕉しのび句碑を建立 宇和島・龍光院で除幕」、愛媛新聞、1994年10月13日

小泉英
・本名:小泉源吉

大和田建樹詩碑【宇和島市 JR宇和島駅前】
・十河信二筆。
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として 鉄道唱歌」(西面)
「わがふるさとの城山に 父と登りてながめたる 入江の波の夕げしき 忘れぬ影は今もなを 散歩唱歌」(東面)

・鉄道唱歌で知られる大和田建樹(おおわだたてき)は、安政4(1857)年、宇和島市丸之内で生まれた。
・幼い頃から国文学に才能を芽生え、16才で藩の青年塾の教師になった。
・その後22才で上京、東大に勤務しながら国文学のほかドイツ語、ラテン語、哲学、能楽・謡曲などを独学した。
・その学識が認められ明治17年に東大古典科講師、19年に東京高等師範教授、明治女学校でも教鞭をとった。
・建樹は早歌づくりの名人で、1300余編の歌を作詞した。なかでも東海道から始まって山陽、九州、東北、北陸、関西と旅の歌をつづった「鉄道唱歌」は、延べ334節の長いものであるが、駅名、車窓からの景観、歴史、地理、物産などまでを巧みに歌い込んで、たちまち全国に広まった。

大和田建樹詩碑【宇和島市丸之内 護国神社】
「大和田建樹先生歌■伯爵二荒芳徳書」(表面)
「歓呼の声に送ら■■ 今ぞ出で立つ父母■■」(裏面)

大和田建樹歌碑【宇和島市 明倫小学校】
「父あけくれにわが子教へて今そしるわが子教へしちちの心を 建樹」

松尾芭蕉句碑【宇和島市】
「父母の しきりに恋し 雉子の声」

芝不器男句碑【宇和島市御殿町 伊達博物館】
「白藤や揺りやみしかばうすみどり」
・高さ約1m、幅1.4m。

松根東洋城句碑【宇和島市御殿町 伊達博物館】
「島々や湾の外まで春の海 七十二叟」
・昭和25年5月建立。
松根東洋城は、明治11(1878)年、父は宇和島藩家老松根図書の長男、母は宇和島藩主伊達宗城の2女の子供として、東京築地に生まれた。東大、京大卒業後、宮内省に勤めた。
・大正4年「渋柿」を創刊し、多くの俳人を育てた。

松根東洋城句碑【宇和島市文教町 宇和島東高校】
「いつくしめば叱るときける寒さかな 東洋城 壺天子書」
・宇和島東高校創立70周年記念事業の一つとして建立された。

松根東洋城句碑【宇和島市弁天町 愛媛県真珠養殖漁業協同組合】
「貝寄せやあこやはいづこうつせ貝 八十六叟 壺天子絵」
・元愛媛県立水産試験場にあったものを移したものといわれる。
・真珠貝供養塔と刻み、その上に周囲1mの珠をのせている。

松尾芭蕉句碑【宇和島市愛宕町 愛宕公園】
「しばらくは花の上なる月夜哉 はせを」
・芭蕉の母は宇和島(桃地氏の娘)の出身で、また芭蕉が使えていた藤堂良忠は板島丸串城城主藤堂高虎に使えていたという縁で、宇和島には幕末から明治にかけて、芭蕉の句碑が3基建立されている。
・明治40年に建立。高さ120cm、幅90cm、粗粒砂岩。

松尾芭蕉句碑【宇和島市 宇和津彦神社】

松尾芭蕉句碑【宇和島市 竜光院】

桜田千本の歌碑【宇和島市三浦東 無月】
「山あひの 海は扇の すかたにて なみに絵かける 富士の面影」
・市指定史跡

中野逍遥漢詩碑【宇和島市和霊町 和霊公園】
「道情 擲我百年命 換居一片情 仙階人不見 唯聴玉琴聲」
情を道(い)ふ 我が百年の命を擲(なげら)ち、 君が一片の情に換ふ。 仙階人が見えず、唯玉琴の声を聴く

中野逍遙は慶応3(1867)年、宇和島市賀古町に生まれた。
幼少より俊才と呼ばれ、東大では同窓に夏目漱石、正岡子規らがいて、卒業後研究科に移った。
支那文学史の編纂中、わずか28才で亡くなった。

・和霊公園の西隅。高さ約2m、幅2.7mの緑泥片岩。
・逍遙遺稿外編に収められている五言絶句「道情七首」の第1首。

中井コッフ歌碑【宇和島市 宇和島城山 長門丸跡西隅】
「夕山に鳴きのこりたる鳥の声一つひびきて静かなるかも」
・昭和33年11月、第7回愛媛県教育文化賞の受賞を記念して35年に建立された。
・中井コッフは明治14年宇和島市来村生まれで郷土の歌人として知られる。

高畠明皎々句碑【宇和島市伊吹町 伊吹八幡神社】
「千歳ふる 伊吹はみどり 神の春」
・昭和45年1月、米寿を記念して奉納した。

高畠明皎々句碑【宇和島市野川 愛宕山】
「秋晴の 天守や市制 五十年」
・昭和46年11月、宇和島市制50周年を記念して建立された。

高畠明皎々句碑【宇和島宮下 堀部公園】
「城南の 春静なり 黄楊(つげ)の園」

本田正一詩碑【宇和島文京町 宇和島東高校玄関】

児島惟謙(こじまいけん)記念碑【宇和島市 堀端通り】

「水をもとめて」の碑【宇和島市三浦西名浦】
2004/6/19
 
「事業の概要
本事業は、毎年のごとく干ばつの脅威にさらされていた宇和島市豊浦、尾崎、名切、大内、安米地域の樹園地76ヘクタールにおいて南予用水事業の末端施設を整備し、野村ダムからの潅水で恒久的な農業用水を確保するとともに軌道の整備も併せて行い、農業生産基盤の総合的な改善、農業経営の合理化を図ることを目的として実施されたものである。
本地区は、常に新しい農業に取り組む意欲が旺盛で南予用水の受入れ体制が進んでいたため、国営南幹線水路の最末端に位置しながら、宇和島市のモデル地区としていち早く平成三年度から事業が着工され平成七年度に完成したものである。
事業名  緊急畑地帯総合整備事業
地区名  三浦西地区
事業主体 愛媛県
総事業費 984,000千円
主用工費 用水施設76ヘクタール、軌道工 11km
関連事業 県営かんがい排水事業宇和島地区
十一号幹線水路 5キロメートル
平成八年三月吉日」

中原町長頌功碑【宇和島市丸之内】
・消防署裏。
・穂積陳重撰文。
(宇和島の自然と文化(四訂版)、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

山村豊次郎頌功碑【宇和島市和霊町 和霊公園】


公園

愛宕公園【宇和島市大超寺奥・野川】
・宇和津彦神社の裏山。
上甲振洋記念碑

丸山運動公園【宇和島市丸山】
 
丸山球場
市営闘牛場

天赦園【宇和島市】

宇和島市天赦公園【宇和島市】
・昭和42年7月20日に開設した。
・公園の広さは2.62ha。うち庭園は、1.27ha。
・この公園敷地には、かつて宇和島伊達家の浜御殿(浜屋敷)があった。
御清水
・公園北側に自噴する名水。

和霊公園【宇和島市】
2004/6/19,2005/6/4
宇和島空襲死没者氏名碑
→See.「272人、氏名碑除幕 宇和島空襲死没者追悼式」、愛媛新聞、1996年5月11日
一九四五年宇和島空襲死没者追悼平和祈念碑
・1945年、9回にわたる米軍機の爆撃で計278人が死亡したとされる。
・1996年5月11日に272人の名を刻んだ碑を建立・除幕した。
平和祈念碑
大宮庫吉翁銅像
池田勇人
大宮庫吉翁は生涯を一つの事業に捧げて成功した類まれな偉人である翁は宇和島に生れつとに舊藩校継志館に学び明治末期當地に創立されたアルコール生産工場に入り醸造の技を究めること十年のち京都に上り努力奮闘遂に有名な寶酒造を築きあげわが國酒造界の巨擘(?)と仰がれるに至ったがその素地は實に年少の宇和島時代に培われたのである。
翁は浩堂と号し茶道を究め書藝に達し加うるに詩歌に精進して佳作も甚だ多いがその望郷の歌に
生れきそこ....
翁はまた神佛を奉ずること厚く郷土を愛する念深く公共事業に私財を投じたことも一再ではないさきに宇和島市公會堂建設に際しては率先して巨額の基金を寄せられ大宮ホールの偉容を完成し郷人ひとしくその恩恵に浴している。
思うに翁が不遇逆境に身を起こし不撓不屈精よく今日の大をなし國家社會に貢献されたことはまことに後進を奮起せしめる生きた模範というべきであろう。
ここに有志相図り翁の風手を刻して頌徳の意を表する
昭和三十六年六月 伊達宗彰撰」
吟魂碑
道情
中野逍遥
擲我百年命
換居一片情
仙階人不見
唯聴玉琴聲

中野逍遥は慶応三年宇和島市賀古町に生まれ幼にして神童の誉れ高く藩校伊達春山に愛された。郷校を経て東京帝国大学に学び、漢文科第一回生として卒業し、さらに研究科に進んで支那文学史を起草中、明治二十七年東京に於て二十七歳の若さで世を去った。
夏目漱石あり、佐々木信綱らと深く交わった。
多情多恨の人逍遥は万斛の詩才を抱きながら憂愁の生涯を終わったが紅花碧■■く詩歌を■■、漢詩文集「逍遥遺稿」正外二篇を残した。
のち訳文を加え岩波書店より■行され、当時■■の評価を高めた。その■■は
に求め、バイロン、ハイネを偲ばしめ、島崎藤村ら、近代詩に強い影響を与えた。
ああ人生は短し、されど筆は長し
昭和43年(1968)の秋
明治百年と逍遥生誕百年を記念し之を建つ
中野逍遥を讃える会 ...

C12 259
汽車ポッポの愛称で親しまれたこの機関車は、昭和16年から南予の山野をかけめぐり昭和43年9月末その勇姿を消すことになりました。その間国鉄宇和島線の沿線はもとより南予全域の産業、教育、文化等の交流に大きな役割をはたしました。
特に「汽笛一声新橋を」の鉄道唱歌で全国にその名を知られている詩人大和田建樹先生の生誕地宇和島として、これを機会に永久保存をはかるため日本国有鉄道にお願いし保存するもので、皆さんとともになつかしい在りし日の姿をいつまでもしのびたいと思います。
昭和46年10月吉日 宇和島市市長 山本有一
C12型蒸気機関車概要
車種 1C過熱タンク機関車
全長 11m35cm
全幅 2m80cm
全高 3m90cm
車輛重量 積載時50ton、空車時40ton
最高速度 75km/h
けん引能力 4650HP
石炭搭載量 1,500kg
水槽の水量 5.5m3
動輪直径 1m40cm
ブレーキ装置 空気ブレーキ
製作所 日立製作所笠戸工場
製造年月日 昭和15年9月16日
製造価額 57千991円62銭
走行期間 自昭和15年8月23日 至昭和43年12月11日
総走行粁 932,986.5km(地球約23周)
1.煙室 2.ボイラー 3.砂箱 4.蒸気溜 5.タービン 5.発電機 7.水タンク 8.石炭庫 9.運転室 10.元空気溜 11.排障器 12.従輪 13.動輪 14.シリンダー 15.先輪 16.自動連結器 17.前照灯 18.空気圧縮器 19.安全弁
鳥獣慰霊塔
山村豊次郎頌功碑
→See.「宇和島の自然と文化(四訂版)」、宇和島市文化協会、平成4年12月1日
噴水

宇和島駅前公園【宇和島市】
 
憩いの広場
SLモニュメント
・宇和島城築城400年祭と鉄道唱歌誕生百周年を記念して設置された。
・モニュメントは、宇和島鉄道が大正3年(1814)に開通した宇和島−近永間を走っていたドイツのコッペル社製「ケ220型」。
→See.「SLの姿に往時しのぶ 宇和島駅前公園 モニュメント設置」、愛媛新聞、200年11月27日

赤松遊園地【宇和島市赤松】

西園寺庭園【宇和島市大宮町】

黒岩山公園【宇和島市 鬼ヶ城山系】
・鬼ヶ城山系の標高600mに位置する。

→See,「豊かな郷土づくり 次世代へつなごう 黒岩山公園 90人が記念植樹」、愛媛新聞、日付不詳

魚見の丘【宇和島市遊子】
2004/6/19
・宇和島バス停留所「水ヶ浦口」
詩碑
(表面)
「親父が砕り 童も運び 爺は築く 昼餉の芋に 母の温もり 舟虫」
(裏面)
段畑を守ろう会 平成十三年二月二十一日発足
会長  宇和島市市議会議員 山下良征
副会長 遊子公民館長 松田行雄
    遊子婦人会長 小櫻京子
世話人 遊子自治会長 木村永一
    JA遊子支所長 山下憲穂
    金一封 遊子漁業協同組合
記念碑建立世話人
    平成十四年度 遊子自治会
    遊子自治会長 岩下浩二
  碑寄贈 有限会社 浜田光産業
   平成十四年十二月吉日建立
魚見の丘用地提供者芳名碑
・延面積 3,746u
魚貝藻霊供養塔
・遊子漁協
・昭和63年
・「いのちなる海 たまをつつむ合掌
 大いなる自然に 生かさるるよろこびを
 扶け合う人びとの いとなみを
 さきはい謳う み霊よやすらかなれ
 まさけきいのちよ 永遠なれ」
和夫歌碑
・平成13年3月建立。
・古谷和夫氏の歌を刻んでいる。
「海こそは 命とけふも 拝みて 漁りにゆく 永遠にさきはへ」
(裏面)
「経歴
昭和4年9月 愛媛県北宇和郡遊子村大字小矢野浦に生まれる
昭和36年1月〜昭和54年4月 遊子漁業協同組合 専務理事
昭和54年5月〜平成12年6月 遊子漁業協同組合 組合長理事
昭和54年5月〜昭和57年5月 愛媛県信用漁業協同組合連合会 代表監事
昭和54年6月〜昭和57年5月 愛媛県かん水養魚協議会 副会長理事
昭和57年5月〜平成8年5月 全国かん水養魚協会 副会長理事
昭和57年6月〜平成12年8月 愛媛県かん水養魚協議会 会長理事
昭和58年3月〜昭和60年3月 愛媛県水産振興協議会 委員
昭和60年3月〜昭和63年3月 愛媛県マリノベーション構想委員会 委員
昭和61年6月〜昭和63年5月 宇和海真珠養殖漁業協同組合協議会 副会長
昭和63年6月〜平成12年6月 愛媛県漁業共済組合 組合長理事
平成元年6月〜平成2年5月 愛媛県真珠養殖漁業協同組合協議会 副会長
平成2年6月〜平成4年5月 全国漁業共済組合連合会 監事
平成4年8月〜平成12年8月 愛媛海区漁業調整委員会 委員
平成8年5月〜平成12年5月 全国かん水養魚協会 会長理事
表彰
平成元年5月 愛媛県知事表彰(水産功労賞)
平成2年12月 大日本水産会 会長表彰
       受章
平成5年4月  黄綬褒賞受賞
平成13年1月 愛媛新聞賞受賞
平成13年3月吉日
古谷和夫氏記念碑建設委員会」
句碑
「生命みな 尊きものよ 春の海 棋典」
・平成5年12月吉日建立
・遊子真珠養殖30周年記念
「いのちなる海」
・古谷和夫詩、和田香苗曲

住吉公園【宇和島市住吉町2丁目】
・宇和島測候所がある。

ふれあい広場【宇和島市宮下】

保手公園【宇和島市坂下津】

堀部公園【宇和島市長堀(ながぼり)】
2005/6/4
・三島神社の当初の鎮座地。
温故知新の碑

→「宇和島の自然と文化(四訂版)」、宇和島市文化協会、平成4年12月1日)

長山閑子句碑
「まいまいの舞ひ疲れては草による」
高畠明皎々句碑
「城南の春静かなり黄楊の花」


祭り

イベント

定期闘牛大会
・1月2日
→See.「闘牛」パンフレット

西江寺えんま祭り【宇和島市 西江寺】
・旧暦1月16日

宇和島お城まつり【宇和島市 宇和島城】
・4月第1日曜日

だんだん祭り
・4月上旬
※「宇和島お城まつり」を改称したものか?

定期闘牛大会
・4月第1日曜日
→See.「闘牛」パンフレット

全日本大学選抜相撲宇和島大会
・4月29日

薬師谷渓谷そうめん流し
・6月中旬〜8月中旬

うわじま牛鬼まつり(和霊大祭、和霊さま)
・7月23日、24日に実施。
・7月22日には前夜祭として「宇和島ガイヤカーニバル」と称した踊りで熱気に包まれる。この踊りは、宇崎竜童の作った曲「ガイヤ・オン・ザ・ロード」に乗って行われる。
・子供牛鬼パレードや宇和島おどり大会などが宇和島市中心部で繰り広げられる。
・十数体の牛鬼が竹ボラの音とともに街を練り歩く。商家の前では長い首を低くして威勢良く店先に頭を突っ込み、悪魔払いをする。
・宇和島湾では花火大会が行われる。
・神輿の宮出から宮入までの過程は以下の通り
@町内を練り歩く
A海上渡御
B須賀川を遡る(御幸橋まで、御座船に乗って)
C川の中央に配置された大竹笹を3度巡る。
Dかき手の若者による大竹笹上の榊争奪戦を繰り広げる
E神社に駈け登って宮入する(和霊さまの走り込み)
「真夏の乱舞 『走り込み』 和霊さまフィナーレ」、愛媛新聞、2004年7月25日
※牛鬼
・「おしょうにん」「うしょうにん」などとも呼ばれる。
・虎退治で有名な加藤清正が敵を威圧するため作った物といわれ、全身をシュロの毛、または赤布で覆い、鬼面、牛体、剣を形どった尾を持つ胴の長さ5〜6mの巨大な怪獣。祭礼の花形で悪魔払いの意味が込められている。

定期闘牛大会
・7月24日
→See.「闘牛」パンフレット

定期闘牛大会
・8月14日
→See.「闘牛」パンフレット

お伊勢踊り【宇和島市下波 神明神社】
・9月16日に行われる。
・豊漁を祈り、江戸時代初めより奉納行事として始まった。
・地元男子小学生が色鮮やかなスゲ笠(花笠)をかぶり、着物を着て女装し、扇や御幣を手に太鼓に合わせてゆっくりと踊る。

和船競漕(わせんきょうそう)【宇和島市遊子】
・9月18日に遊子湾で開催される。
・和船は5丁櫓で、1隻あたり漕ぎ手10人と音頭取り2人の計12人が乗り込む。
・200mの距離でスピードを競う。

三島神社秋祭り
・10月14日

伊吹八幡神社秋祭り
・10月16日

三浦天満神社秋祭り
・10月19日

宇和津彦神社秋祭り
・10月29日

パールフェスティバル
・11月第2日曜日

産業まつり
・11月第2日曜日

定期闘牛大会
・11月第2日曜日
→See.「闘牛」パンフレット


施設

宇和島市立歴史資料館【宇和島市住吉町2-4-36】
・JR宇和島駅から車で5分

宇和島市立伊達博物館【宇和島市御殿町9-14】
・JR宇和島駅から車で10分
・入館時間:09:00〜16:30
・休館日:月曜日
・入館料:大人500円、大学生・高校生400円、中学生・小学生250円→無料
・伊達家歴代の古文書・武具・甲冑などの数多くの遺品が展示されている。
・2000年4月25日、リニューアルオープン。
→See.「四国ふるさと自慢-8- 伊達博物館」、愛媛新聞、(日付不詳)

 「伊達は十万石、鶴島城址……」と字和島小唄にもうたわれているように、宇和島は伊達十万石の城下町として発展し、早くから文化の開けた所です。
 元和元年(1615)宇和郡板島の地(現在の宇和島)に、初代秀宗が入国して以来、歴代藩主の善政によって殖産興業、文化の興隆めざましく、香り高い幾多の文化遺産を保有しています。特に八代藩主伊達宗城は賢侯のきこえ高く、内政の充実はもちろん、幕末政局多端に際しては、松平慶永山内豊信島津斉彬らとともに大いに活躍したところから、中央との交流もしげく、他に見ることのできない貴重な文化財が残されています。
 昭和四十七年に市制五十周年を迎えた字和島市は、それを記念して、これらの文化財を公開し、先人の業績をしのび、文化愛護の精神をやしなうと共に、これを伝承し、さらにより高い文化の創造をねがってこの博物館を建設しました。

藍白地黄返小桜染革威鎧(表紙)
 七代藩主伊達宗紀所用の鎧で、春日大社の大鎧を模して作られたことから、別名「春日野鎧」とも称されている。黄返しをし小桜革で威され、竹にすずめの装飾金物が打れた非常に豪壮で華麗な鎧である。
 なお、前立の瓢箪は豊臣秀吉の千成瓢箪のひとつといわれ、現在残っているものはこれ一個だけだといわれている。

(伊達博物館パンフレット)
 
国指定重要文化財・豊臣秀吉画像
・作者不明(狩野派の絵師の作と思われる。)
・慶長4年、西笑承兌の賛文がある。
→See.伊達博物館パンフレット
藍白地黄返小桜染革威鎧

→See.伊達博物館パンフレット

月丸扇紋 女乗物
・第9代藩主・伊達宗徳の正室として、佳姫(秋田・佐竹家)が輿入れした際に使用した駕籠。
→See.伊達博物館パンフレット
月丸扇紋 鏡・化粧道具

→See.伊達博物館パンフレット

大猷院(だいゆういん)御判物
・三代将軍徳川家光から宇和島藩初代藩主伊達秀宗に宛てた十万石領知判物。
→See.伊達博物館パンフレット
松根東洋城句碑
芝不器男句碑

市営闘牛場【宇和島市天満山】
・享和2年(1802)、南宇和郡城辺町で牛を突き合わせたという記録を残すほどの歴史を持つ。

★角突き習俗の起源は、
@鎌倉時代牛の角を突き合わせ力比べをすることを農民が娯楽としていたため
A約300年前、南宇和郡沖で難破したオランダ船を救助した際に、御礼として贈られた二頭の牛が気性が荒く、角を突き合わせて格闘を始めたため
という二つの説がある。

せせらぎギャラリー【宇和島市笹町1-1-11】


学校

温泉

伝説

桜木様【宇和島市寄松】
 今から約300年前、柳沢という侍に仕えていた下僕に永六五太夫という者がいた。宇和島藩で毎年正月に催されていた春狩りでのこと。主人が射た雉を取ってこようと、雉が落ちた場所に行ってみると、他家の下僕がその雉を持ち帰ろうとしていた。両者は互いに自分の主人の射たものだと言い争ったが、結局話し合いの結果、首と胴の二つに分けて持ち帰ることにした。五太夫は胴体の方が食べる所も多いと考えて胴体を持ち帰ったのが、主人は「武士たるもの獲物の首を持ち帰らぬとは何事か」と戒めた。五太夫は、己の過ちを悔い、丘の上で自刃して果てた。その時に、身に携えていた桜の杖を地面に刺していたのが根付き、桜木様と呼ばれるようになった。
(*1)二分割ではなく、まるまる他家の者に獲物を奪われ、それを戒められて自刃したというバージョンもある。


キャンプ

海水浴

日崎海水浴場【宇和島市 日振島(日崎)】

沖の島


人物

その他

大島の石垣【宇和島市蒋淵 大島】

一等水準点【宇和島市城山】

覗岩【宇和島市赤松】

デラ台風日振島遭難者慰霊碑【宇和島市日振島 沖の島】
・昭和24年(1949)6月20日、九州に上陸後猛威を振るったデラ台風で、日振島の漁民106人の尊い命が奪い去られた。



《References》



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