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こたろう博物学研究所
探訪記録:20020303 |
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金山・天道ヶ頭登山【平成14年(2002)3月3日】2月10日の高瀑観瀑の返り道でなべちゃんが発した「今度朝倉の金山(かなやま)に登りません?」という言葉が妙に頭にこびりついていた。「金山?そういやなべちゃんがホームページで紹介していたなぁ...。しかしどの山が金山なんじゃろ?」と地図と睨めっこしてみるのだが、手持ちの地図でははっきりとした位置が掴めない。 先週の日曜日、ふらふらと玉川町方面へと散策に出向き、窓の峠から東を仰ぎ、「ひょっとしてあの辺りかねぇ、金山は」とあれこれ考えていた矢先、なべちゃんからタイミング良く、「今週金山に行きませんか」とのお誘いメールが飛び込んできた。いやぁほんとにタイムリーなお誘いである。 山行計画のメールのやりとりの中でなべちゃんに地図を送ってもらい、所在地がクリアになる。まさしく先週の玉川町内散策で窓の峠から眺めた山ではないか。その時の景色を思い起こしながら、「はよ来んかのぅ、日曜日」とまるで子供の遠足のように浮かれた気分で日曜日を待っていた。 目覚まし時計をいつもの2台から3台に増強し、5:40起床にターゲットを合わす。いつも自分一人山に行くときは、時計のベルがいくら鳴ったところで、辺りが明るくならないと決して目が覚めないのであるが、今日は気合が入っている。1発目のベルで元気良く飛び起きる。
待ち合わせは朝倉村上朝小学校に7:30だというのに、松山の自宅を出発したのは結局6:30。こりゃまずい。松山といってもウチは松山空港に近い西の外れ。松山脱出だけでも小一時間は要する。計画性の無さを悔やみながらも、慌てふためいて車を走らせはじめる。
しかし玉川ダム湖畔で時速30km走行の軽トラックに先を阻まれる。イライラしながら後を付いていき、やっとの思いで追い抜いたと思ったら、工事中の片側通行信号にうまいこと引っ掛かる。しかも最長不倒の2分間停止である。「タイミング悪いのぅ!」と車の中で一人激怒する。 玉川町長谷の三叉路で右折し、県道154号線へと移る。玉川橋のところでも2箇所片側通行になっていることは先週の玉川散策でチェック済みであったが、こちらは二つとも無停止でクリア。さやの峠(斎院の峠)を越え、7:30にギリギリ朝倉村へと滑り込む。約束の時間に2〜3分遅れて上朝小学校へ到着。今日のメンバーであるなべちゃん、わるこさん、悪代官さん夫妻は既に到着している。(遅れてしまってすんません)
(いつもの如く、前振りが長うなってしもたなぁ.....) 今日のルートは、朝倉村の峠集落から金山へ向かい、尾根道を歩いて天道ヶ頭へ。そして帰りは朝倉上の小寺川上流にあるなべちゃんちの山田へ向かって道無き道を下るというルート。 まず2台の車で峠へと移動。峠公民館のところから右折して林道金山線を走る。700mほど入り込んだところで右手に池が見えてくる。その池の脇に車2〜3台置けそうな広場があるが、既に山仕事に訪れた営林関係職員2名が車を停めて仕事の準備に勤しんでいる。我々の車も何とか空いたスペースに停めさせてもらうことができ、7:50頃、いざ登山開始。 少しばかり出来立てほかほかの林道を歩いた後、小川の辺に続く兎道へと移る。ところが兎道の入口には建設機械がでんと居座っていて、しかも切り落とされたヒノキの小枝が散乱し、足元を邪魔するので困ってしまう。そこをなんとか乗り越えてしまえば、あとは意外と歩き易い道が待っている。小川に沿って左岸側に続く兎道を上って行く。最初は竹林が優勢。そのうちスギの植林に変ってくる。小川沿いには、昔は田圃だったことを臭わせるような平坦地がぼつぼつと点在する。
歩き始めて20分強。鬱蒼とした竹林の中に朽ち果てた廃屋が姿を現す。果たして長屋のようなこの建物は一体何に使われていたものだろうか。すっかり朽ち果てているのが少々物悲しい。青々とした笹葉が上空を埋め尽くし、肥料袋が散在する床面であったであろう地面の至る所で突き抜ける生え放題の竹。自然の勢いが、人の生活の匂いを掻き消そうとしているようだ。 ここから一旦、玉川町神子之森へと通じる往還道をトレースして、峠まで上がってみることにする。峠に向かう途中の道の周囲にも、幹周の太い竹が競り合うように立ち並んでいる。竹の繁殖力の強さをあらためて思い知らされる。この辺りは田圃か畑があったものと思われるのだが、それを思い起こすことさえも困難なほど蔓延っている。 途中で、大きく擂り鉢のように陥没した土地がある。「これはかつての鉱山跡では?」「それにしちゃ坑道っぽくないんじゃない?」「竪堀りで採掘したかもしんないよ」とあれこれ議論するが結論は出ない。過去にこの地に住んでいた人・訪れた人のみが知るところであろう。 さてその竹林の暗がりから明るい光の射す峠に向かって上っていくと、ほどなく峠に辿り着く。時刻は8:30。何気なく右手に目をやると天明元年(1781)の墓が1基座っているのが見える。江戸時代からこの地に人が住んでいたことを臭わせる。峠はトウ、タオと呼ぶことが多く、これは手向け(タムケ)から来ていると確か柳田国男が言っていた。村を見下ろすような小高い場所に葬り、先祖の霊に手向ける人々の姿が何となく瞼に浮かんでくる。今となっては、墓の掃除やお参りに訪れる人も居ないようであり、雑草に囲まれた墓標が寂し気に佇むばかりである。 今日は山登りが主目的なので、余り妙な感傷に浸っててはいけない。皆んなと一緒にピークからの眺望を楽しまなければ。
峠での一休みを終えたら、一旦沢まで下って、立派な石崖が築かれた人家跡を訪ねることにする。石崖の上まで上ると意外なくらい明るく、広々とした平坦地が広がっている。そしてこの平坦地の周りを、玉竜・棕櫚・茶など、自然の植生とは言い難い植物達が取り囲むように生えており、確かにこの辺りに人の生活空間があったんだと強く感じさせる。 その平坦地の奥手に一基の碑が建っている。こんな山奥に何故このような碑が建っているのか。碑が建っているということは結構多くの民家がこの地に存在していたということだろう。
明治二十八年春越智丈(←文?)正所有田内人■(←鏡?)要するに、キーワードは「池」と「田」であり、水田を開墾したことを記念して作られた碑であることが想像できる。 ここでの探索を終えた後、少し引き返して、沢の左岸沿いに続く兎道を登っていく。5分ほど上ったところにも、墓標が4〜5基立ち並んでいる。こちらも安永(1772〜1780)、天明(1781〜1788)、文化(1804〜1817)、天保(1830〜1843)の銘が記されている。明治以降の墓碑が全く見当たらないのは不思議な感じがする。 更に20分ほど歩くと、小さな社の残骸と思われる跡に着く。僕が想像するに、ここには小社が鎮座していて、金山毘古命(かなやまびこのみこと)、金山毘売命(かなやまひめのみこと)の2柱を祀っていたのではなかろうか。
この金山の地は、江戸時代から昭和初期まで朝倉鉱山として黄銅鉱などが採掘された地である。それゆえ、この地に住む人々は日々の仕事の安全を願って金山毘古命・金山毘売命を勧請した社を築き、そしてそれがこの地を「金山」と呼ぶようになったのではなかろうか。
さてこの天道ヶ頭という山は天頭ヶ峠と記される場合もある。というか、僕自身はずっとこの山を天頭ヶ峠と記すと思っていた。それゆえ「てんずがとう」と読むのだろうと思っていたのだが、何でこんな名前なのかが全く掴めなかった。しかし、正確な読み方は「てんとがとう」であることが判明すると、もやもやとしていた思いが晴れたような気がした。
さて、山頂を極めた跡は、登りとは別のルートを使って下山。やや北よりの尾根を伝い、最後に道無き道を下って、小寺川上流へと出る。ここがなべちゃんちの山田。梅の花が咲き乱れ、ほのかな香りが一面に漂っている。 時計の針は11:00。お昼にはちょっと早いが、本日のお楽しみ、悪代官さん夫妻が用意してくれたシシ鍋の準備に着手する。わるこさんは所用があり、一時この場を離れていったのだが、取り敢えず冷えたビール(発泡酒)で乾杯。あれこれと歓談しているうちに鍋も程よい状態になる。こうなると食欲が止まらない。約25年振りのイノシシの味に酔いしれてしまう。飲んで食って、そして腹が太れば散策して山菜採ってと贅沢な山間の一時を過ごす。小一時間過ぎて、わるこさんが再び戻ってくる。そしてまた、飲んで食って歩いてを輪廻のように繰り返す。 十分に休みすぎるほど休んで、まったりとした時間を過ごした後、記念撮影で最後を締めて今日の山行を終える。 名残惜しいけれど、またの同行を楽しみにしよう。
といいながら、ここからまだ余韻が残るのだが....。 わるこさん、悪代官さんと別れた後、なべちゃんが「朝倉の巨木」を案内し、かつ「朝倉村誌」を貸してくれると言うので、お言葉に甘えることにする。 一緒に巡った場所は以下の通り。 (1).村民グランド 朝倉の巨木1番:村民グランドの大楠(2).下朝小学校 朝倉の巨木2番:エノキ(3).高大寺川(?) 朝倉の巨木3番:ムクノキ その後、松山までの帰路、いつもの寄り道ぐせが.....。訪れた場所は以下の通り。 (4).根上り松/一本松古墳(朝倉村) 根上り松(5).牛神古墳(朝倉村) 主目的はトイレでの用足し。(6)宝積寺(ほうしゃくじ)(玉川町) ・宗派:高野山真言宗(7).嵯峨子城址(玉川町)〜途中断念 非皆伐複層林試験地(8).龍岡小学校木地分校跡(玉川町) ・昭和27年4月1日設置、昭和44年3月31日閉校。(9).木地観音堂 ・本尊:秘仏十一面観世音菩薩 |
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